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劉備(玄徳)の蜀漢建国を邪魔する曹操(孟徳)、孫権(仲謀)の陰謀
荊州から益州に入った劉備(玄徳)は214年に成都を攻略し劉璋(季玉)を降伏させます。そして、劉璋(季玉)の身柄と財産を保障して振威将軍の印綬を与えた上で公安に送り、豊富な物資と軍勢を手に入れました。さらに劉璋(季玉)の旧臣を積極的に召抱えて人的な面でも大きく充実しました。 当然、曹操(孟徳)、孫権(仲謀)はこの動きが不愉快です。
三国志の物語では数多くの戦がありました。となれば、当然捕まったり、敵兵に囲まれた武将もたくさんいます。人間は絶体絶命の局面でこそ本音が出るといいます。三国志の英雄たちはどのような本音を出したのでしょうか?
娯楽やギャンブルとして今でも遊ばれている遊戯の中には、元は戦略シュミレーションの模型だったり、軍隊の訓練の一環として取り組んだものもありました。
パリピ孔明 勉強になるドラマ2話、無中生有(むちゅうしょうゆう)
孔明は、歌手を目指す英子のためにアートフェスでのライブをブッキングするが、英子のブースは一番端で、向かいは人気インディーズバンド「JET JACKET」のブースだった。 英子はブースに人が集まるのか不安になるが、孔明は「この戦、勝てますよ」と意味ありげにほほ笑んだ!さて、軍師 孔明の策は!?
前回に引き続き、裏切りに裏切りを重ねた呂布の行動を現代風にアレンジして説明します。結末を知っている方もそうでない方も楽しめるように工夫してみました。一風変わった三国志の世界観をどうぞご覧ください。物語はフィクションです。念のため
曹操は、荀彧との出会いで、魏王朝を築き上げる偉業を成し遂げました。このような出会いは滅多にありません。
「泣く子もだまる」最強の武将 張遼(5) 大物食いの武将・楽進
三国志の大きな見せ場でもある、曹操軍と孫権軍の攻防戦。曹操軍の将として、要地・合肥(がっぴ)の守備を任せられた男こそ、勇将として名高い張遼でした。張遼はいかにして孫権軍と戦ったのか、じっくり見ていきましょう。
反乱討伐・異民族対策でキャリアを積み、ついに政権をにぎった董卓。武将としてすぐれた力量を示した彼ですが、勝手が分からぬ朝廷の政治では、かなりの苦心をしています。董卓は自分の政権を強化するため、名士(社会的名声のある知識人)の支持を取りつけようとしました。はたして彼の人事政策は上手くいったのか?じっくり見ていきましょう。
曹操とは何者だったのか(青年編 4) 何進も董卓も、俺の相手ではない
霊帝の死後、政局は一気に動き出します。何進、董卓といった権力者たちの動向は、曹操の進路にも大きな影響をあたえましたが、曹操は彼らの政治が上手くいかないことを、前もって見抜いていたのです。
破竹の勢いは、三国志の終盤となる呉平定の時の故事成語の一つです。
パリピ孔明 勉強になるドラマ。1話、石兵八陣(せきへいはちじん)
三国志の天才軍師・諸葛孔明は、五丈原の戦いで病死する直前、次の人生は「命のやり取りなどない平和な世界に生まれ変わりたい」と願った。そして、その願いが2023年のハロウィンの渋谷に転移して叶ってしまうのだ! さて、現代でも軍師、諸葛孔明の知恵は、生かせるのか? 当面、ドラマ連動記事を書いていきますよー。
「孫子」には何が書いてあるの?(4) 戦争の勝敗はココで決まる―――三国志の実例から
戦争の勝敗を見極める具体的ポイントとして、孫武は「七計」という考え方を提唱しています。それをただご紹介するだけでは解りにくいので、三国志での具体例を使ってお話して行きたいと思います(前回の続きです)。
三国志にはあの有名な孔子の子孫も登場しています。その者の名は孔融(文挙)。 劉備(玄徳)、諸葛亮(孔明)らに比べれば知名度は劣りますが、彼も祖先の孔子と同様に大変優秀な人材でした。
これまで編案されてきた、24種類の歴史書の中でも名著と言われる正史三国志の生みの親陳寿は、山あり谷ありの人生を歩みました。前編では正史三国志を記す前に諸葛亮の伝記を書いたことで、司馬炎のお気に入りになったところまでを書きました。しかし、彼の波乱万丈人生はまだ後編でも続きます。
三国志の力関係でいけば、魏が一番大きな力を持っていました。魏には曹操(ソウソウ 155年―220年)の代から優秀な武将が多く揃い、軍略に長けて戦場に赴く知将と武器を持って戦う武将、政治的な知見を持って国を発展させていく文官がいます。その中でも親子で活躍した文官の陳グン・陳泰についてご紹介していきます。
三国の一つ呉の国の土台を築いたのは、皇帝孫権の兄孫策です。小覇王と称されたくらいですから、楚の国の英雄だった覇王項羽なみの武勇を誇っていたのでしょう。ですが、それだけで国を興すことは出来ません。果たして一国を築き上げた孫策とはどのような人物だったのでしょう。
有能な武将を率いて一代勢力に築いたのが孫策であり、それを受け継いで皇帝にまで登りつめたのが弟の孫権でした。しかし、彼らには偉大な父の孫堅が築き上げた基盤があり、当時の権力者・董卓に立ち向かっていました。そんな呉の基盤を作り上げた孫堅の戦歴をみていきましょう。
戦場では気力が充実した者同士が戦い、策を講じ、運に左右されて勝敗が決まることばかりではありません。自らの緩み、怠慢が原因で「自滅」する場合もあります。「内から敗れる時が真の敗北」などとも言われますが、三国志の戦いの中で「油断」によって戦いの勝敗が決した場面を考えてみます。
三国時代で劉備(玄徳)が建国した蜀は、その死後も諸葛亮(孔明)や多くの有能な家臣が盛り立てていきました。しかし、魏の強大な力に対抗する人材も乏しくなり、遂には降伏の道を選んでしまいます。その後、蜀の人材や土地を守るために降伏後も貢献し続けた功臣であるショウ周(允南)と羅憲(令則)をここで紹介していきます。
危急存亡の秋とは、「危険・災難が差し迫り、そのまま存続できるか、それとも滅びてしまうかの瀬戸際」を表す言葉です。