水魚の交わり(水魚之交 現代語訳)
■ 水魚の交わり(水魚之交 現代語訳)
水魚の交わり(水魚之交 現代語訳)
水魚の交わり は、「魚は水があったら生きていられる」という例をもって「欠くべからざる友の存在」を喩えたもので、「水と魚のように切っても切れない親しい関係」を「離れることができない、親密な間柄や交際」の喩えなどに用います。
蜀の劉備は、重要な相談を諸葛亮 孔明とばかり行っていました。
それをみて、桃源の誓の頃から親密であった関羽と張飛は、嫉妬?し、面白くありません。
つい、いろいろと文句も言いたくもなります。
しかし文句を言うと、劉備は、「孤(こ)(天子の一人称=わたし)に孔明がいるのは、魚が水を得たようなものだ。二度と文句を言ってはならぬ」とたしなめていました。
その部分を表した原文の一例と現代語訳(口語訳)を紹介します。
原文:「興亮情好日密 曰 孤之有孔明 猶魚之水也」
訳:「こうして(劉備と)亮の親交は日毎に深まっていった。劉備は『私にとって孔明がいることは、言うなれば魚に水があるようなものだ』と言った」
三顧の礼
■ 三顧の礼
三顧の礼
劉備は最初の会見で諸葛亮 孔明の才能を知り、その後、三顧の礼を持って向かい入れ、交情が親密になっていきました。
もともと、劉備の陣営には、関羽や張飛をはじめ、ずば抜けた戦闘力を持つ人材はそろっていましたが、戦略を立てられる者が不足しており、それが勢力を拡大できない原因となっていたと劉備は感じていました。
劉備は、諸葛亮 孔明と会って、ようやく求めていた人材が得られたと、ようやく国作りができると強く感じたのでしょう。
劉備が急激に諸葛 亮 孔明と親睦を深めていくにつれ、側近であった関羽と張飛は、面白いわけはありません。
文句(違う戦略)も言ったに違いありません。
が、結果からもわかるように諸葛亮 孔明の戦略と関羽や張飛の力での陣取りは、その後の領土維持含め国作りという意味では、雲泥の差がありました。
その後、関羽と張飛は、何も言わず、諸葛亮を受け入れるようになります。
また、諸葛 亮 孔明も、しばらく後で、関羽を「髭ひげどの」というあだ名で呼ぶようになっているので、親しくなっていったようです。
目的を明確にすれば、お互いが簡単に理解できることだったのです。
水魚之交 (水魚の交わり)
■ 水魚之交 (水魚の交わり)
水魚之交 (水魚の交わり)
さて、魚は、劉備を喩(たと)え、水は諸葛亮 孔明を喩えていますが、魚が自由に動けるのは水があってこそです。
この時代背景から、もともとは君主と臣下の関係が親密なことを言ったのでしょうが、今は、上下の身分関係なく用いられています。
離れることができない、親密な間柄や交際をたとえ、水と魚のように切っても切れない親しい関係をいいます。
もちろん、夫婦仲がよいことで用いてもいいでしょうね。
水魚之交(すいぎょのこう)とも言います。
中国古代、魚は一般的な隠語として配偶者・恋人を意味しています。
民歌や漢詩では、魚を男性の隠語とし、男女の情愛や配偶の暗喩に用いられる例が多いです。
劉備は、関羽、張飛を納得させた説明に、「三人は桃園の誓いで結ばれた兄弟」のような関係とし、孔明との関係を夫婦のような関係に例え、「我ら義兄弟には何ら影響しない」と伝えたとされています。
余談ですが、吉川英治の小説『三国志』では、張飛が劉備・孔明の「水魚の交わり」に嫉妬を募らせ、曹操軍に攻め込まれた際、劉備に「たいへんな野火ですな。水を向けて消したらいいでしょう」と皮肉を言っています。
水と魚の関係、たくさんあるといいですね。
水魚の如し
■ 水魚の如し
水魚の如し
その他、徳川家康と本多正信の主従関係が「水魚の如し」として名高いです。
本能寺の変以降、徳川家が発展しますが、そうなると戦よりも外交が重要になってきます。
本多忠勝など徳川四天王が徳川家康から遠ざかりますが、本多正信はむしろ徳川家康との距離を短くしていきます。
徳川家康よりも年長。しかも従来の徳川家の家臣にはなかった策略の才能があったためです。
徳川家康は本多正信を重用し、2代将軍秀忠の時代になると今度は徳川秀忠の側近として大きな権力を振るうようになりました。
やはり武力より知略を重んじる時期は、いずれ誰にも来るようです。
管鮑の交わり(かんぽうのまじわり)
■ 管鮑の交わり(かんぽうのまじわり)
管鮑の交わり(かんぽうのまじわり)
好きな物語なので追記させていただきました。
「管鮑の交わり」も、中国の古典を基にした故事成語です。
中国春秋時代に名宰相と言われた管仲(かんちゅう)と、その親友の鮑叔牙(ほうしゅくが)の生涯を通した厚い友情が由来です。
「私が昔貧乏だった頃、鮑叔と一緒に商売をした。儲けを分ける段では、私がいつも多くとった。だが彼は私を欲張りだとはいわなかった。私の家が貧しいことを知っていたからだ。
鮑叔のためにと思って行ったことが失敗し、かえって彼を窮地に陥れてし
まったことがあった。だが彼は私を愚か者とはいわなかった。物事は上手
くいきときも、上手くいかないときもあると解ってくれたからだ。
何度も仕官しては何度もお払い箱になったが、鮑叔は私を無能呼ばわりし
なかった。私がまだ「時」に恵まれていないことを知っていたからだ。
私は何度も戦に出て何度も逃げ帰ったが、鮑叔は臆病者とはいわなかった。
私には養わなければならない老母がいることを知っていたからだ。
・・・」
管仲(かんちゅう)も鮑叔牙(ほうしゅくが)もともに中国の春秋時代(紀
元前8~5世紀)、斉の国の政治家で、春秋時代最初の覇者として知られる斉
の桓公に仕えた人物です。
冒頭に書いたものは、管仲が晩年に鮑叔との関係を述懐した言葉です。
こんな苦労をした管仲ですが、最後は凡庸であったといわれる君主の桓公を
補佐して斉の国力を高め、桓公を覇者の地位まで押し上げました。後世の人
はそんな管仲の力量を評して
一国は一人をもって興り、一人をもって亡ぶ
と言っています。長い中国の歴史においても、名宰相といえば真っ先に名が
挙がる大政治家、それが管仲です。
その管仲を宰相とするようにと、桓公を説得したのが親友だった鮑叔です。
述懐にあったとおり、若い頃から行をともにすることの多かった管仲と鮑叔
はともに斉の国に仕官しました。この斉への仕官がやがて二人の運命を大き
く動かすことになりました。
斉の国に仕官した二人はここで、管仲は公子(君主の子)糾に、鮑叔は公子
小白にそれぞれ仕えることになり、その能力を買われてそれぞれ側近として
重きを為すようになります。ちょうどそのころ、暴虐だった先代の君主が謀
反にあって亡くなりました。
謀反という異常な事態で急に君主の座が空いたことによって、二人の仕えた
公子糾と小白の間で、跡目争いが起こりました。管仲と鮑叔はこの跡目争い
の中で、敵味方に分かれました。糾側の管仲はこの争いの間、小白の即位を
食い止めるために、小白の暗殺まで試みています。
この跡目争いは、最後は鮑叔が仕えた小白の勝利に終わります。この公子小
白が後に覇者となった桓公です。
跡目争いに敗れた公子糾は処刑され、管仲も捕らえられて処刑を待つばかり
という窮地に陥ります。その窮地から管仲を救ったのは鮑叔です。管仲の高
い能力を知る鮑叔は、桓公に管仲を召し抱えるべきだと強く推挙します。
自分を暗殺しようとまでした管仲のことですから、信頼する鮑叔の推挙でも
桓公が簡単には首を縦に振るはずがありません。しかし鮑叔も引き下がりま
せん。
天下に覇をとなえる志があるなら、
管仲を宰相(臣下の最高位)とするべきです。
とますます強く推挙します。
「天下に覇をとなえる志があるなら」という言葉に、ついに桓公も折れて、
管仲を宰相として迎えました。
こうして斉の宰相になった管仲は、鮑叔の期待を裏切ることなく、「一国は
一人をもって興る」と評されたその力を発揮します。管仲を推挙した鮑叔は、
一歩下がって管仲を補佐し続けました。
人々は、管仲の類い希な才能を賞し、それ以上にその才能を見抜いて信じた
鮑叔の明知を賞したそうです。
冒頭の述懐を管仲は次の言葉で結んでいます。
「・・・
私を生んでくれたのは両親だ。
そして、私を理解してくれたのは鮑叔だ」
と。2700年前の管仲と鮑叔牙の物語でした。