曹操とは何者だったのか(青年編 4) 何進も董卓も、俺の相手ではない

曹操とは何者だったのか(青年編 4) 何進も董卓も、俺の相手ではない

霊帝の死後、政局は一気に動き出します。何進、董卓といった権力者たちの動向は、曹操の進路にも大きな影響をあたえましたが、曹操は彼らの政治が上手くいかないことを、前もって見抜いていたのです。


皇帝直属軍の指揮官のひとりに

皇帝直属軍の指揮官のひとりに

皇帝直属軍の指揮官のひとりに

188年、西園八校尉(さいえんはつこうい)という、皇帝(霊帝)の直属軍が創設されました。このとき曹操も、直属軍を率いる将校のひとりに選ばれました。
この西園八校尉、霊帝自らの人選なのか、なかなかの人物をそろえていました。
曹操以外にも、宦官の実力者である蹇碩(けんせき)、後に曹操のライバルとなる袁紹(えんしょう)、その袁紹のもとで武将として活躍した淳于瓊(じゅんうけい)など、三国志ファンにはたまらない顔ぶれがそろっていたのです。

おそらく霊帝は、この直属軍によって皇帝権力の強化を目指していたものと思われます。
しかし……この通好みの(?)人選をした西園八校尉は、ほとんど活躍する機会がありませんでした。なぜなら西園八校尉の創設からほどなくして、霊帝が崩御してしまったからです。

霊帝死後の政局―――何進 VS 宦官

霊帝死後の政局―――何進 VS 宦官

霊帝死後の政局―――何進 VS 宦官

霊帝の死後、皇太后(何太后/注)の子である劉弁(少帝/注)が即位します。そして何太后の兄であり、これまでも政治の中心にあった大将軍・何進(かしん)の権勢がさらに高まりました。
ちょっと話がややこしいので、人物を整理しておきましょう。

何太后(かたいこう)……大将軍・何進の妹。その美貌によって後宮に入り、霊帝の愛を受けて皇后(何皇后)となった。霊帝の死後は皇太后(何太后)となり、息子の劉弁を即位させる。しかし何進の死後、董卓(とうたく)によって劉弁が位を追われ、母子ともに殺害された。
少帝(しょうてい)……名は劉弁。霊帝と何皇后(何太后)の子で、何進の甥。霊帝の死後、何進らの後押しを受けて即位する。しかし何進の死後、政権を握った董卓(とうたく)により廃立され、殺害された。
何進(かしん)……荊州南陽郡の人で、屠殺業を家業としていた。後宮に入った妹(何皇后・何太后)が、霊帝に愛され皇后となったことで出世し、大将軍になる。霊帝の死後は甥の劉弁(少帝)を即位させ、外戚として権勢を振るうが、宦官に謀殺(ぼうさつ)された。

霊帝の死後、大将軍・何進は、宦官(かんがん)の打倒を決意しました。
宦官とは、皇帝の身の回りの世話をする去勢した役人です(曹操の祖父も宦官の出身でした)。しかし皇帝に近い立場を利用して、権勢を振るい、汚職をくり返したため、政治腐敗の元凶とみなされていたのです。

もっとも宦官の扱いは宮中の問題ですから、彼らを一掃するには何太后の許可を得る必要がありました。しかし何太后は何進の妹であるにもかかわらず、その要望を却下しました。何太后は宮中に入るさいも宦官の力を借りており、宦官とは親密だったのです。
そこで何進は、何太后に圧力をかけて宦官打倒に合意させようと、精強で鳴る董卓の軍勢を地方から呼び寄せて脅しをかけたのです。

曹操は、何進をこう見ていた

曹操は、何進をこう見ていた

曹操は、何進をこう見ていた

こうした何進の宦官対策を、他ならぬ宦官の孫である曹操は、こう一笑に付したといいます。
「宦官など、昔からいつの時代にもいた存在だ。宦官そのものが問題なのではなく、君主が彼らに権力を与えることが問題なのだ。
 それに宦官を処分するなら、張本人だけを処刑すればいい。わざわざ都の外から軍を呼び寄せる必要などない。
 宦官を皆殺しにしようとすれば、必ず計画は相手にもれる。私には大将軍の失敗が目に見えるのだ」

事実、何進と宦官の争いは、曹操の予見したとおりの結果となりました。宦官の謀略で、宮中にまんまとおびき出された何進は、その場で殺されてしまったのです。
また曹操は知識人であるとともに、高位の宦官(曹騰)の孫だけあって、宦官というものの本質をよく理解していたように思います。中国の歴代王朝は、どれだけ宦官の弊害が大きくとも、ついに宦官の制度を廃することができませんでした。宦官というシステムは、中国皇帝の私生活と密接に結びついていたため、排除のしようがなかったのです。

董卓の誘いを拒絶! 曹操の逃避行!

董卓の誘いを拒絶! 曹操の逃避行!

董卓の誘いを拒絶! 曹操の逃避行!

何進の死後の混乱を経て、政権を握ったのは董卓でした。何進の残党を吸収するなどして巧みに軍事力を増強した董卓は、何進の甥である少帝を廃立し、新たに少帝の異母弟である劉協(献帝)を帝位に就けました(あまりに強引な手法に反発も起きましたが、何進や何太后の一派の影響力を削ごうとしたのでしょう)。
こうして新たな権力者となった董卓でしたが、彼は中央の政治家との人脈がほとんどなく、中央での政治経験のある人材をひとりでも味方につけたいと思っていました。そこで彼が目をつけたひとりが……他ならぬ曹操だったのです。董卓は曹操を招き、今後の政権運営について相談したいと願ったのです。

ここで董卓の誘いに乗っていれば、あるいは曹操は董卓政権で出世していたかもしれません。
しかし曹操はこの誘いを拒絶し、董卓に捕らえられる事を恐れて、名前を変えて逃亡したのです。
結果として、曹操のこの時の判断は正しかったといえます。董卓は一時的に権勢を振るうも、彼の政権は長く続かなかったからです。思うに曹操は、董卓の強引な政治手法が反発を買うことや、中央での権力基盤が弱いことを、十分に見抜いていたのでしょう。

「勘違い」で知人を殺害!?

「勘違い」で知人を殺害!?

「勘違い」で知人を殺害!?

こうして故郷へと向かった曹操は、その途上で、旧知の仲である呂伯奢(りょはくしゃ)という人物の家に立ち寄ります。きびしい逃避行を続けた曹操たちが、知人の家でつかの間の休息を得ようとしたのでしょう。ところが曹操は、この呂伯奢の一家を皆殺しにしてしまうのです。
いったい何があったのか? 史書はそれぞれ、このように記しています。

「呂伯奢の子供たちが、曹操を脅して物品を奪おうとしたため、曹操自ら数人を殺した」(魏書)
「呂伯奢の子供たちは礼を以って曹操を迎えたが、曹操は疑心暗鬼にかられ、一家を殺した」(世語)
「呂伯奢の家族が準備する食器の音から、曹操は(刃物の音と聞きまちがえたか)一家が自分を殺すつもりだと勘違いし、一家を殺害した」(雑記)

史書によってニュアンスが違うので、どうにも真相がつかみにくいところです。
なお、陳寿が記した「三国志」の本文には、この件についての記述はありません。
しかし別の複数の史書に記述があるのですから、このエピソードのモデルになるような、なんらかの事件があったのかもしれません。

ちなみに史書のひとつ「雑記」には、呂伯奢一家を殺してしまった曹操の、悲痛な叫びが記されています。
「俺が人を裏切ることがあろうとも、人が俺に背くことは許さぬ」
曹操が本当にこう言ったかはともかく、このセリフは小説「三国志演義」でも採用され、曹操の悪役イメージの形成に大きく影響したといわれています。


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