孔子の子孫が三国志に登場
■ 孔子の子孫が三国志に登場
孔子の子孫が三国志に登場
三国志には儒教の開祖で知られる孔子の子孫も登場します。その者の名は孔融(文挙)。劉備(玄徳)、諸葛亮(孔明)らに比べれば知名度は劣りますが、彼も祖先の孔子と同様に大変優秀な人材でした。今回は孔融(文挙)と孔子の思想や影響力について説明します。
孔 融(文挙)
■ 孔 融(文挙)
孔 融(文挙)
後漢末期の文官で、曹操(孟徳)に仕えた人物です。儒教の開祖孔子から数えて20代目にあたる直系の子孫です。「後漢書-孔融伝-」によれば、孔融(文挙)は若年期のころから英明の誉れが高く、学問がとことん好きでありとあらゆる書物を読みあさり博識になったとあります。
曹操(孟徳)に仕える以前は朝廷の官吏をしており、宦官と外戚による汚濁政治の最中は北海国の相になりました。
そのうえ黄巾党の乱のあとは反乱によって荒れ放題だった青州に刺史として朝廷から派遣され、今の山東省周辺の地域を支えました。孔子の20代目の子孫ということもあり、彼のもとにはたくさんの優秀な人材が集まりました。彼はそこからさらに吟味して王修など特に優れた者たちを推挙し、先祖の開いた儒教の布教活動を率先して行いました。
三国志に登場するシーン
■ 三国志に登場するシーン
三国志に登場するシーン
黄巾党の乱のあと、劉備(玄徳)は徐州刺史の陶謙を頼って居候をするのですが、陶謙に人柄を買われて徐州刺史の後任を頼まれます。しかし、劉備(玄徳)は子の陶商・陶応こそが後任にふさわしいといって断ります。
老齢だった陶謙は病にかかり、もはや自分もこれまでということで、陶謙は亡くなる直前に劉備(玄徳)を寝室に呼び、子の陶商・陶応が不出来であるということを理由に徐州刺史の後任を嘆願しました。劉備(玄徳)はこれに即答することができず、返事をうやむやにしているうちに間もなく陶謙は病死しました。孔融(文挙)は陶謙の遺託に従い、後任を引き受けるよう劉備(玄徳)を説得し、成功しています。
曹操(孟徳)に仕官し最期をとげる
■ 曹操(孟徳)に仕官し最期をとげる
曹操(孟徳)に仕官し最期をとげる
袁紹(本初)が勢力を急激に拡大させ、その長男袁譚に攻撃を受けて曹操(孟徳)のもとへ流れます。その後も朝廷に仕え続け、宮内庁のような機関の大臣の将作大匠・少府・太中大夫を歴任しました。孔子の子孫という立場と文才で文官の中心的人物となり、朝議では率先して質疑応答の発言をしていたそうです。
また曹操(孟徳)とは事ある毎に意見を衝突させていました。さらに彼は曹操(孟徳)の政策に納得がいかなければ、故事や前例を持ち出して厳しく詰め寄ったり、些細なことにも注意をしました。
そのため、曹操(孟徳)は日ごろから彼のことを煙たがっており、邪魔に感じていました。
そして呉から使臣が来訪したとき、孔融(文挙)が世間話をしながら曹操(孟徳)の文句を並び立てたことに腹を立て、呉からの使臣に曹操(孟徳)の誹謗中傷をしたという罪を着せられて逮捕され、妻子ともども処刑されました。
孔子
■ 孔子
孔子
孔子は春秋戦国時代の思想・哲学者であり、韓国や北朝鮮の人々が進行している宗教の儒教の開祖です。現在から焼く2550年前に周王朝の武王の弟である周公旦(しゅうこうたん)が建国した魯国に誕生しました。
周は建国当初「『礼(礼儀)』によって国を治める」をスローガンに掲げて興りましたが、時を経ると大小含めたくさんの都市国家が形成されて人口の流動化と実力主義が横行しました。すると、帝を頂点とする帝→王侯→臣下→民→奴隷という古くから受け継がれてきた氏族共同体を母体とする身分制秩序が崩壊しつつありました。
孔子は周建国当初の社会を理想として復古すること、身分による秩序の再編成、仁道政治を行うことを提唱しました。
孔子の死後、彼の弟子たちは彼の思想を奉じて教団を作り、諸子百家(しょしひゃっけ/しょしひゃっか)のひとつとなる儒家となりました。
弟子は3000人
■ 弟子は3000人
弟子は3000人
孔子には3000人の弟子がいたといわれています。3000人も弟子がいてすべての弟子たちに平等に対応できたのか?という疑問は生じますが、「身の六芸に通づる者」として70人。その中で特に優れた10人を「孔門十哲(こうもんじってつ)」に名を連ねる弟子がいたそうです。
残念ながら高弟としてランクインできなかった者の中には荀いくや荀ゆうの祖先である性悪説を唱えた荀子や性善説を唱えた孟子がいます。
人生の道しるべは周公旦
■ 人生の道しるべは周公旦
人生の道しるべは周公旦
あなたにも人生の道しるべとして尊敬している方がおられることでしょう。歴史上の偉人や学生時代の恩師、はたまた自身のご両親や祖父母かも知れません。
孔子の場合は先ほども少し出てきた周公旦(しゅうこうたん)もとい、姫旦(きたん:周公旦は敬称で、本名は姫旦)を人生の道しるべとして人生を送りました。
孔子は周公旦を理想の聖人として崇拝しました。あなたも学生時代に国語で学習したはずである『論語』は孔子とその弟子たちの残した語録集ですが、それによれば「先生は周公旦を常に敬愛し、毎晩夢で周公旦を見ていたが、あるときその夢をみなかったので『わたしも年をとったなあ』と先生は嘆いていた」とあります。
孔子が周公旦を崇拝したのは、周公旦の生き様そのものが孔子の理想だったからです。
殷王朝を兄の武王とともに打倒し周王朝を建国したが、兄の武王は帝位についてわずか2年で早世してしまいました。武王の息子の成王は当時まだ10歳ばかりの少年で、「次期王は周公旦がなるべき」という声が大多数上がりました。しかし、周公旦はこれを拒み正統な血脈の者が王座を継ぐことを主張し、異議を唱える者たちを説得しました。そして、成王を王座に擁立すると自ら補佐し、大人になると少しずつ権利を返上しながら様子を見て甥を立派な名君に育てました。さらに周王朝の礼制を定め、礼学の基礎を築き、儀式や儀礼のマニュアルとなる「周礼」や「儀礼」というタイトルの著書を記しました。
孔子は周公旦が大成した周王朝当初の古い礼制を固く守り、自分なりの解釈をまじえてまとめあげ弟子たちに伝承しました。そして今度は弟子たちが孔子の教えをさらに多くの人々へ伝えていき、漢の時代にようやく国教化されることとなりました。
孔子の子孫たち
■ 孔子の子孫たち
孔子の子孫たち
孔子の子孫であると自称するものは大変多く、直系でなければ現在400万人を超えると言われています。国教化された儒教を築いた孔子に敬意を表し、歴代の皇帝たちは孔子に様々な称号を贈り(封号という)、子孫たちも厚遇しました。子孫たちが厚遇された理由は第一に孔子の子孫を絶やさぬため。第二に孔子の墓を守り続けるため。第三に孔子の屋敷を維持管理させるためです。
祖先を祭ったり、屋敷や墓を維持管理するにはお金や体面がどうしても必要になります。歴代皇帝たちはそれを不自由なく行える財力と地位を確保する目的で孔子の子孫たちを手厚く礼遇しました。
孔子の家系図は「孔子世家譜(こうしせかふ/こうしせけふ)」と言われ、孔子から現在83代目の子孫に至るまでが収録されています。この家系図は2005念にギネス・ワールドレコーズにて「世界で一番長い家系図」に認定されました。
孔子世家譜の改定は現在に至るまでの間に国を挙げて5度も行われ、初回は明の時代、2回目と3回目は清の時代、4回目は中華民国時代、5回目は1998年~2009年まで行われ、その年の9月24日に完成しました。
まとめ
■ まとめ
まとめ
孔融(文挙)は本やドラマの中で、徐州刺史になるよう劉備(玄徳)を説得する脇役に過ぎません。その後はあっさり曹操(孟徳)に処刑されて、印象が薄いキャラクターです。ちなみに関羽(雲長)の愛読書である「春秋」の著者は孔融(文挙)の先祖である孔子です。関羽(雲長)は孔融(文挙)に教えを乞うたようですが、それさえもストーリー上では省略されています。
劉備(玄徳)の人生を左右し、あの知識人である曹操(孟徳)でさえも口で勝てなかった相手、それが孔融(文挙)その人です。ちなみに陳寿が書いた正史三国志には孔融(文挙)に関する記述はありません。孔融(文挙)が劉備(玄徳)を説得する話が記録されているのは「後漢書」です。
筆者も漫画や小説などストーリーだけで得た知識しかないのなら、孔融(文挙)について記事を書こうとは思わなかったはずです。
孔融(文挙)のことが題材となっている本は陳舜臣先生作の「中国畸人伝」という本があります。気になる方はぜひご覧になってください。