春秋戦国時代 年表 と キングダム の世界

春秋戦国時代 年表 と キングダム の世界

三国志、三国時代の前には、キングダムの世界があり、その前から脈々と続く、面白い中国の歴史に出会いました。
夏→商→周→春秋戦国時代(紀元前770年 – 紀元前221年)→秦(紀元前221年~207)→漢(紀元前206年~220年)→三国時代(220年~581年)順を追って一緒に学びませんか?


キングダム 運命の炎

キングダム 運命の炎

キングダム 運命の炎

最近、映画『キングダム 運命の炎』を観ました。
ついついハマってしまい、アニメを最初から見始めましたが何と面白い。そして長かった~、まだ先があるようで、2024年1月6日(土)から続きが始まるそうです。
コミックなら先に進めるのですが、ネタバレしてしまうので、アニメと映画を楽しむため耐えています。
という訳で、キングダムの時代を知りたくなり、その前の時代にさかのぼり、調べ始めました。映画でも何度も出てくる40万を生き埋めにしたという「長平の戦い」など、興味深い出来事が満載でした。
三国志のメディアではありますが、あえて「春秋戦国時代」焦点をあてて記事を書いていこうと思っています。
中国の歴史から見ると三国時代から550年前にさかのぼります。
今回は、ざっくりと、映画やアニメの秦の衛が生まれる前まで春秋戦国時代にあった 気になる出来事を書いてみました。
一緒に、学んでいければ幸いです。

春秋戦国時代の華麗なる序章~戦国七雄の興亡

春秋戦国時代の華麗なる序章~戦国七雄の興亡

春秋戦国時代の華麗なる序章~戦国七雄の興亡

遠い昔、中国大陸は未曾有の混乱と戦乱に包まれていた時代がありました。
それは、戦国七雄と呼ばれる国々が争い、覇権を競い合った春秋戦国時代です。
しかし、これはあくまで序章であり、キングダムの物語の始まりよりも遥かなる時代の物語なのです。

春秋戦国時代、中国の大地は紛争の炎に包まれ、王国同士が権力と領土を巡って熾烈な争いを続けていました。
戦国七雄、それは魏、趙、燕、韓、魏、楚、斉という七つの大国もその一部。
彼らの間で交わされた策略、同盟、裏切り、そして壮絶な戦闘の数々は、まるで壮大な叙事詩のようでした。

この時代に生きた人々は、自分の国の存亡をかけ、巧妙な策略と勇気ある戦いに挑みました。
彼らの物語は、キングダムの主人公・信と同様に、勇気、忍耐、そして友情という価値を体現するものでした。
戦国七雄の興亡、その歴史はキングダムの前章とも言えるものであり、この物語の魅力をより深く理解する鍵となっています。
彼らの時代がいかに中国史に大きな影響を与えたか、そしてそこに隠された数々の秘密と謎に迫ることで、春秋戦国時代からキングダムの時代へと続く神秘的な魅力を探求してみましょう。
※本記事では、呉・越に関しては、あえて外してあります。

中国 春秋戦国 時代 年表  流れを追って

中国 春秋戦国 時代 年表  流れを追って

中国 春秋戦国 時代 年表  流れを追って

太公望と文王、武王

太公望と文王、武王

太公望と文王、武王

紀元前8世紀頃の中国は、殷(いん)に統治され、紂王(ちゅうおう)は、「酒池肉林」と言われるほど、悪政が続いていました。
諸侯の一人に過ぎなかった西伯は、餌を付けずにつりをしている老人に会いました。

「餌なしで魚が釣れるのか?」
「釣れないだろうな」
「では、何が釣れるのだ!?」
「もしかしたら天下が釣れるかもしれん・・・」
老人は太公望と呼ばれました。
こうして、太公望を軍師として、文王、武王の二代にわたって殷を滅ぼして天下をとり、周 王朝を築きました。

このエピソードには、古代中国の政治と哲学に対する洞察が含まれ、権力、賢明な指導、および正義に対する考え方を示しています。また、リーダーシップや支配のあり方、道徳性など、多くのテーマが絡み合って展開されています。

その後、時代は流れ、紀元前770年頃 王権の衰退もあり、周が洛邑(現在の洛陽)に遷都し、東周が始まり「春秋時代」の始まりとなりました。

春秋五覇の登場

春秋五覇の登場

春秋五覇の登場

春秋五覇とは、中国の春秋時代に、中原に覇を唱えて、覇者として互いに争った有力な諸侯を5人挙げたものです。春秋時代は、周王朝が衰退し、諸侯が群雄割拠する時代であり、春秋五覇は、その中で最も強大な勢力を誇った諸侯でした。

春秋五覇は、斉の桓公、晋の文公、楚の荘王、呉王闔閭、越王勾践と言われています。
ただし、春秋戦国時代、戦国七雄をメインとしたいので、呉越の代わりに、秦の穆公(ぼくこう)、宋の襄公(じょうこう)を中心に紹介していきます。

五覇のうち、斉と晋は周王を尊び、異民族を打ち払って中原を安定させることを目指し、楚、呉、越は周王を倒すことを目標としていました。
周王朝の衰退と諸侯の台頭を象徴するものであり、中国が新たな時代へと移行しつつあることを示していたのです。
春秋五覇の五という数字は、五行説に従って後の人がつけたものであり、必ずしも五人が重要という意味ではないそうです。

桓公と管仲の共同統治

桓公と管仲の共同統治

桓公と管仲の共同統治

紀元前686年 斉の第14代君主 襄公が公孫無知(こうそんむち)の謀反によって殺害され、紀元前685年に斉の第16代君主 桓公が即位します。
紀元前667年 斉の桓公が周王の命をうけて覇者と認められるまで、管仲の力が寄与しました。

桓公と管仲の政策によって、斉国は中原の覇権を握り、桓公が諸侯と葵丘(ききゅう)で会盟し覇業を完成します。春秋五覇の第一人者となったのです。
桓公は紀元前685年から紀元前643年まで在位し、管仲は紀元前685年から紀元前645年まで宰相を務めています。

政治改革の具体的な政策は、内政改革では、兵制を整備し、軍備を強化し、経済政策を推進し、国力を増強しました。法制を整備し、秩序を維持したのです。
外交政策では、周王朝を尊重し、中原の覇権を争い、諸侯を従属させ、斉国の勢力を拡大したのでした。

驪姫の乱

驪姫の乱

驪姫の乱

紀元前655年 晋の献公の寵姫 驪姫(りき)が自分の息子・奚斉(けいせい)を太子として立てようとして、申生(しんせい)、重耳(ちょうじ)、夷吾(いご)の追放を謀る驪姫の乱が起きます。申生は罠に嵌められて自殺、重耳は巡り巡って楚へ亡命しました。

楚の成王は、亡命してきた重耳を、礼を尽くしてもてなしました。
ある日、成王は重耳に質問をしました。

「もし貴方が晋に帰れたら、私にどのような礼をしてくれるか?」
「もし晋に帰れたら、晋と楚が中原で戦うことになりましたら、我が晋軍は三舎退きましょう。」
※三舎というのは、軍隊が三日間で進む距離のこと。

その後、どうなったかは、後半へ。

宋襄の仁

宋襄の仁

宋襄の仁

紀元前638年 宋の第20代君主 襄公は、桓公の死後、斉の混乱に乗じて覇を唱えようとしますが、楚が反発して攻め上り、泓水(おうすい)の戦い にて宋が負けてしまうのです。

宋軍は、襄公に「楚の布陣しないうちに攻撃しましょう」と進言しましたが、襄公は「君子は人の困っているときに苦しめてはいけない」と言って、攻めませんでした。その結果、楚は陣を整えて宋軍を攻撃し、宋軍は敗北してしまったのです。
このことから、宋襄(そうじょう)の仁という故事成語が生まれました。

無用のあわれみをかけること、不必要な情けをかけたために、ひどい目にあうことを意味しています。

戦いにおいては、情けよりも勝利が重要であることも示しています。
また、戦いだけでなく、日常生活においても、無用な情けは、仲間や相手に不快感を与えたり、自分の首を絞めたりする可能性があるのですよ。

晋の第24代君主 文公

晋の第24代君主 文公

晋の第24代君主 文公

紀元前636年 重耳が19年間諸国を放浪したのちに帰国して、晋の第24代君主 文公として即位します。

紀元前632年 晋の文公が城濮の戦いで楚を破りました。
この時、「三舎を避ける」が行われます。
文公は、践土(せんど)で諸侯と会盟して覇者となりました。

殽山(こうざん)の戦い

殽山(こうざん)の戦い

殽山(こうざん)の戦い

紀元前627年 晋の第代25君主 襄公(文公の子)が白い喪服を墨で黒く染めて出陣したと言われた殽山(こうざん)の戦いで秦を破ります。
この後、二国の関係は大きく悪化し、紀元前625年に、秦の孟明視が報復のため軍を率いて晋を攻め、彭衙(ほうが)の戦いから始まり、紀元前624年に王官の戦い、紀元前623年に新城の戦いと続きますが、紀元前623年 秦の穆公が西戎(せいじゅう)を征伐し、自国の領土を拡大し、西戎の覇者となりました。

この期間の2国の関係は、春秋時代の大きな転機となります。
もともとは、秦の穆公が西戎征伐するために、晋の襄公に援軍を要請したことから始まります。
晋の襄公としては、秦が西戎を征伐して勢力を拡大することを恐れ、援軍を拒否しました。

秦の穆公は、晋の襄公の援軍を得られなかったため、西戎を自力で征伐し支配権を握りました。
この時、晋の襄公は、秦の西戎征伐を阻止できなかったことを悔やみ、秦を討伐するために出兵し、何度かの戦いが行われたわけです。

この戦いは、晋と秦の勢力均衡を大きく崩す結果となり、晋は覇権国としての地位を失い、秦は勢力を拡大して、春秋時代の覇権国へと成長していきました。

紀元前614年 楚の第6代君主 荘王 即位

紀元前614年 楚の第6代君主 荘王 即位

紀元前614年 楚の第6代君主 荘王 即位

「鳴かず飛ばず」とは、現在では「何の活躍もできないでいる様子」という意味合いが強くなっていますね。

名君と言われている荘王は即位後3年のあいだは何の命令も出さず、昼夜あそびほうけていたのです。そして、3年後に、いきなり国政に専念しはじめました。

まず、荘王が行ったのが、君主が遊んでいる時の臣下の行いを見ての信賞必罰でした。
処刑させた者や昇進させた者、両者とも数百人、そして諫言を行なった伍挙、蘇従に国政を任せ、楚は大きく発展したのです。
「鳴かず飛ばず」は、この荘王の行いから言われたもので、将来の活躍に備えて行動を控え、機会を待っている様子を意味する故事成語なのです。

羊の肉のうらみ

羊の肉のうらみ

羊の肉のうらみ

紀元前607年 鄭の公子帰生が楚の命を受けて宋を攻める 大棘(たいきょく)の戦い が起こります。
宋の宰相 華元(かげん)はこれを迎え撃ちますが、捕虜となってしまいます。
この戦い決戦前夜、華元は全軍に羊の肉を振舞ったのですが、御者の羊斟には羊の肉を与えませんでした。恨んだ羊斟は、翌日の戦いで華元の乗る兵車を、鄭の指揮官のもとへと運んでしまい、華元は捕えられてしまったのです。華元は無事に鄭を脱出でき、宋に帰りました。華元は羊斟を許したのですが、羊斟は魯に出奔しました。

このことから、「羊の肉のうらみ」は、わずかなことでも、相手に強い恨みを抱かせること。些細なきっかけで、大きな争いが起こること のたとえとして使われます。

鼎(かなえ)の軽重を問う

鼎(かなえ)の軽重を問う

鼎(かなえ)の軽重を問う

紀元前606年 洛陽で楚の荘王は、九つの鼎の重さによって、周王室の権威を測り、周王室を滅ぼして、自らが天下を統一しようと考えていました。
九つの鼎の軽重を問うことによって、周王室の権威を揺るがそうとしたのです。

鼎は権力の象徴とされ、その「軽重」が王朝の権威を象徴しています。
鼎の重さは、「天命」、すなわち天から与えられた支配権の強さや正当性を意味します。
鼎の重さを直接計測することなく、その重さを知ることができるのは、天子(皇帝)だけであるとされていました。
従って、諸侯が鼎の軽重を答えられなかったことは、彼らが天命を持っていない、すなわち正当な支配者ではないことを暗示しています。
そのため、諸侯たちが鼎の軽重を正確に答えられないのは、天子だけがその重さ、つまり「天命」を知っているからと解釈されます。

鼎の軽重を問うとは、
・権力者を軽んじて、その地位を奪おうとすること
・相手の実力を疑って、その地位を奪おうとすること
・ある地位の価値や重要性を疑うこと
という意味があります。

食指が動く

食指が動く

食指が動く

紀元前605年 食べ物(スッポン)の恨みが原因?で鄭の第12代君主 霊公が子公と子家によって殺害されます。

鄭の公子宋(こうしそう)が、霊公(れいこう)を訪問する途中、人差し指がぴくりと動きました。公子宋は同行していた子家(しか)にそれを指し示して、
「いつでも、このようになると、必ずご馳走にありつけるんだよ。」と言いました。

霊公の家に着くと、大きなスッポンが料理されていました。
公子宋は、自分の予言が当たったことで喜びました。

このエピソードから、「食指が動く」は、食欲が湧くという意味で使われるようになりました。

さて、続きがあります。
元々子公と子家の二人は霊公とあまりうまくいっていませんでした。
霊公は、スッポンが料理を、めでたい贈りものとして気前よく勧めましたが、それを見て子公が笑いました。
霊公「何で笑ったのか。」
子公「私の人差指が動いた時は必ず珍味にありつけるのですが、さっきちょうど動いたばかりだったのですよ。」
ここで霊公はいたずら心になりました。
霊公「そうか、そちの予想も外れることもあるのだな。」
そう言って、霊公は子公の分だけ、スッポンが料理を下げたのです。
子公は、腹を立て「何て言うことをする君主だ!だが予想は外れていないぞ!」と言い、スッポン料理に指を入れて、なめてから外に出ました。

霊公も激怒したのですが、結局、子公は、子家と共に霊公を殺してしまいました。

紀元前597年 楚の荘王が晋を 邲の戦い で破る

紀元前597年 楚の荘王が晋を 邲の戦い で破る

紀元前597年 楚の荘王が晋を 邲の戦い で破る

紀元前6世紀後半から、楚と晋は激しく覇権を争っており、邲の戦いは、この争いの決戦となりました。
戦いは、楚軍が晋軍を奇襲して始まります。楚軍は、晋軍の陣地を迂回して背後から攻撃し、晋軍を混乱に陥れました。晋軍は、楚軍の猛攻に耐えきれず、敗北を喫しました。

この戦いで、晋軍の主将である荀林父や先穀、范会などが戦死し、晋軍は壊滅的な打撃を受けました。
荘王は、邲の戦いの勝利を記念して、邲の戦碑を建立しています。
邲の戦碑は、現在も河南省の邲で残されています。
これ以降、天下の覇権は晋から楚へと移り荘王は周辺国に覇を唱えます。
さらに、楚は、親晋であった宋も攻め降服させました。
しかし、楚 荘王は宋を降した後は、目立った兵事をしなかったのです。
そこで、かつての覇者、斉が台頭してきました。

紀元前589年 鞍の戦い、華不注山の戦い

紀元前589年 鞍の戦い、華不注山の戦い

紀元前589年 鞍の戦い、華不注山の戦い

晋が衛、魯、衛を率いて斉を破ることに・・・

斉は楚に敗れた晋を侮っていたのでしょうか?
ある日、晋の使者の郤克を辱しめたのです。激情家の郤克は、帰国して、さっそく斉を討つことを請いました。
そして、晋 景公は、魯・衛・曹・邾と会合し「二心を抱く諸侯」を討伐する相談という名目で、この会合に出席した斉の使者を捕えて幽閉したのです。
そして、晋は衛とともに斉を討ち、陽穀に攻め入りました。
斉 頃公は晋 景公に和睦を請い、公子 彊を人質としたのです。

また魯は、楚とともに斉を討とうとしていました。
魯は、晋が楚に敗れた後、楚と通じていたのです。
しかし楚荘王が没したため、楚は兵を出すことを取りやめ、魯は晋に兵を借りて斉を討ちました
斉は魯の行為に怒って、楚と通じて魯を討とうとしました。
楚も魯が二面外交をして、晋に通じた魯を許せないと思っていたのです。
魯はその空気を察知して、晋と同盟を結び、民に税を賦課し、武器をつくろい城壁をかためて斉・楚に備えました。

ついに斉は魯を討ちました。斉 頃公は、魯の龍を3日で陥落させ、単丘まで侵攻しました。
衛はその隙をついて斉軍を討とうとしましたが、 帰還する斉軍に出会い、逆に打ち破られました。
衛の孫良夫は敗戦を恥じて、帰国せずに晋に援軍を求めました。同時に魯も晋に援軍を求めました。晋 景公は援軍を出そうとしましたたが、 郤克の軍を請うたので、それを許しました。ついに郤克は積年の恨みを晴らす時が来たのです。

晋は斉を鞍で破り、さらに追撃し、斉 頃公が和平を請いましたが、郤克は「蕭桐姪の子(太夫人)を人質として出さない限り許さない」と言って拒否しました。
恨みは骨髄に達していたのです。
しかし斉の使者の説得や、衛・魯のとりなしにより和議を執り行い、斉が占領した土地はすべて衛・魯に返すことを約束しました。
ここに晋の威信は回復しました。
斉 頃公は晋に赴き、晋 景公を王にしようと提案するなど媚を売ることになりました。

紀元前575年 晋が楚を鄢陵(えんりょう)の戦い で破る

紀元前575年 晋が楚を鄢陵(えんりょう)の戦い で破る

紀元前575年 晋が楚を鄢陵(えんりょう)の戦い で破る

鄢陵の戦いは、中国春秋時代の紀元前575年に鄢陵(現在の河南省許昌市鄢陵県)にて晋と楚が激突した戦いです。
この戦いは、晋軍の勝利に終わりました。

紀元前579年、晋と楚は宋の地で会盟を行い、晋楚両方に親交のあった宋の華元の仲介により、両者が共に宋と盟約を結ぶ形で停戦しました。
しかし、紀元前577年、晋の盟下にある鄭が楚の盟下にある許を討ったため、楚の共王は許を救うために鄭を討ちました。
翌年、楚によって討たれた鄭は楚に領土を割譲して和睦し、楚の盟下に置かれることになりました。晋の厲公は元々自分に従っていた鄭の背信を正すために、衛・斉・魯などを従えて鄭を討つことにした。鄭は楚に救援を求めたため、晋と楚は再び戦うことになりました。これが鄢陵の戦いです

紀元前522年 楚の第12代君主 平王が伍奢(ごしゃ)とその息子・伍尚(ごしょう)を死罪に処しました。
その際、伍尚の弟・伍子胥(ごししょ)は呉へ逃亡します。

紀元前515年 呉の公子光(こう)が即位し、第6代君主闔閭(こうりょ)となりました。

孫武(そんぶ)が闔閭に仕えました。

孫武の「孫子兵法」

孫武の「孫子兵法」

孫武の「孫子兵法」

今でも有名な孫武の「孫子兵法」とは、中国春秋時代の軍事思想家 孫武が著した兵法書です。
孫武の出自は斉国の大夫で、若年から兵書に親しみ、黄帝と四帝の戦いや古代の伊尹、姜尚、管仲らの用兵策略を研究したといいます。

紀元前517年頃の一族で内紛があり、孫武は呉国へと逃れ、呉の宰相・伍子胥の知遇を得て、呉の王都・姑蘇郊外の山間に蟄居して『孫子』十三篇を著作しました。

前515年、呉の王に闔閭が即位すると、伍子胥は闔閭に「孫子兵法」を献上し、七回にわたり登用を説いたため、闔閭は孫武を宮中に呼び出して兵法を問いています。
この時のエピソードが「孫子勒姫兵」で、こちらは、別の記事に譲ります。

「孫子兵法」での有名な言葉は、皆さんも聞いたことがあるかもしれません。

・兵法は欺瞞の道である
・敵を知り、己を知れば、百戦して危うくはならない
・勝つ兵は勝つことに急がない、負ける兵は事に急ぐ
・戦に勝つよりも戦わずして勝つことが上策である

「孫子兵法」は、世界中の軍事家や経営者に影響を与え、今でも、ビジネスやスポーツなど、さまざまな分野で活用されているのです。

紀元前500年 孔子が魯の大司寇に就任

紀元前500年 孔子が魯の大司寇に就任

紀元前500年 孔子が魯の大司寇に就任

孔子(紀元前551年または552年 - 紀元前479年)は、中国の思想家・教育家であり、同時に政治家でもあります。
「儒家」(儒教)思想の創始者で、教育と道徳、政治哲学を布教しました。
・道徳的価値を重んじ、個人の徳を高めることが社会の秩序と調和をもたらすと信じていました。
・仁は孔子哲学の中心的価値で、他者への思いやりや親しみを意味します。
・礼は、社会の秩序や個人の行動における礼儀正しさを強調します。
・君主が道徳的な模範でなければならず、その模範が国家の調和と安定を保証するものと考えました。
・儒教思想は中国の官僚制度や試験制度に大きな影響を与え、倫理、道徳、歴史に精通した学者官僚が支配層を形成しました。

孔子の思想は、中国だけでなく、韓国、日本、ベトナムなど、多くの東アジアの国々においても社会や倫理観に深く影響を与えています。
著作とされる『論語』は、彼と彼の弟子の対話や考えをまとめたもので、世界中で広く読まれています。

三家分晋

三家分晋

三家分晋

紀元前453年 晋陽の戦いが起こり、晋が韓氏、魏氏、趙氏によって三分されます。(三晋)

晋国内の勢力対立の激化や、晋の政治改革で地方の諸侯の権力が強化し、さらに、秦の脅威が迫っていることから、趙襄子、韓康子、魏文侯によって晋の公室を滅ぼし、それぞれ韓、魏、趙の君主を名乗ることになりました。

そして、紀元前403年、周の威霊が衰退したことを受けて、韓、魏、趙は正式に諸侯に列せられました。

戦国の七雄の台頭

戦国の七雄の台頭

戦国の七雄の台頭

秦、魏、韓、楚、燕、趙、斉の七つの強国が並び立ってきました。

紀元前442年 魏の文侯(ぶんこう)が即位します。
李克(りこく)、呉起(ごき)、楽羊(がくよう)、西門豹(せいもんひょう)らの人材に恵まれ魏の国力が盛んになってきます。

紀元前403年 韓、魏、趙が周の威烈王(いれつおう)より正式に諸侯として認められたころから「戦国時代」が始まります。

紀元前387年 呉起が楚に移り宰相に就任

紀元前386年 斉の大夫 田和が国を簒奪(さんだつ)します。
田和は周の安王(あんおう)より正式に諸侯と認められる(以後の斉を、それ以前の斉と区別して田斉と呼ぶ)

孟嘗君

孟嘗君

孟嘗君

紀元前375年から紀元前354年まで斉の宰相を務めた孟嘗君は、その人徳と政治手腕によって、斉国を強国へと導いた人物として知られています。
彼は、食客と呼ばれる多くの人材を抱え、彼らの才能を活用して、斉国の国力を強化しました。
食客たちのために、豪華な食事や酒を振舞い、多くの財産を費やしたのです。

孟嘗君の代表的なエピソードとして、「鶏鳴狗盗」と「三千食客」があります。

鶏鳴狗盗
孟嘗君は、秦の昭王に招かれて秦を訪れました。
昭王は、孟嘗君を殺そうと考え、彼を牢獄に閉じ込めました。
しかし、孟嘗君は、食客の狗盗と鶏鳴を巧みに使って、牢獄から脱出することに成功したのです。

三千食客
孟嘗君は、食客と呼ばれる多くの人材を抱えていました。その数は、3,000人にものぼるといわれています。
孟嘗君は、食客たちを平等に扱い、彼らの才能を活用して、斉国の国力を強化しました。

紀元前381年 楚の悼王 死去
悼王の後ろ盾を失った呉起は楚の貴族たちによって殺害されました。

紀元前369年 魏の恵王 即位
宰相公叔座(こうしゅくざ)は臨終の間際に公孫鞅(こうそんおう)を宰相とするよう遺言するも、恵王はこれを聞かず公孫鞅は魏を去りました。

紀元前359年 秦の第25代君主 考公は公孫鞅(商鞅)を左庶長に任じ、新法を公布して国政改革を断行しました。(商鞅の変法)

商鞅の変法による秦の制度改革

商鞅の変法による秦の制度改革

商鞅の変法による秦の制度改革

商鞅(しょう おう、紀元前390年 - 紀元前338年)は秦に仕えた政治家で、徹底した富国強兵策を法の強制によって推進した「商鞅の変法」を行いました。その改革により秦は国力を増強し、戦国末期に他の諸国の中で最も有力な国となる基盤をつくったのです。
商鞅の変法の主な内容は、以下のようになっています。
• 土地の私有制の導入
• 軍功による爵位授与
• 厳しい法の制定
• 度量衡の統一
• 兵農一致の軍事体制の設置
これらの改革により、秦は従来の血縁貴族社会から法による統治と中央集権国家へと脱皮し、後の秦王政(始皇帝)による全国統一の原型となりました。
商鞅自身は貴族の反発を受け、当時の国王の死後、国外に逃亡しようとして失敗し殺されました。しかし、彼の改革は秦の強国化に大きく貢献し、中国の歴史に大きな影響を与えました。

紀元前353年 桂陵(けいりょう)の戦い

紀元前353年 桂陵(けいりょう)の戦い

紀元前353年 桂陵(けいりょう)の戦い

斉の将軍田忌(でんき)が軍師孫臏(そんぴん)とともに魏軍を率いた龐涓(ほうけん)を破り、趙を救います。
この時、魏軍を率いた龐涓と斉の孫臏は、同じ師の元で学んだ話もあり因縁の相手であったとのことです。

桂陵の戦いでの孫臏の策が「囲魏救趙」とも呼ばれ、兵法三十六計の二番目の策として掲載されています。
・敵を集中させず、敵を分散させる。
・敵の正面攻撃ではなく、敵の隠している弱点を攻撃する。
この時、趙を攻めていた魏軍が大梁に戻ったところ、待ち構えていた斉軍に攻撃され敗れてしまいました。

紀元前350年 秦が咸陽(かんよう)に遷都

紀元前350年 秦が咸陽(かんよう)に遷都

紀元前350年 秦が咸陽(かんよう)に遷都

商鞅による一連の法改変の中で、特に注目すべきは首都の移転であった。
秦の首都は元々雍に位置していたが、商鞅は中原諸国への侵攻を容易にするため、咸陽へと遷都を決行した。
この遷都は首都機能を移すだけでなく、城下の整備や宮殿の建設、民の移住といった膨大な作業を伴い、多くの重臣からは不満も漏れ聞こえた。しかし、商鞅の意志は固く、遷都は順調に完了。これにより、秦はその国力をさらに増強し、戦国時代における強国としての地位を確立した。この遷都は、秦の天下統一への道をさらに開くものとなった。

馬陵(ばりょう)の戦い

馬陵(ばりょう)の戦い

馬陵(ばりょう)の戦い

紀元前341年 斉の将軍 田忌が軍師 孫臏とともに魏を破ります。

桂陵に続いて斉の孫臏(そんびん)が大活躍し、名軍師が中国全土に響き渡ることになりました。
そして、魏の龐涓は二度も孫臏に負け自害することになったのです。

経緯:
魏国・恵王は、会盟を主催しようと諸侯に招待をしますが、韓はそれを無視します。
韓は魏国ではなく斉国と同盟を結ぶことを選んでいたのです。
恵王は怒り、魏軍の大将に龐涓(ほうけん)を任命して韓に攻め込ませました。

韓は、再度、斉に救援を要請し、斉国の宣王(せんおう)は、また田忌と孫臏を派遣します。
宣王は、桂陵の戦いで趙に田忌と孫臏を派遣した威王の子です。

魏軍は韓の都・南鄭(なんてい)を包囲しているにもかかわらず、斉軍はまたしても南鄭ではなく、魏の都・大梁を目指して進軍します。
桂陵の戦いでも同じ作戦だったので、龐涓は、急いで軍を魏の大梁に向け斉軍を退けることに成功します。

しかし、天才軍師 孫臏は、またしても策で勝っていたのです。
斉軍が魏国の領土に入ったら十万人分のカマドを作らせ、その翌日には五万人分、翌々日には三万人分を作らせながら撤退しました。
魏軍が撤退する斉軍を追いかけていくと、斉軍のカマドが減っていくので、魏軍・龐涓は「兵士が、勝てないと逃げだしたのだ!」と勘違いし、勝ちを確信してしまうのです。
そして、龐涓は、逃げる斉軍に追いつこうと精鋭部隊のみを連れて夢中で追いかけていきました。
もちろん、この動きは斉の軍師・孫臏の元にも伝えられています。

孫臏は馬陵にて、魏軍を待ち構えます。
馬陵という土地は丘陵地帯にあります。道が狭く、また道の両端には鋭い山がそびえ、兵を潜伏させるには絶好の場所でした。

暗い道に生えていた大木の幹を削り【龐涓はこの大木の下に死なん】と書き、道の両端に兵1万を潜ませて待ちました。
龐涓が馬陵の地に着き、大木の幹に書かれている文字を読もうと松明の火をつけた瞬間、大量の矢が魏軍をめがけて飛んできたのです。
魏軍は大パニックとなり、挙句の果てに味方同士で戦いだしたそうです。
大敗を悟った魏の大将・龐涓は、自ら首をはねて自害を遂げました。
そして、斉軍は魏軍をことごとく打ち破り、魏の太子・申(しん)を生け捕りにすることに成功したのです。

呉城の役

呉城の役

呉城の役

紀元前340年 秦の商鞅が魏へ侵攻し、自ら兵を率いて討伐しました。

その戦術と指揮は、次の通りです。

・秦軍を3つの部隊に分け、魏軍の背後から奇襲する作戦で、魏軍を不意打ちにしました。
・戦争を迅速に終わらせることを重視し、魏軍を徹底的に打ち破ることを目的に、戦闘を早期に決着させようとしました。
・秦軍は、魏軍の弱点を突いて、兵力を集中して攻撃しました。

呉城の戦いは、秦軍の勝利に終わり、商鞅は、秦の宰相としての地位をさらに固めることに成功しました。


しかし、「商鞅の変法」で、貴族から反感を買っていた商鞅は、紀元前338年 秦の考公死去により、車裂の刑に処されることになりました。

歴史は、何度も後戻りしながら前に進むものなのです。

蘇秦(紀元前475年~紀元前221年)の合従策

蘇秦(紀元前475年~紀元前221年)の合従策

蘇秦(紀元前475年~紀元前221年)の合従策

紀元前334年 縦横家 蘇秦(そしん)が燕の文公に合従策(がっしょうさく)を説き、後に6国(楚、韓、趙、魏、燕)の間に同盟を成立させます。
「鶏口(けいこう)となるも牛後(ぎゅうご)となることなかれ」
「大きな集団の末端になるより、小さな集団であっても長になる方がよい」を意味することわざです。

戦国時代の斉の策士・蘇秦が提唱した、強国、秦に対抗するために、弱小な諸国が南北の縦につながる国を連合して秦に対抗する外交政策です。

蘇秦は、当時、秦が急速に強大化していることを危惧し、秦を牽制するためには、弱小な諸国が連合して秦に対抗するしかないと考え、趙を盟主とする六国の同盟を結成することに成功しました。
蘇秦の連横の策の主な内容は、以下の3つです。
• 弱小な諸国が縦に連合して秦に対抗する。
• 同盟国には、秦に対抗するための軍事援助や経済支援を行う。
• 同盟国間の利害を調整し、同盟を維持する。
蘇秦の連横の策は、戦国時代の外交政策に大きな影響を与え、その後も秦に対抗するために、弱小な諸国が採用した外交政策の基本となりました。

張儀(紀元前475年~紀元前221年)の連衡策

張儀(紀元前475年~紀元前221年)の連衡策

張儀(紀元前475年~紀元前221年)の連衡策

張儀は各国に秦との個別の同盟の締結を説き、それを連衡策(れんこうさく)ということを実現しました。

連衡の策とは、戦国時代の秦の宰相・張儀が提唱した、強国秦が弱小な諸国を個別に連合させて、秦の勢力を拡大する外交政策です。
張儀は、蘇秦の合従の策を阻止するために、弱小な諸国を個別に盟約を結び、秦が弱小な諸国に割譲地や領土を約束することで、諸国を秦に引き込むというものでした。
張儀の連衡の策は、蘇秦の合縦の策を破ることに成功し、秦の勢力拡大に大きく貢献しました。
しかし、秦の強国化は、最終的に他の諸国の反発を招き、秦による中国統一へとつながってしまったたわけです。
張儀の合縦の策の主な内容は、以下の3つでした。
• 弱小な諸国を個別に連合させる。
• 秦が弱小な諸国に割譲地や領土を約束する。
• 弱小な諸国を秦に引き込む。

蘇秦と張儀の合縦連衡は、戦国時代の外交政策に大きな影響を与えました。

この策は、その後の各国の政策にも影響を与え、強大な国が弱小な国を併合する策として、今の中国の外交政策にも採用されているように思えます。

席巻(せっけん)する

席巻(せっけん)する

席巻(せっけん)する

紀元前328年 縦横家張儀(ちょうぎ)が秦の宰相に就任します。

張儀の政治手腕と外交戦略は、中国史上で「席巻する」と表現されるほどの影響力を持っていました。
「席巻する」とは、領土を次々に攻め取っていくことのたとえです。
ある分野にどんどん影響を広げていくことでもあります。

張儀はもともと楚国の出身でしたが、後に秦国に仕えることとなり、秦の宰相としてその才を発揮します。
張儀は「縦横家」として知られる戦略家・政治思想家の一人であり、その思想と戦略は、各国が他国を征服し、同盟を組むことで、秦が「天下統一」に近づく道を模索しました。

「連衡の外交政策」は、弱い国が強い国に対抗するために同盟を組むというもので、秦が戦国時代において他国との力関係を均衡させる上で有効でした。

連横策とは、敵対している国同士を結びつける「連合」と、敵対している国同士を争わせることで利益を得る「横断」を組み合わせた外交戦略です。魏・楚・韓・斉・燕の5か国を対立させ、秦の勢力を拡大させるために、連横策を用いました。

例えば、魏と楚を対立させるために、楚に韓の土地を割譲する「楚・秦講和」を結び、魏と韓を対立させるために、魏に秦の土地を割譲する「魏・秦講和」を結びます。
また、斉と燕を対立させるために、斉に秦の土地を割譲する「斉・秦講和」を結びます。

これらの講和により、秦は、魏・楚・韓・斉・燕の5か国と友好関係を築き、秦の勢力を拡大することに成功しています。

函谷関(かんこくかん)の戦い

函谷関(かんこくかん)の戦い

函谷関(かんこくかん)の戦い

紀元前318年 楚、韓、趙、魏、燕が合従して秦を攻めますが、秦の樗里疾(ちょりしつ)がこれを撃退しました。

この時期は、各国が入り乱れた戦国時代が続きます。

紀元前313年 張儀が楚の懐王を説き、斉との同盟を破棄させます。
紀元前312年 楚の懐王が秦に出兵するが大敗します。
(藍田(らんでん)の戦い)

同時期、燕の昭王が即位し、楽毅(がくき)や郭隗(かくかい)らの有能な人材を用いて燕の再興に務めました。=「隗(かい)より始めよ」

郭隗 (かくかい) が燕 (えん) の昭王に賢者の求め方を問われました。
その時、郭隗は、賢者を招きたければ、まず凡庸な私を重く用いよ、そうすれば自分よりすぐれた人物が自然に集まってくる」
と答えたところから、大事業をするには、まず身近なことから始めよ。 また、物事は言い出した者から始めよということを意味しています。


紀元前307年 秦の武王が鼎のあげ比べを行い、脛骨を折って死去しました。
後継者争いののち、第28代君主昭襄王(しょうじょうおう)即位し、趙の武霊王が胡服騎射(こふくきしゃ)を取り入れました。

紀元前299年 楚の懐王が罠に嵌り秦で幽閉されました。

紀元前298年 秦の昭襄王が斉の孟嘗君(もうしょうくん)を迎えますが、
孟嘗君が秦より斉に逃げ帰り、斉の宰相に就任します。
「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」

紀元前296年 趙の武霊王が中山(ちゅうざん)国を滅ぼしました。
紀元前293年 秦の将軍白起(はくき)が韓、魏連合軍を伊闕(いけつ)で破り24万人を殺害しました。
紀元前288年 斉の湣王(びんおう)が東帝、秦の昭襄王が西帝を称することを提案しますが、すぐに取り止めとなります。
紀元前286年 斉が宋を滅ぼすことで、陥落するハメになります。
紀元前284年 燕の楽毅が率いる秦、楚、韓、趙、魏、燕の6国連合軍が斉を攻め、斉都・臨淄(りんし)が陥落(済西(せいせい)の戦い)しました。

紀元前283年 趙の藺相如(りんしょうじょ)が「和氏の璧(かしのへき)」を持って秦ヘの使者に赴き、「完璧」「刎頚(ふんけい)の交わり」を交わします。

紀元前279年 燕の昭王死去し、楽毅が趙へ亡命します。
斉の田単(でんたん)が「火牛(かぎゅう)の計」で燕軍を破り70余城を奪回しました。

秦の昭襄王と趙の恵文王が黽池(べんち)で会談
孟嘗君が死去します。

紀元前278年 秦の将軍白起が楚の都・郢(えい)を陥落(鄢郢(えんえい)の戦い)させました。
このため楚は陳へ遷都します。
紀元前273年 秦の将軍白起が華陽(かよう)の戦いで韓、趙、魏の連合軍を破り13万人を殺害します。
紀元前270年 趙の将軍趙奢(ちょうしゃ)が策を用いて秦軍を撃退(閼与(あつよ)の戦い)します。
紀元前266年 秦の相国魏冄(ぎぜん)が罷免され追放、范雎(はんしょ)が秦の宰相に就任しました。
紀元前264年 秦の将軍白起が韓の陘城(けいじょう)を攻め、5つの城を落とし5万人を殺害(陘城の戦い)しました。

紀元前260年頃 長平の戦い

紀元前260年頃 長平の戦い

紀元前260年頃 長平の戦い

長平の戦いは、紀元前260年に秦と趙が長平で激突した戦いです。秦の勝利に終わり、趙兵の捕虜40万人が生き埋めにされるという悲惨な結果となりました。
映画やアニメでも盛んに趙国が恨み節で発言する出来事が、この長平の戦いです。

この戦いは、趙の老将・廉頗が秦軍と対峙するも、趙王の命で若い将軍・趙括に交代したことがきっかけで始まりました。趙括は、戦術を熟知していましたが、実戦経験がなく、秦の将軍・白起の奇策に翻弄され、敗北を喫しました。
戦後、白起は降伏した趙兵を生き埋めにしました。この行為は、中国史上最大の虐殺事件として知られています。
長平の戦いは、趙の国力を一気に衰退させ、秦による中国統一への道を開くことになった重要な戦いです。
具体的な経緯は、以下のとおりです。
• 紀元前262年、秦は趙の韓の領土を奪い、趙と秦の戦争が始まる。
• 紀元前260年、趙は廉頗を将軍に任命し、秦軍と長平で対峙する。
• 趙王は、廉頗の戦略に不満を持ち、若い将軍・趙括に交代させる。
• 趙括は、秦の奇策に翻弄され、趙軍は敗北する。
• 白起は、降伏した趙兵を生き埋めにする。

これが、映画、キングダムでも度々でてくる、生き埋め事件、長平の戦いです。

キングダムの時代へと突入準備

キングダムの時代へと突入準備

キングダムの時代へと突入準備

紀元前259年 嬴政(えいせい)誕生
紀元前258年 秦の将軍 王陵が趙都・邯鄲(かんたん)を包囲するも、楚の春申君(しゅんしんくん)と魏の信陵君(しんりょうくん)の援軍により大敗(邯鄲包囲戦)してしまいます。

紀元前257年 秦の白起が昭襄王に命じられ自害
紀元前256年 楚が魯を滅ぼし、秦が周を滅ぼします。

紀元前249年 秦の荘襄王が即位し、呂不韋(りょふい)が秦の丞相に就任します。

奇貨居くべし:呂不韋が若くて商人だった頃、秦の太子 安国君の子、子楚が趙に人質となって不自由な生活をしているのを見て、これをうまく利用しようと思って言ったという言葉です。

珍しい品物であるから,今買っておいて後日利益を得るがよい。
得がたい機会だから逃さず利用すべきだ。

紀元前247年 魏の信陵君が魏、楚、韓、趙、燕の5国連合の兵を率いて秦を破りました。
紀元前246年 秦の荘襄王死去

秦王政即位呂不韋は相国となり、まだ幼い政に代わり政権を執ることに
紀元前241年 楚の春申君が魏、楚、韓、趙、燕の5国連合軍を率いて秦を攻めますが、、函谷関で大敗(函谷関の戦い)します。

ようやく、キングダムの時代に近づきました。
でも。次回からは、また、時代を振り返り、深堀していきたいと思っています。
お付き合いください。

戦国七雄 滅亡順

戦国七雄 滅亡順

戦国七雄 滅亡順

韓 紀元前403年 紀元前230年
趙 紀元前403年 紀元前228年
魏 紀元前403年 紀元前225年
楚 紀元前1100年 紀元前223年
燕 紀元前1100年 紀元前222年  
斉 紀元前1046年 紀元前221年
別コラムにて、各国の詳細を紹介していきます。

長文、お疲れ様でした。


この記事の三国志ライター

映画キングダムを見て、春秋戦国時代に興味を持ちました。

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