呉の国の英雄孫策とは!?

呉の国の英雄孫策とは!?

三国の一つ呉の国の土台を築いたのは、皇帝孫権の兄孫策です。小覇王と称されたくらいですから、楚の国の英雄だった覇王項羽なみの武勇を誇っていたのでしょう。ですが、それだけで国を興すことは出来ません。果たして一国を築き上げた孫策とはどのような人物だったのでしょう。


袁術の武将として

袁術の武将として

袁術の武将として

父である孫堅が黄巾の乱の鎮圧に出向いていた頃、孫策は母や弟と一緒に暮らしていました。当時から優秀で名が売れておりました。また、周瑜と知り合ったのもこの頃です。
孫堅が劉表との戦いで戦死すると、彼の軍勢は袁術に吸収され、孫策自身も袁術の一武将となります。ゲームなどでは、袁術も孫策も同格のように扱われているものが多いかもしれませんが、正史ではこの時点では袁術は孫策の主にあたります。ですが、正史でも演義でも暗君として有名な袁術の元に、やはり正史でも演義でも英雄として書かれている孫策がいつまでもいるはずはありません。袁術に孫堅の軍の返還を求めて1,000人程度の軍勢を得ます。その中には黄蓋や朱治など孫堅の時代から孫権の時代まで、孫一族を支えた重臣たちもいました。ですが、独立するにはまだ力不足で、袁術の一将軍として、彼ら共に戦に出ます。その才能で袁術軍の中でも目立ち始めましたが、同時に危険視もされました。また同時に孫策は張昭・張紘・周泰・凌操ら優秀な人材を集めるのに時間を多く割いていました。
独立の機会が訪れるのは袁術と揚州の支配を巡って対立していた劉繇との戦争の時です。こちらは演義でも書かれているので有名です。残念ながら孫堅の残した玉璽を預けて兵を借りるというのは創作ですが。劉繇との戦に出向く途中で親友である周瑜が合流します。周瑜だけでなく多くの将兵が孫策軍に参加し、初め1,000人であった孫策軍は5,000人を超えるようになります。まず、劉繇軍の于糜・樊能と対決します。絞め殺したり、一喝して馬から落とし、小覇王という称号をもらったというのは全て演義の話ですが、孫策は劉繇軍を撃破します。そして、演義にもある名シーン太史慈との一騎打ちが行われます。シチュエーションも同じで孫策が少人数で偵察に来たところに太史慈が一騎打ちを申し込み、孫策が受けて立ちます。正史で、一騎打ちが、それも国王クラスが行ったと記載されているのは非常に珍しいことです。この辺りに、孫策の人気の高さの一因があるのでしょう。
その後、孫策は劉繇を撃破し、彼の領土であった曲阿を自分の拠点とします。無事に拠点を得た孫策は袁術より借りた兵を返しますが、この時点ではまだ袁術との関係を維持しようとします。孫策はその後、許貢・王朗・厳白虎を撃破します。そして、劉繇が敗れた後、独立勢力となっていた太史慈も撃破し、配下に加えます。
この頃になると袁術は孫策の勢力の拡大を恐れ、孫策の領土に袁胤を派遣します。それに対し、孫策は袁胤を追放し、ついに独立を宣言します。また、その独立に合わせて、袁術の元にいっていた周瑜が魯粛を引き連れて孫策の元へ駆けつけます。袁術は軍を派遣して孫策を討とうとしますが、孫策はその軍を撃破します。

広がる領土・集まる人材

広がる領土・集まる人材

広がる領土・集まる人材

独立した孫策の拠点となったのは江東です。孫策はここで多くの人材を集めました。関羽を打ち取り荊州を手に入れた将軍である呂蒙や、王朗の元配下であった虞翻などが代表です。また、急速に江東を支配下に収めたため、抵抗勢力が数多くいました。孫策は彼ら討伐・粛清に乗り出します。それによって厳白虎・許貢らが粛清されます。
袁術が皇帝を名乗ると、反袁術の意志を明らかにし、曹操と同盟を結びます。ですが、やがて袁術が滅びるとこの同盟関係は崩れてしまいます。袁術が滅びると、彼のもとにいた兵たちの多くは劉勲の元に身を寄せます。孫策・曹操は共に自軍勢力の拡大のため、劉勲軍を取り込もうとします。孫策は策略をもって劉勲軍を破ります。そして、多くの旧袁術軍を自軍に取り込みます。また、この時同時に妻(妾)となる大喬、周瑜の妻となる小喬も手に入れます。

父の仇黄祖との泥沼の死闘

父の仇黄祖との泥沼の死闘

父の仇黄祖との泥沼の死闘

荊州・江夏の黄祖は孫策の父である孫権の仇です。孫策が揚州・廬江を手に入れたことで孫策と黄祖はほんの目と鼻の先の勢力同士と言う関係になります。当然孫策は黄祖を討とうと考えます。黄祖は荊州の劉表に援軍を求め、孫策に対抗します。孫策は毎年のように出兵しました。黄祖の軍を打ち破ることもありましたが、黄祖は夏口に撤退して対抗したりし、黄祖を討ち取るまではいきませんでした。黄祖を撃って孫堅の仇を打つのは弟である孫権の代になってからです。また、後々孫権率いる呉の国と劉備(玄徳)率いる荊州軍が宿敵となるのはこの頃から始まっていたと言えそうです。

軽率な行動が命取り

軽率な行動が命取り

軽率な行動が命取り

孫策が江東で勢力を伸ばしている時、曹操は北方の雄である袁紹との対決へと向かっていきます。そこで気になるのは背後の孫策。北で袁紹と決戦をしている時、本拠地である許昌を孫策に襲われては一たまりもありません。孫策の武勇の噂は曹操も聞いていましたから、どうすれば良いかを相談します。曹操軍の参謀の一人である郭嘉がこう言います。
「孫策は多くの者を倒して江東を手に入れました。彼らのために動く者たちも多いはずです。また、孫策は軽率で備えもなく、大勢の兵を率いていても一人で歩いているのと変わりません。刺客が孫策を狙ったら、孫策一人を相手にするだけです。こうしたことから考えてみますと、名もない者たちに狙われて命を落とすのではないかと思います。」
孫策は曹操の隙きを突いて許昌を狙おうと計画します。しかし、行動を起こそうとした矢先に、江東で倒した許貢の客人三人に、狩りをしていた時に襲われます。正史の記載では刺客となった三人を孫策自ら切り倒しますが、三人の内、一人の放った矢が孫策の頬を貫きます。重症となった孫策は死期を悟ります。当時、孫策は26歳で息子である孫紹はまだ幼く後継ぎは弟の孫権です。孫権に遺言として告げます。
「一人で身を起こし、兵を率いて国を広げ、天下分け目の決戦を行うというようなことにおいては、お前はオレに及ばぬ。だが、有能なものを登用し、国を安定させていくということにおいてはオレはお前にかなわない。」
そして、文官の筆頭である張昭を孫権の補佐に指名すると息を引き取ります。まさに郭嘉の予言したとおりの最期を遂げます。許貢の客人三人に襲われるというシーンは演義でも出てきますが、演義で有名な于吉仙人のタタリで死ぬというのは完全な創作のようです。

孫策の評価

孫策の評価

孫策の評価

三国志正史の著者である陳寿は孫策のことを
「孫策は才能溢れ、武勇に優れ、有能なものを用い、志は中国全土を覆うほどであった。だが、軽はずみでせっかちな性格であり、それが元で身を滅ぼしてしまった。」
と評価しています。孫策に対する評価はほぼ皆同じようです。それだけ、天下に知れ渡った有名人であったのでしょう。





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