三国志(さんごくし) あらすじ ざっくり わかりやすく
■ 三国志(さんごくし) あらすじ ざっくり わかりやすく
三国志(さんごくし) あらすじ ざっくり わかりやすく
三国志とは、中国の後漢・三国時代(184~280)に中国統一をめざし群雄割拠していた歴史をまとめた書物の名称になります。
大きく分けて、「三国志」と「三国志演技」とあります。
まずは、「三国志」と「三国志演技」のちがいについて説明していきます。
「三国志」は、蜀・魏・晋に仕えた陳寿(ちんじゅ)により三国時代の歴史がまとめられたものです。史実を忠実に簡潔にまとめられております。史実の忠実を重視したため噂や信憑性の薄い情報は排除したため読みやすいが面白みに欠けています。「三国志」は事実を後世に残すための歴史書になります。ただし、蜀・魏・晋に都合の悪いことは、記述されなかったようです。
三国志演技と区別するために「正史(せいし)」と呼びます。
「三国志演技」は、中国の明時代に羅貫中(らかんちゅう)により「三国志(正史)」をベースに各地で語り伝えられた神話・伝説・民話など盛り込んだものになります。簡単にいうと、一般大衆が楽しめるようにフィクションを交えて作られた娯楽性の高い歴史小説です。特徴は、蜀(しょく)の劉備(りゅうび)や諸葛亮(しょかつりょう)と言った人物がメインとなり物語が進んでいきます。
ここまで簡単ですが、「三国志」と「三国志演技」の違いについて説明してみました、
「三国志」は史実の歴史書、「三国志演技」はフィクションの歴史小説と覚えておけばいいかと思います。また違いを知っているとプチ自慢ができるかもしれません。
三国志の物語を彩る主な登場人物紹介
■ 三国志の物語を彩る主な登場人物紹介
三国志の物語を彩る主な登場人物紹介
三国志の物語を盛り上げる魅力的な登場人物を紹介します。
簡単な説明なので、別の記事と併せて読むとより三国志の魅力が伝わると思います。
董卓(とうたく)
■ 董卓(とうたく)
董卓(とうたく)
若い頃は武芸、知略に秀でたとされます。
西涼で太守をしていたが、何進の召集に応じて上洛します。
都での混乱に乗じて幼い帝を保護することにより政権を握っていきます。
猛将・呂布(りょふ)を養子にし、武力を背景により一層勢力を拡大させていきます。
王允による「美女連環の計(びじょれんかんのけい)」で、呂布と貂蝉を取り合い、最後は呂布に殺害されます。
董卓は残虐、冷酷、暴力的で民衆に恐怖をもたらしたとされ、漫画、ゲームなどのキャラとしては悪役として描かれることが多いです。
呂布(りょふ)
■ 呂布(りょふ)
呂布(りょふ)
身体能力が高く、弓術・馬術と武芸を極めた猛将です。
三国時代最強の武将と言ってもいいでしょう。
愛馬の「赤兎馬(せきとば)」と愛用の武器「方天画戟(ほうてんがげき)」で
戦場を駆け巡っていました。
はじめは丁原(てい げん)に仕えていましたが、丁原を裏切り董卓に仕えます。
暴虐の限りを尽くす董卓を見かねた王允による「美女連環の計」により呂布は董卓を殺害します。
その後は各地を転々とし、最後は曹操によりこの世を去りました。
貂蝉(ちょうせん)
■ 貂蝉(ちょうせん)
貂蝉(ちょうせん)
絶世の美女として有名で、歌舞に優れていました。
もともとは孤児でしたが、王允(おういん)に引き取られ実の娘同然に育てられます。
暴虐の限りを尽くす董卓を見かねた王允が、董卓誅殺を計画しました。
貂蝉を使い、董卓と呂布に近づき「美女連環の計」を仕掛け、見事に二人の仲を引き裂き
董卓誅殺に成功しました。貂蝉は「美女連環の計」成功の立て役者です。
実は架空の人物とされています。三国志演技では「董卓の侍女」が貂蝉のモデルになっていると言われています。
曹操(そうそう)
■ 曹操(そうそう)
曹操(そうそう)
判断力、決断力に富み、「乱世の奸雄」と称されます。
黄巾討伐軍、反董卓軍に参加し徐々頭角を現していきます。
混乱した時代の中、中原(現在の河南省あたり)に着々と地盤を固めていき大国・魏の礎を築き上げていきます。
野心家であり合理主義者。また、詩人、兵法家としても業績を残しています。
漫画、ゲームなどのキャラとしては悪役として描かれています。
司馬懿(しばい)
■ 司馬懿(しばい)
司馬懿(しばい)
曹操に才能を見出され三国時代の大軍師です。
曹操・曹丕(そうひ)・曹叡(そうえい)・曹芳(そうほう)と4代に仕えました。
249年(司馬懿70歳)に曹爽(そうそう)達の権力を傘に来た横暴な振る舞いにより曹爽達を誅殺。以後の司馬一族が魏の実権を握るようになるきっかけになりました。
後の西晋(せいしん)の礎を築いた人物です。
漫画、ゲームなどのキャラとしては諸葛亮のライバルとして描かれています。
劉備(玄徳)
■ 劉備(玄徳)
劉備(玄徳)
漢皇帝の末裔とされています。
関羽、張飛との桃園の誓い(とうえんのちかい)、諸葛亮を三顧の礼(さんこのれい)で迎えるなどエピソードが有名です。
黄巾の乱で挙兵、その後は各地を転々としていました。諸葛亮の天下三分の計により益州を得て勢力を拡大していきました。
皇帝に即位して、蜀漢を建国。蜀(しょく)の礎を築いた人物です。
漫画、ゲームなどのキャラとしては民を思いやる正義の味方として描かれています。
諸葛亮(しょかつりょう)
■ 諸葛亮(しょかつりょう)
諸葛亮(しょかつりょう)
三国時代最強の天才軍師です。
三顧の礼に応えて劉備の配下にあるエピソードは有名な話です。
また、当時曹操の戦力は圧倒的でした、その対抗策として劉備(玄徳)、曹操、孫権とで中国を大きく三分割する天下三分の計を劉備に提案し三国時代へのきっかけを作ります。
漫画、ゲームなどのキャラとしてはと天候を操るなど神がかり的な存在として描かれています。また、白羽扇(びゃくうせん)を手にしているのが特徴です。
関羽(かんう)
■ 関羽(かんう)
関羽(かんう)
五虎大将軍(関羽、張飛、黄忠(こうちゅう)、馬超(ばちょう)趙雲(ちょううん))の筆頭。
劉備(玄徳)、張飛と桃園の誓いを結び義兄弟であり、黄巾討伐より行動を共にし蜀の建国に尽力した人物です。
見事な鬚髯(鬚=あごひげ、髯=ほほひげ)をたくわえていたため「美髯公(びぜんこう)」とも呼ばれます。
敵方でありながら張遼(ちょうりょう)、徐晃(じょこう)とは親交があるなど敵味方問わず人を惹きつける人間的魅力もあります。
実は、中国では「商売の神様」として祭られています。日本では横浜の関帝廟(かんていびょう)が有名です。
張飛(ちょうひ)
■ 張飛(ちょうひ)
張飛(ちょうひ)
五虎大将軍(関羽、張飛、黄忠、馬超、趙雲)の一人です。呂布に匹敵する武力の持ち主です。
劉備、張飛と桃園の誓いを結び義兄弟であり、黄巾討伐より行動を共にし蜀の建国に尽力した人物です。
曹操軍から追撃を受けた際、長坂橋で曹操軍を単騎による大喝一声して足止させたことにより、劉備軍が撤退できたエピソードは有名です。
短気で思ったらすぐ行動するタイプ。また、大酒呑みであり、それが災いして失敗することもありました。
超雲(ちょううん)
■ 超雲(ちょううん)
超雲(ちょううん)
五虎大将軍(関羽、張飛、黄忠、馬超、趙雲)の一人です。
公孫瓚(こうそんさん)の配下でしたが、のちに劉備の配下になりました。
長坂の戦いでは、阿斗(後の劉禅(りゅうぜん))と甘皇后を救出しに曹操軍の大群に単騎で突撃するエピソードが有名です。
漫画、ゲームなどではパッケージなどにイラストが使われるほどファンの多い人気キャラクターです。
孫堅(そんけん)
■ 孫堅(そんけん)
孫堅(そんけん)
「孫子の兵法」で有名な孫子の末裔とされる勇将です。
黄巾討伐軍への参戦、反董卓連合軍では先鋒を任されるなど活躍しました。
37歳の若さで黄祖(こうそ)の部下に射殺されてしまいますが、長男である孫策(そんさく)が孫堅の思いを引き継いでいきます。
孫策(そんさく)
■ 孫策(そんさく)
孫策(そんさく)
孫堅の長男で武勇に優れ「小覇王」と称されました。
幼なじみの周瑜をはじめ、優秀な人材を集めて呉の基盤を築きました。
孫策もまた26歳と心半ばでこの世を去りました。
父孫堅、兄孫策の思いは弟孫権(そんけん)に引き継がれていきます。
孫権(そんけん)
■ 孫権(そんけん)
孫権(そんけん)
孫堅の次男で孫策の弟。
父の孫堅、兄の孫策を相次いで亡くし、19歳で後継者となる。
呉を建国し初代皇帝に即位する。
周瑜(しゅうゆ)
■ 周瑜(しゅうゆ)
周瑜(しゅうゆ)
孫策とは義兄弟。
容姿端麗だったことから「美周郎(びしゅうろう)」とも呼ばれています。
知略・武略に優れており、その才能は曹操や劉備(玄徳)からも恐れられるほどでした。
赤壁の戦いでは、数十万を率いる曹操軍に対して孫権・劉備(玄徳)の同盟軍の指揮をおこない劣勢だった戦いを勝利に導きました。
三国時代の背景と終焉
■ 三国時代の背景と終焉
三国時代の背景と終焉
後漢王朝は長い間中国を支配していましたが、政治的な腐敗や内乱により衰退しました。特に184年に起こった黄巾の乱は、後漢の権威を大きく揺るがしました。この混乱の中で、曹操、孫権、劉備といった有力者たちが台頭し、それぞれが独自の勢力を築きました。
そんな背景で、均等の勢力となった三国が建国したのです。
魏: 曹操は華北を中心に勢力を拡大し、220年に息子の曹丕が後漢の献帝から禅譲を受けて魏を建国しました。
呉: 孫権は長江下流域を支配し、呉を建国しました。彼は南方の豊かな資源を背景に独自の勢力を築きました。
蜀: 劉備は四川地方を拠点に蜀を建国しました。彼は漢王朝の血統を引くとされ、多くの支持を集めました。
三国時代は、魏、呉、蜀の三国がそれぞれ独立した国家として存在し、お互いに対抗し合いました。特に有名なのが208年の赤壁の戦いで、この戦いでは劉備と孫権が連合して曹操軍を破りました。この時期には多くの英雄や軍師が登場し、その物語は後世にわたり文学や芸能作品として語り継がれています。「三国志演義」はその代表的な作品であり、多くのフィクション要素が加えられているものの、その歴史的価値と魅力は今なお色褪せることがありません。
三国時代は280年に晋(西晋)が呉を滅ぼすことで終焉をむかえ、一時的に中国全土が統一されました。この統一は司馬炎によって成し遂げられました。
このように三国時代は、中国史上重要な転換期であり、多くの英雄や物語が生まれた時代です。これらは現代でも多くの人々に愛され続けています。
三国時代の戦略や戦術の特徴
■ 三国時代の戦略や戦術の特徴
三国時代の戦略や戦術の特徴
三国時代は、各勢力が独自の方法で戦いを繰り広げたことに面白さがあります。
曹操の戦略
官渡の戦い
曹操は袁紹との官渡の戦いで、兵力差が大きいにもかかわらず勝利を収めました。
この戦いでの曹操は荀彧などの参謀から得た情報を基に、袁紹軍の弱点を突きました。荀彧は袁紹の部下に対する猜疑心や意思決定力の欠如を指摘し、曹操に自信を持たせました。
曹操は袁紹軍の補給基地である烏巣を奇襲し、兵糧を奪うことで袁紹軍を混乱させました。この「囲魏救趙」の計(敵を分散させて各個撃破する)は、孫子の兵法にも通じるものです。
赤壁の戦い
赤壁の戦いでは、曹操は孫権・劉備連合軍に敗北しましたが、この戦いでも多くの戦略が用いられました。
曹操は北方出身で水軍に不慣れな兵士が多かったため、船を鎖で繋ぎ安定させる「連環計」を使用しましたが、これが逆に火攻めにあい逃げることもできず多くの損害をうけました。
孫権と周瑜の戦略
赤壁の戦い
孫権と周瑜は赤壁の戦いで、曹操軍が疫病に苦しんでいることを利用し、火攻めを決行しました。また、黄蓋の「苦肉計」(自ら傷つけて敵を欺く)も成功し、曹操軍に大打撃を与えました。
周瑜は劉備と同盟を結び、共通の敵である曹操に対抗しました。この「遠交近攻」(遠くの敵と手を結び近くの敵を攻める)は非常に効果的でした。
劉備と諸葛亮の戦略
隆中対
諸葛亮は劉備に対して「隆中対」という長期的な戦略プランを提案しました。
荊州と益州を領有し、西と南の夷狄(異民族)を手なずけ、孫権と手を結び、内政を正しく行うことで魏(曹操)に対抗するという天下三分の計です。
諸葛亮は劉備がまだ無名だった頃から優秀な人材を集め、育成しました。これにより、蜀漢建国後も強力な組織運営が可能となりました。
北伐
諸葛亮は北伐(魏への攻撃)でも多くの戦略を駆使しました:
兵糧輸送車である木牛流馬を開発し、長期的な遠征でも補給線を確保しました。
司馬懿との対峙では、自ら城門を開け放ち敵軍に罠だと思わせて退却させる「空城計」を使用しました。
諸葛孔明が考案した「八卦の陣」は、古代中国の易経に基づく八つの方位を活用した陣形です。この陣形は、敵を囲み込むことで心理的圧力をかけ、各方位に異なる戦術を配置することで敵を翻弄します。五丈原の戦いでは、この陣形を用いて魏軍を巧みに罠にかけました。
「苦肉計」は、敵に対して自らが不利な状況にあることを見せかけて油断させる策略です。赤壁の戦いでは、黄蓋がこの計を用いて曹操を欺きました。
連環計は、複数の部隊を連結させて一体化する戦術で、防御力を高めることができます。赤壁の戦いでは、曹操が船舶を連結させる計略として知られていますが、その実施については不透明な部分もあります。
三国時代の軍事戦略は、地理的要因が大きく影響しました。魏、蜀、呉の三国はそれぞれ異なる地理的条件を持ち、それが戦略に反映されました。
地理的要因と戦略
魏の戦略
魏は北方に位置し、広大な領土と豊富な資源を持っていました。曹操は赤壁の戦い後、一統天下の目標を一時放棄し、防御戦略に転じました。彼は南部辺境地域の百姓を内地に移住させることで、敵の勢力を削ぐと同時に自国の防御力を強化しました。また、合肥、襄陽、祁山、陳倉などを重点防御区域として設定し、中軍と辺防駐軍を組み合わせた柔軟な戦略を採用しました。
蜀の戦略
蜀は山岳地帯に位置し、防御に適した地形を活かしました。劉備は漢中を奪取し、その後も北伐を繰り返しましたが、地形的な制約と補給線の問題から大規模な進攻は困難でした。諸葛亮は「丞相府」を中心とした「覇府」体制を構築し、軍事と政治の両面で強力な指導力を発揮しました。
呉の戦略
呉は長江流域に位置し、水上交通が発達していました。孫策は江東六郡を制圧し、その後孫権が長江沿いに防御ラインを構築しました。呉の戦略は「北守西攻」「東西分兵作戦」「全力西進」など段階的に変化し、長江沿いの防御区分けや兵力配置が詳細に計画されました。
これらの戦略や戦術は、それぞれが独自の哲学や理論に基づいており、三国時代特有の複雑な政治・軍事状況に対応するために工夫されていました。それぞれが状況や相手によって使い分けられ、多くの場合には心理戦や自然環境も考慮された高度なものでした。
まとめ
■ まとめ
まとめ
三国志について「三国志」と「三国志演技」の違い、また三国志に登場する人物を簡単ですが説明してきました。「三国志」「三国志演技」によって、人物像などの描き方がまったく異なる事もあります。書籍も販売されていますので興味のある方は両方を読み比べてその違いを探すのも面白いと思います。
次回からは、人物、エピソードなどに焦点を当てて三国志の魅力を皆さんに伝えていきたいと思います。