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西涼の強兵 蜀漢を支えた馬一族の台頭

西涼の強兵 蜀漢を支えた馬一族の台頭

劉、曹、孫一族など皇帝を輩出した一族を筆頭として、三国志ではいくつかの一族が台頭します。曹操(孟徳)によって滅ぼされた袁一族、三国志の最終的な勝者となった司馬一族、そして、西涼から立ち上がり一時は長安を占領した馬一族もそのひとつです。三国志後半の蜀漢において重要な役割を果たす馬一族の活躍ぶりを見て行きます。


劉備に仕えた龐統(士元) 惜しまれた大賢人の短い生涯

劉備に仕えた龐統(士元) 惜しまれた大賢人の短い生涯

諸葛亮(孔明)と同等かそれ以上の才能を持つとも言われた龐統(士元)。赤壁の戦いの頃から三国志に登場しますが、その才能を十分に発揮することなくこの世を去ってしまいます。短くも深く色濃い生涯となる「龐統(士元)の三国志」を見て行きます。


三国志演義に描かれた周瑜(公瑾) 諸葛亮(孔明)に惜しまれたその才能

三国志演義に描かれた周瑜(公瑾) 諸葛亮(孔明)に惜しまれたその才能

呉の水軍大都督であった周瑜(公瑾)。赤壁の戦いでは劉備軍と連合して曹操(孟徳)の巨大水軍を壊滅させるなど、その実力は随一。駆け引きにおいても常に曹操(孟徳)より上手を行く知力の持ち主でした。華々しい活躍を見せた英雄でしたが36歳でこの世を去ってしまいます。


政略結婚 劉備(玄徳)と孫尚香の結婚 そして切ない結末

政略結婚 劉備(玄徳)と孫尚香の結婚 そして切ない結末

赤壁の戦い後の混乱に乗じて荊州を占領してしまった劉備軍。呉はあの手この手を使ってこれを排除しようとしますがウマク行きません。兵を差し向けてもダメ。外交交渉をしてもダメ。業を煮やした周瑜(公瑾)は策を講じます。孫権(仲謀)の妹である孫尚香と劉備(玄徳)を結婚させるというモノです。


赤壁後の混乱 合肥城の攻防と荊州の領有権争い

赤壁後の混乱 合肥城の攻防と荊州の領有権争い

赤壁の戦い後は曹操軍、呉軍、劉備軍の「三つ巴」様相が鮮明になって行きます。南郡においては呉軍と劉備軍が衝突。劉備軍はさらに荊州南部へ侵攻、そして合肥方面では孫権(仲謀)率いる呉軍が曹操軍の守る合肥城を攻撃します。


長沙郡の攻防 黄忠(漢升)、魏延(文長)が劉備軍に加わる重要地

長沙郡の攻防 黄忠(漢升)、魏延(文長)が劉備軍に加わる重要地

赤壁の戦い後、荊州南部の零陵、桂陽、武陵を次々と平定して行った玄徳軍。最後に残るは長沙郡。これまでの3郡と同様に劉備軍が圧倒的に有利な状況は変わりませんでした。そして長沙郡では、後の蜀漢の中心的存在となる黄忠(漢升)、魏延(文長)が劉備軍に加わります。


赤壁の戦い後 荊州南部侵攻は初めて劉備軍優勢で実行される計画

赤壁の戦い後 荊州南部侵攻は初めて劉備軍優勢で実行される計画

赤壁の戦い後、荊州城、襄陽城、南城を取り荊州北部を制圧した劉備(玄徳)。呉国との紛争を抱えながらも荊州南部侵攻に乗り出します。荊州全土を押さえ、天下三分の計の足掛かりとする諸葛亮(孔明)の大計を実現するための行動の始まりです。


赤壁その後 南郡の攻防 昨日の友は今日の敵

赤壁その後 南郡の攻防 昨日の友は今日の敵

一般的には「昨日の敵は今日の友」ですが、三国志では「昨日の友は今日の敵」という場面もよく出て来ます。呂布(奉先)や袁術(公路)を倒した頃、劉備(玄徳)と曹操(孟徳)は味方同士でしたが、赤壁の戦いにおいてはもはや「敵」。そして、赤壁の戦いに勝利した呉、劉備連合軍も南郡の攻防において徐々に亀裂が生じて来ます。


諸葛亮(孔明)に追い込まれ、赤壁の戦いに見る曹操(孟徳)の限界 

諸葛亮(孔明)に追い込まれ、赤壁の戦いに見る曹操(孟徳)の限界 

208年、江東・江南支配を目指した曹操(孟徳)でしたが、劉備(玄徳)、孫権(仲謀)の連合軍に阻まれて大敗北を喫します。河北・荊州を制して日の出となっていた曹操(孟徳)の勢いが止まり、三国志が新たな局面を迎えます。そして、結果的には最期まで曹操(孟徳)は江東・江南を支配するに至らなかった彼の限界が、ここに伺えます。


赤壁開戦までの論争 諸葛亮(孔明)命を賭した大論陣

赤壁開戦までの論争 諸葛亮(孔明)命を賭した大論陣

208年、河北一帯をほぼ平定した曹操(孟徳)は、中国全土の統一を目指し南征軍を興します。当時の中国南部の大きな勢力は荊州と呉国でしたが、劉表(景升)が亡くなった荊州が進撃してきた曹操軍に降伏。劉備軍は江夏、夏口へ逃亡しますが、曹操(孟徳)有利の体勢がますます強化されてしまいました。


赤壁の戦い 兵士数で圧倒しながらも謀略戦で完敗した曹操軍

赤壁の戦い 兵士数で圧倒しながらも謀略戦で完敗した曹操軍

曹操(孟徳)が袁紹(本初)を滅ぼした「官渡の戦い」と同様に「大戦」となることが容易に想像できる呉国との戦い。曹操(孟徳)は自軍の戦いを優位に導くため、実践前に様々な「謀略」を用います。しかしそれは、呉国も同様でした。国の存亡を賭けての戦い。ここに「実践前の謀略戦」が繰り広げられます。


劉備(玄徳)の仁愛がたくさん発揮される荊州での出来事

劉備(玄徳)の仁愛がたくさん発揮される荊州での出来事

劉備(玄徳)にとって荊州は後に蜀を建国する上での足場固めとなる土地ですが、そのような(蜀の攻略を思案する)状況に辿り着くまでには実に紆余曲折がありました。様々な出来事において劉備(玄徳)の仁愛がクローズアップされ、多くの人材が劉備(玄徳)のもとに集まります。


劉備(玄徳)は巻き込まれたのか? 劉表(景升)一族のお家騒動

劉備(玄徳)は巻き込まれたのか? 劉表(景升)一族のお家騒動

曹操(孟徳)に追われ、一時は関羽(雲長)、張飛(翼徳)とも離散してしまった劉備(玄徳)でしたが、苦難の末に「義兄弟」は再集結。劉備(玄徳)は同族のよしみを頼って荊州太守であった劉表(景升)のもとに身を寄せます。


小覇王孫策の生涯 短命に終わってしまった理由は何か

小覇王孫策の生涯 短命に終わってしまった理由は何か

三国志において呉の国は「三代に渡って…」という表現がよく用いられます。初代は孫堅(文台)、二代目は孫策(伯符)、そして後に「呉の大黒柱」と言われ、呉皇帝を名乗る孫権(仲謀)は「三代目」となります。三人の中でも特に浮沈の激しかった二代目、孫策(伯符)の生涯を見て行きます。


関羽の千里行 5つの関所を突破させた主従の固い結束とは

関羽の千里行 5つの関所を突破させた主従の固い結束とは

200年、徐州にいた劉備(玄徳)は曹操軍に追い詰められてしまいます。劉備(玄徳)は命からがら袁紹(本初)が治める河北に逃げ込みますが、張飛(翼徳)は行方不明、関羽(雲長)は曹操軍に捕らえられてしまいます。


諸葛亮(孔明)でさえ苦労した劉備軍での「新入り時代」

諸葛亮(孔明)でさえ苦労した劉備軍での「新入り時代」

天才軍師諸葛亮(孔明)。劉備(玄徳)の手厚い招聘を受けて劉備軍へ加入しますが、最初のうちは内部の人間関係で結構苦労しています。圧倒的な知力を持ち、参謀となれば大きな戦力となるであろう人材なのに周囲の目は意外に冷ややか…どんな世界でも「新人さん」は大変ですね。


曹操(孟徳)の敗北 三国志の覇者曹操も結構負けてる

曹操(孟徳)の敗北 三国志の覇者曹操も結構負けてる

中国が魏、呉、蜀の三国に分かれた時代。統一には至らなかったものの、国土の3分の2を支配した曹操(孟徳)は実質的には三国志の覇者と言ってもいいでしょう。そんな曹操(孟徳)も連戦連勝ではなく、戦に敗れ命からがら助かる…という経験を何度もしています。


油断大敵。英雄と言えども油断によって失敗した経験あり

油断大敵。英雄と言えども油断によって失敗した経験あり

戦場では気力が充実した者同士が戦い、策を講じ、運に左右されて勝敗が決まることばかりではありません。自らの緩み、怠慢が原因で「自滅」する場合もあります。「内から敗れる時が真の敗北」などとも言われますが、三国志の戦いの中で「油断」によって戦いの勝敗が決した場面を考えてみます。


三国志で活躍した女性たち 労いや養育の面で女性は長けている

三国志で活躍した女性たち 労いや養育の面で女性は長けている

戦場での攻防や過酷な行軍が取り沙汰されることの多い三国志。武将、文官など多くの男性が登場しますが、そんな男性たちに対し表となり裏となって活躍する女性の活躍も見逃せません。時の権力者の立場を一変させてしまうような場面もあるのです。


地の利 人の和 天の時 三国志に見る武将たちの特性

地の利 人の和 天の時 三国志に見る武将たちの特性

三国志では「地の利 人の和 天の時」という言葉がよく用いられます。物事を有利に運ぶ条件として用いられます。主に「曹操(孟徳)、孫権(仲謀)、劉備(玄徳)」に対して用いられますが…