劉備(玄徳)の蜀漢建国を邪魔する曹操(孟徳)、孫権(仲謀)の陰謀

劉備(玄徳)の蜀漢建国を邪魔する曹操(孟徳)、孫権(仲謀)の陰謀

荊州から益州に入った劉備(玄徳)は214年に成都を攻略し劉璋(季玉)を降伏させます。そして、劉璋(季玉)の身柄と財産を保障して振威将軍の印綬を与えた上で公安に送り、豊富な物資と軍勢を手に入れました。さらに劉璋(季玉)の旧臣を積極的に召抱えて人的な面でも大きく充実しました。 当然、曹操(孟徳)、孫権(仲謀)はこの動きが不愉快です。


荊州の返還を迫る孫権(仲謀) 使者は諸葛亮(孔明)の兄

孫権(仲謀)は益州牧となった劉備(玄徳)に対して元々「領地を貸した」ことになっている荊州の返還を迫って来ます。そして、何と使者には諸葛亮(孔明)の兄、諸葛瑾(子瑜)を立てて来ました。諸葛瑾(子瑜)は劉備(玄徳)に言います。「この交渉が不成功の場合には、私(諸葛瑾)の家族が打ち首になる」と…。これは孫権(仲謀)の計略でした。蜀に諸葛瑾(子瑜)の弟(諸葛亮)がいることを知っている上で「情で攻める作戦」を取ったのです。

しかし、これは劉備(玄徳)、諸葛亮(孔明)に見抜かれており、逆に計略を仕掛けられてしまいます。

劉備(玄徳)は諸葛瑾(子瑜)の前で激怒(したフリ)します。「余(劉備)が益州攻略に赴いた際に孫権(仲謀)が取った行動は何だ!我が妻(孫夫人のこと)との仲を引裂き、妻を呉に連れ戻し、面目を丸潰しにした!この恨み忘れん!荊州が欲しければ力で取れ!」とその怒りは激しいモノでした。

兄弟の情、主従の情、逆手に取った諸葛亮(孔明)の計略

劉備(玄徳)が怒りを露わにしている最中に諸葛亮(孔明)が傍らで涙を流して言います。「兄と兄の家族が打ち首になるのを弟として見ていられない。そのような事があれば、弟として何でこの世で生き続けられましょうか…」

諸葛亮(孔明)は、まんまと孫権(仲謀)の計略にかかった「フリ」をします。そして劉備(玄徳)には荊州を「完全な返還」ではなく「割譲」を提案。劉備(玄徳)がこれを受け入れます。そして、諸葛瑾(子瑜)は劉備(玄徳)の「命令書(荊州割譲の)」を持って関羽(雲長)の守る荊州へ向かいます。

しかし、荊州で劉備(玄徳)の「命令書」を読んだ関羽(雲長)は一言…。


「断る」


驚いた諸葛瑾(子瑜)は「これは君命(劉備の)でござりますぞ!」と食い下がりますが関羽(雲長)は聞き入れません。「将、外にありては君命にも従わざりしことあり」「この書簡(命令書)は呉国の計略である可能性もある」というのが関羽(雲長)の主張です。諸葛瑾(子瑜)は慌てて成都に戻り劉備(玄徳)に詰問します。劉備(玄徳)は「頑固者の義弟(関羽)のことなので仕方ない…今後、我々(劉備の軍勢)が漢中を攻略したらそこに関羽(雲長)を赴任させるので、その時まで待ってはいただけぬか」と提案します。

実は、諸葛亮(孔明)の「泣き」も関羽(雲長)の「拒否」もすべて諸葛亮(孔明)の策でした。劉備(玄徳)、関羽(雲長)との三者で結託して諸葛瑾(子瑜)を「丸め込んだ」のです。結局、この時は「返還」も「割譲」も行われませんでした。

そして、その後も荊州に関しての呉・蜀の「小競り合い」は続きます。

蜀漢討伐に動く曹操(孟徳) その前に内部で起こった揉めごと

劉備(玄徳)の蜀漢建国は曹操(孟徳)にとっても面白くありません。当然、蜀漢討伐を目論みますが、この頃、魏国内では「曹操暗殺」の動きがありました。計画の首謀者は伏皇后。曹操(孟徳)に脅され肩身の狭い思いを強いられている献帝を心配しての行動でした。

伏皇后は父の伏完に密書を送ります。しかし、魏国内はおろか、朝廷内においても曹操(孟徳)を指示する勢力が目を光らせており、暗殺計画を進めるなど容易な事ではない…伏完は「反曹操」の気持ちはあるものの、「今しばらくの自重」を即す返事をします。

ところが、この密書の「運び役」を担っていた獏順が曹操の部下に怪しまれ、捉えられてしまいます。獏順は髪の毛の中に隠していた密書を発見され、暗殺計画があっけなく露見してしまいます。

一族郎党の虐殺 権力を脅かす者、何人たりとも許さぬ

曹操(孟徳)の基本的な考え方です。この時も例外ではありませんでした。首謀者であった伏皇后は宮中で曹操(孟徳)の派遣した兵士に捕えられます。ちなみに宮中に武装した兵士は立ち入り禁止です。しかし、曹操(孟徳)の兵士は問答無用で押し入ってしまいました。曹操(孟徳)が力で朝廷を牛耳っている背景がよく伝わってきます。

かよわい伏皇后であっても曹操(孟徳)の慈悲はありませんでした。伏皇后は刑場に連行され両腕を縛って吊し上げられ棒刑(棒で身体を叩く)に処されて死亡します。さらに、伏完、穆順を始め、その一族がことごとく捕えられ、その日のうちに二百人以上が虐殺されました。見せしめとは言え、あまりにも残酷な結末です。

後日、献帝には「曹節」という曹操(孟徳)の娘が新たに嫁ぐことになりました。「何もかも忘れて新しい生活をなさりませ」という曹操(孟徳)から献帝への提案が元になっていることでした。当然のことながら、「提案」というのは表向きで、曹操(孟徳)の大いなる圧力が背景にあり、献帝は全く抵抗できなかった事は言うまでもありません。曹節の件をもって、曹操(孟徳)は皇帝一族の「外戚」となり、その権力をますます強大化していったのです。

蜀漢討伐に乗り出す曹操(孟徳)、最初の標的は漢中

魏国内の混乱を何とか凌いだ曹操(孟徳)、本来の目的たる蜀漢討伐の準備に入ります。重臣たちと協議を重ねた結果、地理的に蜀漢の入口のような役割を果たしている漢中から攻略することになりました。なぜ「入口」なのかと言うと…中国は漢中付近から南西部の益州にかけて険しい山岳地帯が広がるからです。都の存在する中原から攻め入ろうとすると、山岳地帯の険しい道のりを越えなくてはなりません。そのため、朝廷は漢中に対して毎年貢物を献上すれば自治を認める…という懐柔策を採っていました。

万全を期しての出兵も山岳地帯の洗礼を受け緒戦は散々

夏侯淵(妙才)、張郃(儁乂)を先鋒に漢中に入った曹操(孟徳)でしたが、山岳地帯の険しい道のりを行軍した結果、兵士は疲弊し戦場となる陽平関に到着した直後に「休息(次の日から攻撃を開始する方針)」を取ってしまいました。

これを漢中軍に読まれていたのです。

陽平関に到着した直後、疲れ果てている曹操軍の「寝込み」を襲う…この作戦は大成功。曹操軍は緒戦で大敗北を喫します。

しかし、圧倒的な物量、兵士数を誇る曹操軍は次第に攻勢に転じ、最終的には曹操(孟徳)が漢中を平定します。劉備(玄徳)が建国した新生蜀漢にとって大きな脅威になったことは言うまでもありません。

まとめ

新しい国が建てられれば、直ちに他の誰かが倒しにかかる…。劉備(玄徳)の蜀漢建国に関わる曹操(孟徳)、孫権(仲謀)の動きは、三国志の時代がまさに「戦国時代」であることを象徴しています。

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