三国志で人気の英雄の1人が孫策です。26歳という短命だった孫策ですが、その功績は凄まじく呉の基礎を作ったと言っても過言ではありません。今回は、そんな孫策がもし長生きしていたらどうなっていたのかを考察していきたいと思います。
三国志において、関羽・張飛・趙雲、魏の張遼・徐晃・張郃に比べ、どうしても有名な武将が中々上がってこない呉の国。正史では有能な将であった周瑜・魯粛・諸葛瑾・陸遜辺りが、演義では参謀のように書かれている。ですが、演義でも正史でも有能な武将として書かれている人物がいます。それが甘寧です。彼はどんな人物であったのでしょうか?
三国志・曹操や孫策には評価されたが、孫権に疎まれた謀臣・虞翻
あまり知られていない謀臣に呉の「虞翻」がいます。彼の才は孫策や曹操に認めらながらも孫権には評価されず、不遇を強いられています。三国志演義にはほとんど登場しない虞翻の活躍ぶりを見ていきましょう。
三国志の主な登場人物をどこよりも端的に紹介。(三国志 三国 時代 人物 相関 図)個人的見解もありますが、大それたことにはなっていないと思う為「これから三国志を学んでみたい」「三国志のゲームでこの武将はどんな人物か知りたい」と思う人は是非読んでください。さらに深く知るきっかけになれば幸いです。(三国志 キャスト相関図)
孫策・孫権の江東軍において軍事の頭脳は周瑜・魯粛・諸葛瑾など数多く挙げられますが、内政の頭脳といえる人物は張昭・張紘の二名が真っ先に挙げられるでしょう。江東の二張と呼ばれるこの二人、どういう人物だったのでしょうか
三国志を読んでいて一番盛り上がるのは一騎打ちのシーンだという人は多いと思います。関羽と黄忠・張飛と馬超・許褚と典韋・etc。どれも演義で読むとワクワクするシーンですが、その殆どは演義での創作です。日本でも、武田信玄と上杉謙信の一騎打ちなどが有名ですが、殆どが創作です。合戦者の著者も読者が楽しめる内容を求めて書いたのでしょう。ですが、わずかながらも正史に記載されている一騎打ちもあります。果たして、どのような一騎打ちがあったのでしょう。
多くの人が三国志で一番強い武将に呂布(奉先)を挙げます。しかし彼はよく君主を裏切る人物だったので自分が君主だった場合彼に多くの年俸を払いたいと思いたくはないでしょう。ここでは独断と偏見で「自分が君主だったら誰にどれだけの年俸を払いたいか」という事を紹介したいと思います。プロ野球などの年俸を意識してもらえたら幸いです。
三国志の登場人物の多くは「人情味あふれる武将」「一騎当千となるような豪将」と言った男性に好かれる面を押し出していることが多いです。そういった場合あまりルックスや、モテ要素などは語られないのですが、ここでは逆にそういった要素たっぷりの呉の武将を紹介します。架空で誰と付き合いたいか考えてみてください。
三国志に登場する人物には名前や字の他にあだ名がつけられる者もいました。ここでは君主と軍師についてのあだ名について紹介します。「伏龍」や「鳳雛」というあだ名を聞いてそれが誰を指すのかが理解できたら三国志通と言っても過言ではありません。さらになぜそういうあだ名になったのかという事も紹介したいと思います。
三国志には実に多くの一騎打ちがあり、それにより戦局が大きく変わるという事が多々ありました。また一騎打ちを行うことで相手に脅威を与えることができ、さらには下の者「士気を上げる」ことにも役立っていました。ここではそんな一騎打ちにまつわる話を紹介したいと思います。
有能な武将を率いて一代勢力に築いたのが孫策であり、それを受け継いで皇帝にまで登りつめたのが弟の孫権でした。しかし、彼らには偉大な父の孫堅が築き上げた基盤があり、当時の権力者・董卓に立ち向かっていました。そんな呉の基盤を作り上げた孫堅の戦歴をみていきましょう。
三国志の中でも魏と蜀という強敵相手に対等に戦った武将というのは数少ないものです。その中でも呂蒙は孫策や孫権、周瑜のもとで功績を挙げていき、ついには大都督にまで登りつめました。そんな呂蒙の軌跡をみていきましょう。
周瑜公瑾、赤壁の戦いで大都督として孫権軍、劉備軍を率いた周瑜(公瑾)とはどういう男だったのだろうか。周瑜公瑾の能力、周りの人物、エピソードなどから周瑜公瑾の生涯についてみていきたいと思います。周瑜(公瑾)を知ると諸葛亮(孔明)に引けを取らない人物だったと思うかもしれません。
三国志演義に描かれた周瑜(公瑾) 諸葛亮(孔明)に惜しまれたその才能
呉の水軍大都督であった周瑜(公瑾)。赤壁の戦いでは劉備軍と連合して曹操(孟徳)の巨大水軍を壊滅させるなど、その実力は随一。駆け引きにおいても常に曹操(孟徳)より上手を行く知力の持ち主でした。華々しい活躍を見せた英雄でしたが36歳でこの世を去ってしまいます。
三国志・ビジネスマンは、孫策の江東制圧戦から学べることが多い
凄まじい勢いで、江東を制圧していった「孫策」。しかし、相手も備えは充分です。もちろんそんな簡単にはいきませんでした。奪った拠点を奪還されたりもしているのです。
荊州を支配した劉表は、三国志演義では優柔不断で頼りない印象を受け、劉備や孫策の引き立て役になっていました。しかし、三国時代には激戦区となる荊州を、存命中に実効支配していたのは劉表の影響力が強かったからといえます。そんな劉表の凄さをみていきましょう。
三国志正史には900人以上の人物が登場し、三国志演義にも400人を超える人物が描かれています。それだけ多くの人物が登場すると共通点をもっている人物もたくさん出てきます。意外な共通点をもつ人物に気づくと、三国志をもっと楽しく読めるかも知れません。
強い漢ばかりではない!派手な活躍もせずに、残念な死を遂げた武将3選
三国志の歴史の中には様々な武将がいます。知恵のある武将から一人で戦況を変えてしまうような武将まで、多くの憧れるような武将たちがいました。しかし、その中には、あっという間に死んでいった武将たちもいます。すべての武将がかっこいい最期を遂げていったわけではなく、残念な最期を迎えた武将を紹介します。
英雄であろうと覇者であろうと人間である以上、必ず死は訪れます。彼らは最期の瞬間に何を思ったのでしょうか?2000年前から伝わる英雄たちの最期の言葉を取り上げてみました。また、この遺言、演義と正史の差があまりありません。なので、「この言葉知っている」ということも多いと思います。
三国の一つ呉の国の土台を築いたのは、皇帝孫権の兄孫策です。小覇王と称されたくらいですから、楚の国の英雄だった覇王項羽なみの武勇を誇っていたのでしょう。ですが、それだけで国を興すことは出来ません。果たして一国を築き上げた孫策とはどのような人物だったのでしょう。