強い漢ばかりではない!派手な活躍もせずに、残念な死を遂げた武将3選

強い漢ばかりではない!派手な活躍もせずに、残念な死を遂げた武将3選

三国志の歴史の中には様々な武将がいます。知恵のある武将から一人で戦況を変えてしまうような武将まで、多くの憧れるような武将たちがいました。しかし、その中には、あっという間に死んでいった武将たちもいます。すべての武将がかっこいい最期を遂げていったわけではなく、残念な最期を迎えた武将を紹介します。


張松

益州の蜀の臣として活躍していた張松ですが、その死因はただの死刑です。しかし、その死刑になるまでの経緯がほかの武将のように戦闘の末に捕虜となり、死刑になったというわけではありません。むしろ、味方によって死刑になったと言っても過言ではありません。では、なぜ死刑になってしまったのでしょうか。

元々、張松はとても頭の切れる人間でした。曹操が書いた本を一回読んだだけですべての内容を暗記しており、全て答えることができるくらいには頭が良かったです。

そんな張松ですが、致命的なことをしてしまいます。当時の蜀は劉璋の手によって動いており、曹操と手を結ぶ算段になっていました。

しかし、使者として魏の国に行った張松が冷たくあしらわれてしまったため、怒ってしまい魏の国と手を組むことはありませんでした。

代わりに荊州にいた劉備と組むことを進言します。劉備を取り込むことに成功した張松ですが、龍日がマイペースであったため、あまり争いを起こそうとしません。

そして、しびれを切らした張松は劉備(玄徳)に成都に攻め込むように催促状を送ります。しかし、これは極秘で行ってきていたのに、この催促状が自分の兄にバレてしまいます。

そして兄もこれを劉璋にバラしてしまいます。これを知った劉翔は即座に張松を捕まえて死刑にしました。極秘でやっていたことが自分の兄にバレてしまい、即座に死んでしまうという隠し事がうまくいかずに死んでしまい、醜態をさらしました。

王朗

王朗は魏という国の中でも大きな役割を担っていた人の一人です。曹操の時代から魏の国に尽力していた武将の一人です。魏の人物の中ではそこまで目立たないながらも中心人物として国をより良くしようとしていた人物です。そんな縁の下の力持ちとして活躍していた王朗がなぜ残念な最期を遂げたのでしょうか。

王朗は死因は憤死と言われています。憤死というのは、怒りのあまり体調を崩してしまい、死んでしまうという死に方です。そんなにストレス溜め込むなよというくらい当時の人たちは神経をすり減らせながら戦を行っていました。現代で言うならば、パワーハラスメントやモラルハラスメントなどによって、ストレスを感じてしまい、結果的に体調を崩し死んでしまうというものです。

「そんな死に方はありえない」と感じる人も多いかと思いますが、”憤死”という死因で亡くなった武将は少なくありません。呉の周瑜や陸遜などもこの憤死という死に方で亡くなった武将です。決して珍しい死因ではないのです。

ではなぜ王朗は憤死をするまで追い込まれたのでしょうか。これは魏と蜀の合戦中に起こった魏の王朗と蜀の諸葛亮の論戦が原因です。魏と蜀と合戦中に諸葛亮と王朗が論議をすることになります。王朗は曹操の血を引いている曹丕こそが天下を作る人だと宣言します。

しかし、それをあざ笑うかのように諸葛亮が王朗の過去を掘り出したりすることで論破します。これに返す言葉もない王朗は馬の上で言葉だけで諸葛亮に殺されてしまいます。

当時の世界では、諸葛亮は軍師の中でも天才レベルでした。もちろん、語らせれば大抵の人が論戦すれば、負けたことでしょう。そんな無謀な戦いに挑み、あっさり負けてしまう惨めな死に方をします。

孫策

孫策(伯符)は袁術のもとで武将として活躍していた優秀な武将の1人です。袁術のもとで武将としての能力を磨き、20歳の頃には袁術の元を離れ自立していました。

三国志の歴史の中では小覇王とも呼ばれており、三国志の歴史の中では欠かせない人物の1人です。ちなみに小覇王と言うのは背が小さいからと言うわけではなく、父親であった孫堅の息子ジュニアと言う意味での小覇王となります。

当時、絶対的な力があった曹操(孟徳)もこの孫策の同行は気にしており、あわよくば自分の下に引き込もうとしていたほど、力はありました。

しかし、孫策は曹操に軍事の最高職である階級を要求しましたが、曹操はこれにかなりご立腹し、生意気な態度だとみなし、これを断りました。

これに激怒した孫策は大兵力を持って曹操の本拠地である許都を襲撃しようとします。当時の曹操は袁紹との戦いに明け暮れており、他の戦いには手を回す余裕がない状態であり、孫策がもし曹操に攻め入っていればこの時点で曹操が死んでいたという可能性もなくはないでしょう。

しかし、孫策の計画をしたこの領主である許貢によってその情報は曹操に伝えられるのです。これに激怒した孫策は許貢をあっさりと殺害してしまいます。許貢が殺された事が世の中に広まっていくと、これを気に食わないと思う人間も出てきます。

その食客はどうしても許貢の敵を取りたいと言うことで、仲間とその他3名で孫策を狙うと言う計画を立てます。そして孫策が狩りに出た際に1人になった時を見計らい、襲いかかりましたが、孫策はあっさり撃退してしまいます。

しかし、死ぬ間際1人が放った弓矢が孫策の頬を貫通してしまいます。頬であったため、死に至るほどではありませんでしたが、顔にできた傷は、当時イケメンと言うことで知られていた孫策の容貌を見違えるほど悪くしたと言われています。

孫策は自分の顔イケメンだということを認識していたため、怪我が治り包帯を取り外して見えた頬のひどい傷を見て、

「こんな無様な姿になっては、彼に覇を唱えることなどできない。」と泣き叫んでしまい、その反動で頬の傷が開き、大量出血を起こしたと言われています。

この出血が原因となり孫策の容体は日に日に悪化していき、死が目前となるほど体調が悪くなっていきます。自分が死ぬと悟った孫策は自分の息子ではなく、弟の孫権を自分のもとに呼び、自分に代わってこの将来を託すように告げ、26歳と言うまだまだこれからの年齢で生涯を閉じました。

まとめ

今回は華やかな三国志の歴史の中でも残念な死に方をしている人を紹介しました。三国志の武将といえば、死力を尽くして戦場で戦って勇ましく死んでいったり、主君となる人の盾となり、死んでいったというカッコよく人生を終えた人も多いイメージですが、無残に死んでいった武将も中にはいます。

ゲームなどでは死に様は美化されていますが、現実として捉えると意外と「ダサい」死に方をしている武将も多いことを忘れてはいけません。

関連するキーワード


孫策 張松 王朗

関連する投稿


三国武将。意外な人物同士の共通点

三国武将。意外な人物同士の共通点

三国志正史には900人以上の人物が登場し、三国志演義にも400人を超える人物が描かれています。それだけ多くの人物が登場すると共通点をもっている人物もたくさん出てきます。意外な共通点をもつ人物に気づくと、三国志をもっと楽しく読めるかも知れません。


後は頼んだ・・・英雄たちの遺言

後は頼んだ・・・英雄たちの遺言

英雄であろうと覇者であろうと人間である以上、必ず死は訪れます。彼らは最期の瞬間に何を思ったのでしょうか?2000年前から伝わる英雄たちの最期の言葉を取り上げてみました。また、この遺言、演義と正史の差があまりありません。なので、「この言葉知っている」ということも多いと思います。


呉の国の英雄孫策とは!?

呉の国の英雄孫策とは!?

三国の一つ呉の国の土台を築いたのは、皇帝孫権の兄孫策です。小覇王と称されたくらいですから、楚の国の英雄だった覇王項羽なみの武勇を誇っていたのでしょう。ですが、それだけで国を興すことは出来ません。果たして一国を築き上げた孫策とはどのような人物だったのでしょう。


三国志・どこまでが架空なのか? 6人の「幻のような女性たち」

三国志・どこまでが架空なのか? 6人の「幻のような女性たち」

三国志には個性豊かなキャラが多数登場します。今回はその中から「幻のような女性たち」を6人ご紹介いたします。


小覇王孫策の生涯 短命に終わってしまった理由は何か

小覇王孫策の生涯 短命に終わってしまった理由は何か

三国志において呉の国は「三代に渡って…」という表現がよく用いられます。初代は孫堅(文台)、二代目は孫策(伯符)、そして後に「呉の大黒柱」と言われ、呉皇帝を名乗る孫権(仲謀)は「三代目」となります。三人の中でも特に浮沈の激しかった二代目、孫策(伯符)の生涯を見て行きます。


最新の投稿


三国志・董卓のような暴君か、劉禅のような暗君か、呉のラストエンペラー孫皓の器量

三国志・董卓のような暴君か、劉禅のような暗君か、呉のラストエンペラー孫皓の器量

呉の最後の皇帝である「孫皓」。残虐な皇帝として有名ですが、はたしてどのような器量だったのでしょうか。


諸葛亮(孔明)を育んだ襄陽は英傑ぞろいの地だった

諸葛亮(孔明)を育んだ襄陽は英傑ぞろいの地だった

三国志きっての天才・蜀の軍師である諸葛亮(孔明)を育んだのは襄陽の隆中でした。そこは英傑がこぞって在野で知を競い合う土地だったのです。どんな人物たちが切磋琢磨していたのでしょうか。


諸葛亮(孔明)が発明した幻の連弩

諸葛亮(孔明)が発明した幻の連弩

三国志演義では関羽(雲長)の愛刀の青龍偃月刀や張飛(翼徳)の蛇矛(じゃぼう)など、人々を魅了する武器が登場します。そこまで有名ではないものの、諸葛亮(孔明)が発明した当時は画期的な新兵器だった幻の連弩を紹介します。


知られざる三国時代の民衆の文化を考察してみる

知られざる三国時代の民衆の文化を考察してみる

魏・呉・蜀と多くの国々が戦った三国時代ですが、この時代ではなんと約7割の民衆が命をおとしたというとても悲しい現実があります。今回はあえて三国武将にスポットをあてずに三国時代を生きた民衆の文化について考察していこうと思います。


桃園の誓いから生涯関羽(雲長)の相棒となった青龍偃月刀

桃園の誓いから生涯関羽(雲長)の相棒となった青龍偃月刀

関羽(雲長)は桃園の誓いにて劉備(玄徳)らと義兄弟の契りを交わして以降、青龍偃月刀を愛刀としました。軍神と言われるほどの関羽(雲長)の活躍は関羽(雲長)個人の実力だけでなく、青龍偃月刀という武器が優れていたからと言っても過言ではありません。


https://sangokushirs.com/articles/196