張松
■ 張松
張松
益州の蜀の臣として活躍していた張松ですが、その死因はただの死刑です。しかし、その死刑になるまでの経緯がほかの武将のように戦闘の末に捕虜となり、死刑になったというわけではありません。むしろ、味方によって死刑になったと言っても過言ではありません。では、なぜ死刑になってしまったのでしょうか。
元々、張松はとても頭の切れる人間でした。曹操が書いた本を一回読んだだけですべての内容を暗記しており、全て答えることができるくらいには頭が良かったです。
そんな張松ですが、致命的なことをしてしまいます。当時の蜀は劉璋の手によって動いており、曹操と手を結ぶ算段になっていました。
しかし、使者として魏の国に行った張松が冷たくあしらわれてしまったため、怒ってしまい魏の国と手を組むことはありませんでした。
代わりに荊州にいた劉備と組むことを進言します。劉備を取り込むことに成功した張松ですが、龍日がマイペースであったため、あまり争いを起こそうとしません。
そして、しびれを切らした張松は劉備(玄徳)に成都に攻め込むように催促状を送ります。しかし、これは極秘で行ってきていたのに、この催促状が自分の兄にバレてしまいます。
そして兄もこれを劉璋にバラしてしまいます。これを知った劉翔は即座に張松を捕まえて死刑にしました。極秘でやっていたことが自分の兄にバレてしまい、即座に死んでしまうという隠し事がうまくいかずに死んでしまい、醜態をさらしました。
王朗
■ 王朗
王朗
王朗は魏という国の中でも大きな役割を担っていた人の一人です。曹操の時代から魏の国に尽力していた武将の一人です。魏の人物の中ではそこまで目立たないながらも中心人物として国をより良くしようとしていた人物です。そんな縁の下の力持ちとして活躍していた王朗がなぜ残念な最期を遂げたのでしょうか。
王朗は死因は憤死と言われています。憤死というのは、怒りのあまり体調を崩してしまい、死んでしまうという死に方です。そんなにストレス溜め込むなよというくらい当時の人たちは神経をすり減らせながら戦を行っていました。現代で言うならば、パワーハラスメントやモラルハラスメントなどによって、ストレスを感じてしまい、結果的に体調を崩し死んでしまうというものです。
「そんな死に方はありえない」と感じる人も多いかと思いますが、”憤死”という死因で亡くなった武将は少なくありません。呉の周瑜や陸遜などもこの憤死という死に方で亡くなった武将です。決して珍しい死因ではないのです。
ではなぜ王朗は憤死をするまで追い込まれたのでしょうか。これは魏と蜀の合戦中に起こった魏の王朗と蜀の諸葛亮の論戦が原因です。魏と蜀と合戦中に諸葛亮と王朗が論議をすることになります。王朗は曹操の血を引いている曹丕こそが天下を作る人だと宣言します。
しかし、それをあざ笑うかのように諸葛亮が王朗の過去を掘り出したりすることで論破します。これに返す言葉もない王朗は馬の上で言葉だけで諸葛亮に殺されてしまいます。
当時の世界では、諸葛亮は軍師の中でも天才レベルでした。もちろん、語らせれば大抵の人が論戦すれば、負けたことでしょう。そんな無謀な戦いに挑み、あっさり負けてしまう惨めな死に方をします。
孫策
■ 孫策
孫策
孫策(伯符)は袁術のもとで武将として活躍していた優秀な武将の1人です。袁術のもとで武将としての能力を磨き、20歳の頃には袁術の元を離れ自立していました。
三国志の歴史の中では小覇王とも呼ばれており、三国志の歴史の中では欠かせない人物の1人です。ちなみに小覇王と言うのは背が小さいからと言うわけではなく、父親であった孫堅の息子ジュニアと言う意味での小覇王となります。
当時、絶対的な力があった曹操(孟徳)もこの孫策の同行は気にしており、あわよくば自分の下に引き込もうとしていたほど、力はありました。
しかし、孫策は曹操に軍事の最高職である階級を要求しましたが、曹操はこれにかなりご立腹し、生意気な態度だとみなし、これを断りました。
これに激怒した孫策は大兵力を持って曹操の本拠地である許都を襲撃しようとします。当時の曹操は袁紹との戦いに明け暮れており、他の戦いには手を回す余裕がない状態であり、孫策がもし曹操に攻め入っていればこの時点で曹操が死んでいたという可能性もなくはないでしょう。
しかし、孫策の計画をしたこの領主である許貢によってその情報は曹操に伝えられるのです。これに激怒した孫策は許貢をあっさりと殺害してしまいます。許貢が殺された事が世の中に広まっていくと、これを気に食わないと思う人間も出てきます。
その食客はどうしても許貢の敵を取りたいと言うことで、仲間とその他3名で孫策を狙うと言う計画を立てます。そして孫策が狩りに出た際に1人になった時を見計らい、襲いかかりましたが、孫策はあっさり撃退してしまいます。
しかし、死ぬ間際1人が放った弓矢が孫策の頬を貫通してしまいます。頬であったため、死に至るほどではありませんでしたが、顔にできた傷は、当時イケメンと言うことで知られていた孫策の容貌を見違えるほど悪くしたと言われています。
孫策は自分の顔イケメンだということを認識していたため、怪我が治り包帯を取り外して見えた頬のひどい傷を見て、
「こんな無様な姿になっては、彼に覇を唱えることなどできない。」と泣き叫んでしまい、その反動で頬の傷が開き、大量出血を起こしたと言われています。
この出血が原因となり孫策の容体は日に日に悪化していき、死が目前となるほど体調が悪くなっていきます。自分が死ぬと悟った孫策は自分の息子ではなく、弟の孫権を自分のもとに呼び、自分に代わってこの将来を託すように告げ、26歳と言うまだまだこれからの年齢で生涯を閉じました。
まとめ
■ まとめ
まとめ
今回は華やかな三国志の歴史の中でも残念な死に方をしている人を紹介しました。三国志の武将といえば、死力を尽くして戦場で戦って勇ましく死んでいったり、主君となる人の盾となり、死んでいったというカッコよく人生を終えた人も多いイメージですが、無残に死んでいった武将も中にはいます。
ゲームなどでは死に様は美化されていますが、現実として捉えると意外と「ダサい」死に方をしている武将も多いことを忘れてはいけません。