三国志・曹操や孫策には評価されたが、孫権に疎まれた謀臣・虞翻

三国志・曹操や孫策には評価されたが、孫権に疎まれた謀臣・虞翻

あまり知られていない謀臣に呉の「虞翻」がいます。彼の才は孫策や曹操に認めらながらも孫権には評価されず、不遇を強いられています。三国志演義にはほとんど登場しない虞翻の活躍ぶりを見ていきましょう。


三国志演義では活躍の場面なし

三国志演義では活躍の場面なし

三国志演義では活躍の場面なし

虞翻、字は仲翔。揚州会稽郡の名門の家に生まれ、父の虞歆は交州日南郡太守を務めていました。虞翻もまた、会稽郡の功曹を務めています。そして会稽郡の太守である王朗の相談役として三国志には登場してくるのです。
ちょうど、袁術配下の孫策が江東制圧のために兵を派遣してきた場面です。

「三国志演義」では孫策に歯向かうことに反対し、王朗のもとを飛び出し、やがて孫策・孫権に仕えました。赤壁の戦いの前には、諸葛亮(孔明)に舌戦を挑みましたが敗れています。呂蒙の荊州侵攻を助けたことのみ触れられており、その後はフェードアウト。まったく活躍していないのですが、「三国志正史」では違います。王朗を献身的に支え、さらにその才能を孫策や曹操に高く評価されています。
三国志演義と三国志正史で扱いが大きく異なるのが、虞翻なのです。

孫策が会稽を攻めた際に虞翻が進言した戦略とは

孫策が会稽を攻めた際に虞翻が進言した戦略とは

孫策が会稽を攻めた際に虞翻が進言した戦略とは

太守の王朗は政治の手腕こそ優れたものがありましたが、戦の経験がほとんどなく、勢いを増す孫策を打ち破るような力を持っていませんでした。
孫策は寿春の袁術のもとを出陣する際には千ほどの兵しか率いていなかったのですが、孫策を慕って兵の数はどんどん膨らみ、揚州刺史の劉繇を撃退した際には二万にまで達していました。このまま進軍してくると、会稽に着いた頃には三万の兵力となっているかもしれません。
王朗はまったく勝機を見出せません。しかし朝命を奉じて太守を務めている手間、そう簡単に降伏するわけにも、逃亡するわけにもいかないのが、王朗の立場でした。

虞翻は、城の守りを許靖に任せ、王朗には西の予章へ向かい華歆の援軍を要請し、そのまま兵站の伸びきった孫策軍を横から攻めることを進言します。さらに自分は海路から徐州の下邳へ向かい、呂布を説得し、孫策の背後を突くという戦略を提案したのです。
しかし王朗は呂布を嫌悪しており、そちらへの援軍要請は却下。華歆への使者は虞翻に任せることになり、王朗は籠城して孫策と戦うことを決意します。虞翻は馬が倒れてからも日に60kmは徒歩で歩き続け、予章を目指しました。

孫策は虞翻の戦略を認める

孫策は虞翻の戦略を認める

孫策は虞翻の戦略を認める

しかし王朗は半日で孫策に敗れ、はるか南の東冶へ逃れます。虞翻は予章に向っている途中で、孫策が早くも会稽に迫っていることを狼煙で知り、帰還。戻った時には王朗は東冶に向った後でしたが、虞翻は父親の葬儀もあげずに王朗のもとへ急ぎます。
東冶で再会した王朗は、涙を流してその忠義に感謝しましたが、虞翻に会稽の家族のもとに戻るよう指示しました。
会稽に戻った虞翻は、すでに父親の葬儀の準備が整っていることに驚くと、妻から孫策が命じて支度を進めてくれたことを知り、孫策に仕えることを決めます。

孫策は宴会の場で、虞翻が呂布を説得しようとしていた戦略について触れました。仮に説得できなくても、警戒した孫策が主力を分散させただろうと虞翻が告げると、孫策は笑顔で危ういところだったと素直に認めました。
さらに銭塘一帯を荒らして回っている海賊を帰順させて、水軍に編制することや、捕らえた王朗を上奏の使者として用いることなどを進言し、実行されます。

王朗の話を聞いて虞翻を認めた曹操

王朗の話を聞いて虞翻を認めた曹操

王朗の話を聞いて虞翻を認めた曹操

皇帝を自称した袁術に対応するため、孫策は烏程侯の爵位と、騎都尉兼会稽太守の印綬を賜りますが、官位には不満があり、その対応のために王朗に上表を持たせて都に送ったのです。曹操は王朗から孫策の実力や家臣について話を聞き、改めて帝に願い出て、孫策に呉侯の爵位と討逆将軍の官位を与えました。
そこで曹操は虞翻を朝臣に迎えたいことを孫策に伝えてきます。用意した官位は太守に匹敵する御史でした。この要請に対し、孫策は張紘を都に送り出しましたが、虞翻は手元に残しました。

虞翻は孫策の期待に応える軍師ぶりで、袁術の病没した際には、予章の華歆に糧食の提供を求める使者として動き、盧江太守の劉勲がこの動きを察知し、出陣してきたらその隙に盧江を占領するよう進言します。
華歆は孫策に糧食の他に兵も提供することを許可し、さらに劉勲は糧食を襲うつもりで出陣した隙を突かれて盧江を奪われ、急いで戻ったところを襲撃されて大敗しました。
その勢いで孫策は江夏の黄祖を攻めて大勝しています。孫策は虞翻に書状を送り、今回の虞翻の謀略の功績は、他の武将の活躍をしのぐと絶賛しています。
これを聞いた曹操はきっと悔しがったことでしょう。

孫権に疎まれる

孫権に疎まれる

孫権に疎まれる

虞翻を評価していた孫策が暗殺されてしまい、孫権が代わって君主となると、虞翻は起用されなくなります。虞翻は人間関係の構築が苦手で、他の家臣たちと揉めることも多かったからです。そんな虞翻の性格を孫権は嫌ったようです。

実際に孫権が宴会で家臣の席を回って酒を注いだ際には、わざと酔いつぶれたふりをして拒み、孫権が通過すると正しく座り直すという反抗的な態度をとっています。この時は孫権も激怒し、斬り殺そうとしましたが他の家臣に止められ、剣をおさめています。

呂蒙は虞翻の才能を買っていたので、荊州侵攻の際には医者として同伴させ、公安の守将の士仁や南郡の守将の麋芳の説得なので虞翻は活躍しています。これにより関羽は討伐され、その捕虜となった于禁を孫権は得たのですが、虞翻は数万の兵を失いながらも降伏した于禁を処刑すべきだと進言します。孫権はそれを拒否し、そのまま魏に送り届けるのですが、虞翻の言葉を聞いた曹丕は、虞翻認め、魏に迎えるために司空の座を空けたといいます。
これがまた孫権に疎まれる理由になったようです。

まとめ・的確な戦略と進言をしながらも僻地で亡くなる

まとめ・的確な戦略と進言をしながらも僻地で亡くなる

まとめ・的確な戦略と進言をしながらも僻地で亡くなる

孫権に疎まれた虞翻は交州へと左遷させられます。その後、虞翻の中央への復帰は果たされませんでした。皮肉なもので、代わりに虞翻の進言で都に送られた王朗が魏の司空となり、華歆は相国まで出世しています。

後年、孫権が遼東の公孫淵と同盟を結ぼうと奔走した際、虞翻は書簡にて公孫淵は信用できない人物であると指摘していましたが、その書簡を開いて読んだ時には公孫淵が呉の使者を殺害して首を魏に届けた後でした。
孫権は虞翻の智謀を必要だと感じ、交州から招聘しようとしましたが、虞翻の寿命はちょうどそこで尽きています。

三国志演義ではまったくその才能を発揮できなかった虞翻ですが、三国志正史では多くの有名軍師に匹敵する活躍を見せているのです。孫権が上手に起用できていれば、呉はさらに大きく発展していたかもしれません。





この記事の三国志ライター

関連する投稿


三国志の人材コレクター!曹操が集めた魏の武将たち

群雄割拠の三国時代において、抜きんでた兵力を誇った魏の国。その礎となったのは、「人材コレクター」の異名を持つ曹操孟徳が集めた、優れた武将たちの働きでした。曹操は優秀な人材なら出自を問わず重用し後の蜀の皇帝・劉備(玄徳)の腹心である関羽まで手に入れようとしたほどです。そんな曹操のもとに集った腹心たちをご紹介します!


女性目線から見た「関雲長」曹操と関羽

関羽、男として魅力的。義の人、一騎当千。曹操、悪党のイメージ強いです(泣)。策略家、女好き、等関羽に比べあまり印象が良くないです。この二人を主人公にした映画から、曹操の片思いに重点を置いて観てみようというこの企画。宜しかったら最後までお付きお願いします。


三国志 ー司馬懿の逆襲、そして晋へー

曹操に強引に出仕させられたのに、天才的な才能を警戒され重職に就けなかった司馬懿。今、司馬懿の逆襲が始まる。そして晋へ。


三国一のお酒好き!?画期的な酒造法を広めた曹操孟徳と日本酒の意外な関係

お酒に縁の深い三国武将と聞いて、真っ先に浮かぶのは誰ですか?『三国志演義』でお酒に関する失敗が多く描かれている張飛益徳?それとも宴会が大好きだったという呉の孫権仲謀?いえいえ、それより縁が深いのは、魏の君主・曹操孟徳なのです。今回は彼と日本酒の意外な関係や、お酒にまつわるエピソードなどをご紹介いたしますね!


どこが地味!?強烈な個性の持ち主・孫権 仲謀と、そのリーダーシップ

「魏の曹操や蜀の劉備と比べて、呉の孫権ってなんだか地味」……三国志に触れていて、そんな印象はありませんか?今回はにわか孫権ファンの筆者が、地味と思われかねない理由と、実はちっとも地味じゃない孫権の素顔について調べてまいりました!


最新の投稿


春秋戦国時代 伍子胥の人生について

伍子胥(ごししょ)は、中国の春秋時代に活躍した楚の武人です。彼の本名は員(うん)で、楚の平王によって父と兄が殺されたため、復讐を誓いました。彼は呉に亡命し、楚との戦いで、ついに復讐を果たしました。しかし、後に呉王夫差が越王勾践を破った際、降伏を許そうとする夫差に反対し、意見が受け入れられず、自害させられました。


孫氏の兵法の孫武(そんぶ)とは?

『孫氏の兵法』における「孫氏」とは、古代中国の軍事思想家である孫武です。兵法書『孫子』を著し、戦争や軍事戦略に関する理論を全13篇から構成。特に「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」が有名で、戦争を避けることが最も優れた戦略であると説いています。 参考:ドラマ 孫子兵法 ‧


『キングダム』における羌瘣とは?

羌瘣は、漫画『キングダム』に登場する架空のキャラクターです。彼女は羌族出身の少女で、精鋭の暗殺者集団「蚩尤(しゆう)」に属していました。彼女は、原作、映画においても非常に魅力的なキャラクターです。その環境や周辺を史実を参考に紐解いてみます。


赤兎馬とは? 三国志初心者必見 三国志における名馬の物語

赤兎馬とは、三国志演義などの創作に登場する伝説の名馬で、実際の存在については確証がなく、アハルテケ種がモデルとされています。体が大きく、董卓、関羽、呂布など、三国時代の最強の武将を乗せて戦場を駆け抜けました。


春秋戦国時代 年表 キングダム 秦の始皇帝の時代の始まり

キングダム 大将軍の帰還 始まりますね。楽しみにしていました。 今回は、秦の始皇帝「嬴政」が、中華統一を果たす流れについて記述しようと思います。映画、キングダムのキャストの性格とは若干違うかもしれませんが、参考程度に読んでみてください。


アクセスランキング


>>総合人気ランキング