三国志演義では活躍の場面なし
■ 三国志演義では活躍の場面なし
三国志演義では活躍の場面なし
虞翻、字は仲翔。揚州会稽郡の名門の家に生まれ、父の虞歆は交州日南郡太守を務めていました。虞翻もまた、会稽郡の功曹を務めています。そして会稽郡の太守である王朗の相談役として三国志には登場してくるのです。
ちょうど、袁術配下の孫策が江東制圧のために兵を派遣してきた場面です。
「三国志演義」では孫策に歯向かうことに反対し、王朗のもとを飛び出し、やがて孫策・孫権に仕えました。赤壁の戦いの前には、諸葛亮(孔明)に舌戦を挑みましたが敗れています。呂蒙の荊州侵攻を助けたことのみ触れられており、その後はフェードアウト。まったく活躍していないのですが、「三国志正史」では違います。王朗を献身的に支え、さらにその才能を孫策や曹操に高く評価されています。
三国志演義と三国志正史で扱いが大きく異なるのが、虞翻なのです。
孫策が会稽を攻めた際に虞翻が進言した戦略とは
■ 孫策が会稽を攻めた際に虞翻が進言した戦略とは
孫策が会稽を攻めた際に虞翻が進言した戦略とは
太守の王朗は政治の手腕こそ優れたものがありましたが、戦の経験がほとんどなく、勢いを増す孫策を打ち破るような力を持っていませんでした。
孫策は寿春の袁術のもとを出陣する際には千ほどの兵しか率いていなかったのですが、孫策を慕って兵の数はどんどん膨らみ、揚州刺史の劉繇を撃退した際には二万にまで達していました。このまま進軍してくると、会稽に着いた頃には三万の兵力となっているかもしれません。
王朗はまったく勝機を見出せません。しかし朝命を奉じて太守を務めている手間、そう簡単に降伏するわけにも、逃亡するわけにもいかないのが、王朗の立場でした。
虞翻は、城の守りを許靖に任せ、王朗には西の予章へ向かい華歆の援軍を要請し、そのまま兵站の伸びきった孫策軍を横から攻めることを進言します。さらに自分は海路から徐州の下邳へ向かい、呂布を説得し、孫策の背後を突くという戦略を提案したのです。
しかし王朗は呂布を嫌悪しており、そちらへの援軍要請は却下。華歆への使者は虞翻に任せることになり、王朗は籠城して孫策と戦うことを決意します。虞翻は馬が倒れてからも日に60kmは徒歩で歩き続け、予章を目指しました。
孫策は虞翻の戦略を認める
■ 孫策は虞翻の戦略を認める
孫策は虞翻の戦略を認める
しかし王朗は半日で孫策に敗れ、はるか南の東冶へ逃れます。虞翻は予章に向っている途中で、孫策が早くも会稽に迫っていることを狼煙で知り、帰還。戻った時には王朗は東冶に向った後でしたが、虞翻は父親の葬儀もあげずに王朗のもとへ急ぎます。
東冶で再会した王朗は、涙を流してその忠義に感謝しましたが、虞翻に会稽の家族のもとに戻るよう指示しました。
会稽に戻った虞翻は、すでに父親の葬儀の準備が整っていることに驚くと、妻から孫策が命じて支度を進めてくれたことを知り、孫策に仕えることを決めます。
孫策は宴会の場で、虞翻が呂布を説得しようとしていた戦略について触れました。仮に説得できなくても、警戒した孫策が主力を分散させただろうと虞翻が告げると、孫策は笑顔で危ういところだったと素直に認めました。
さらに銭塘一帯を荒らして回っている海賊を帰順させて、水軍に編制することや、捕らえた王朗を上奏の使者として用いることなどを進言し、実行されます。
王朗の話を聞いて虞翻を認めた曹操
■ 王朗の話を聞いて虞翻を認めた曹操
王朗の話を聞いて虞翻を認めた曹操
皇帝を自称した袁術に対応するため、孫策は烏程侯の爵位と、騎都尉兼会稽太守の印綬を賜りますが、官位には不満があり、その対応のために王朗に上表を持たせて都に送ったのです。曹操は王朗から孫策の実力や家臣について話を聞き、改めて帝に願い出て、孫策に呉侯の爵位と討逆将軍の官位を与えました。
そこで曹操は虞翻を朝臣に迎えたいことを孫策に伝えてきます。用意した官位は太守に匹敵する御史でした。この要請に対し、孫策は張紘を都に送り出しましたが、虞翻は手元に残しました。
虞翻は孫策の期待に応える軍師ぶりで、袁術の病没した際には、予章の華歆に糧食の提供を求める使者として動き、盧江太守の劉勲がこの動きを察知し、出陣してきたらその隙に盧江を占領するよう進言します。
華歆は孫策に糧食の他に兵も提供することを許可し、さらに劉勲は糧食を襲うつもりで出陣した隙を突かれて盧江を奪われ、急いで戻ったところを襲撃されて大敗しました。
その勢いで孫策は江夏の黄祖を攻めて大勝しています。孫策は虞翻に書状を送り、今回の虞翻の謀略の功績は、他の武将の活躍をしのぐと絶賛しています。
これを聞いた曹操はきっと悔しがったことでしょう。
孫権に疎まれる
■ 孫権に疎まれる
孫権に疎まれる
虞翻を評価していた孫策が暗殺されてしまい、孫権が代わって君主となると、虞翻は起用されなくなります。虞翻は人間関係の構築が苦手で、他の家臣たちと揉めることも多かったからです。そんな虞翻の性格を孫権は嫌ったようです。
実際に孫権が宴会で家臣の席を回って酒を注いだ際には、わざと酔いつぶれたふりをして拒み、孫権が通過すると正しく座り直すという反抗的な態度をとっています。この時は孫権も激怒し、斬り殺そうとしましたが他の家臣に止められ、剣をおさめています。
呂蒙は虞翻の才能を買っていたので、荊州侵攻の際には医者として同伴させ、公安の守将の士仁や南郡の守将の麋芳の説得なので虞翻は活躍しています。これにより関羽は討伐され、その捕虜となった于禁を孫権は得たのですが、虞翻は数万の兵を失いながらも降伏した于禁を処刑すべきだと進言します。孫権はそれを拒否し、そのまま魏に送り届けるのですが、虞翻の言葉を聞いた曹丕は、虞翻認め、魏に迎えるために司空の座を空けたといいます。
これがまた孫権に疎まれる理由になったようです。
まとめ・的確な戦略と進言をしながらも僻地で亡くなる
■ まとめ・的確な戦略と進言をしながらも僻地で亡くなる
まとめ・的確な戦略と進言をしながらも僻地で亡くなる
孫権に疎まれた虞翻は交州へと左遷させられます。その後、虞翻の中央への復帰は果たされませんでした。皮肉なもので、代わりに虞翻の進言で都に送られた王朗が魏の司空となり、華歆は相国まで出世しています。
後年、孫権が遼東の公孫淵と同盟を結ぼうと奔走した際、虞翻は書簡にて公孫淵は信用できない人物であると指摘していましたが、その書簡を開いて読んだ時には公孫淵が呉の使者を殺害して首を魏に届けた後でした。
孫権は虞翻の智謀を必要だと感じ、交州から招聘しようとしましたが、虞翻の寿命はちょうどそこで尽きています。
三国志演義ではまったくその才能を発揮できなかった虞翻ですが、三国志正史では多くの有名軍師に匹敵する活躍を見せているのです。孫権が上手に起用できていれば、呉はさらに大きく発展していたかもしれません。