三国志演義に描かれた周瑜(公瑾) 諸葛亮(孔明)に惜しまれたその才能

三国志演義に描かれた周瑜(公瑾) 諸葛亮(孔明)に惜しまれたその才能

呉の水軍大都督であった周瑜(公瑾)。赤壁の戦いでは劉備軍と連合して曹操(孟徳)の巨大水軍を壊滅させるなど、その実力は随一。駆け引きにおいても常に曹操(孟徳)より上手を行く知力の持ち主でした。華々しい活躍を見せた英雄でしたが36歳でこの世を去ってしまいます。


孫策(伯符)との断金の交わり 三国志を代表するイケメンコンビ

西暦191年、反菫卓連合軍に参加した孫堅(文台)が亡くなり、息子であった孫策(伯符)は幼少であったため、袁術(公路)に引き取られます。しかし、袁術(公路)の悪政ぶりに愛想を尽かし、独立を決意します。そして、198年に周瑜(公瑾)が孫策(伯符)に招かれて呉軍に参加。同じ歳であったこともあり、意気投合し、家族ぐるみでの強い交わりを持つようになりました。「金属を断ち切るほどの強い絆」と言う意味で、二人の繋がりを「断金の交わり」とも言います。

また、二人とも三国志に登場する武将の中でトップクラスの「イケメン」で、後年、絶世の美女姉妹と言われた大喬を孫策(伯符)が、小喬を周瑜(公瑾)が妻とします。

赤壁前の駆け引きにおいて常に曹操(孟徳)を上回った策士

赤壁の戦いの前、圧倒的な戦力をもって「力押し」すれば曹操(孟徳)は呉軍に勝てたでしょう。しかし、「力」によって制圧すれば後の政治がやり難くなること、自軍の損害をできるだけ少なくしたい気持ち、また、曹操軍の主力のほとんどが北方出身だったため、南方の風土に適応できず病人続出に陥ったことも相まって、曹操(孟徳)は呉を「急襲」しませんでした。そこで、実践前の様々な「駆け引き」が展開されますが、ことごとく曹操(孟徳)は周瑜(公瑾)に敗れます。

蒋幹(子翼)を逆に用いて曹操軍の脅威を排除

曹操軍に仕えていた文官の蒋幹(子翼)は周瑜(公瑾)と幼なじみということで、周瑜(公瑾)を説得し、降伏を勧める目的で呉の陣に向かいます。「潜入」ではなく「幼なじみの訪問」という名目です。しかし、蒋幹(子翼)の目論見を完全に見破っていた周瑜(公瑾)は、彼を接待攻めにします。

まず、呉軍の多くの将兵を集め、大袈裟すぎるほどの大宴会を催しますが、その席の冒頭で「今日は旧友に会えてこの上なく嬉しい日である。このような日に天下事を持ち出すような輩は容赦なく切る」と言い放ちます。まずは「周瑜(公瑾)を説得しようとする蒋幹(子翼)の口を封じ込めた」のです。

周瑜(公瑾)を始め呉の将兵たちは大いに酒を飲み騒ぎます。いつしか周瑜(公瑾)も酔い潰れそうです。宴会は散会となり、周瑜(公瑾)と蒋幹(子翼)は二人、周瑜(公瑾)の幕舎に入ります。「今日は飲み明かそう」と言っていた周瑜(公瑾)でしたが、幕舎に着いた途端に眠ってしまいます。

しかし、これは「寝たフリ」でした。

周瑜(公瑾)の幕舎で一人になった蒋幹(子翼)は幕舎内を物色します。すると、一通の手紙を見付けます。それは、周瑜(公瑾)が蔡瑁(曹操軍水軍の大将)と内通している手紙…。

しかし、これは周瑜(公瑾)が書いた「偽手紙」でした。

周瑜(公瑾)は酔って「寝たフリ」をして蒋幹(子翼)が偽手紙を持って逃げるように仕向けたのでした。そうとは知らず「一大ニュース」を持って立ち去る蒋幹(子翼)。曹操軍に戻った彼は早速「偽手紙」を曹操(孟徳)に報告。怒り心頭の曹操(孟徳)は蔡瑁(徳珪)を打ち首にしてしまいます。

北方出身の兵が多い曹操軍は水上戦が苦手でした。そこで曹操(孟徳)は荊州で降伏したばかりの水軍大将であった蔡瑁(徳珪)をやむなく使っていましたが、実は、周瑜(公瑾)にはこれが脅威でした。しかし、周瑜(公瑾)を欺きに来た蒋幹(子翼)を逆に用いて脅威(蔡瑁)を除いたのでした。

赤壁の戦いにおける連環の計 実は周瑜(公瑾)の策だった

赤壁の戦いにおいて圧倒的少数だった呉軍が勝利した要因で最も有名なのは「東南の風」です。呉軍の総攻撃直前まで吹いていた「西北の風」が逆風に変わったのです。これによって呉軍が「風上」となり火計に大成功します。

そして、呉軍勝利のもうひとつの大きな理由に「連環の計」があります。

これは後に蜀軍にて諸葛亮(孔明)と並んで大活躍することになる龐統(士元)が曹操(孟徳)に進言するものですが、蒋幹(子翼)が呉陣営から逃げ出す際に、龐統(士元)に出会うように仕向けたのは周瑜(公瑾)でした。当時、諸葛亮(孔明)と並んで「二大賢人」と言われていた龐統(士元)、曹操(孟徳)は大喜びして龐統(士元)を迎え入れます。

そして、龐統(士元)は「船同士を鎖で繋げば船の揺れが軽減され、兵の船酔いは解消される」と進言。曹操(孟徳)は彼の言葉を妄信し、まんまと船同士を鎖で繋いでしまいます。

呉国の利益か 個人的な嫉妬か 周瑜(公瑾)は常に諸葛亮(孔明)の命を狙っていた

蒋幹(子翼)を手玉に取り、曹操(孟徳)との計略合戦においては完全に勝利した周瑜(公瑾)でしたが、諸葛亮(孔明)には常に先を越されていました。表向き協力関係にあった呉軍と劉備軍でしたが、周瑜(公瑾)は隙あらば諸葛亮(孔明)の命を狙っていました。赤壁の戦いが終わり、連合が解消された後、彼の存在は呉国に大きな脅威になると考えたからです。諸葛亮(孔明)に「10万本の矢を3日のうちに用意せよ」と命令したエピソードはあまりにも有名です。用意できなければ「失態」として諸葛亮(孔明)は殺されます。

しかし、諸葛亮(孔明)は濃霧が起こることを予見し、藁人形を満載した数十隻の「ダミー船」で曹操(孟徳)陣営に近づき、濃霧で視界がはっきりしない中、無差別に放たれる無数の矢を「ダミー船」で受け、見事に曹操軍から10万本の矢を奪い取ります。

まぁ…「小細工」と言えばそれまでですが…。

その後も周瑜(公瑾)はあの手この手を使って諸葛亮(孔明)を殺そうとしますが、結局、赤壁の戦い後に荊州へ逃げられてしまいます。

金瘡の病 諸葛亮(孔明)の侮辱 周瑜(公瑾)の憤死

赤壁の戦い後に荊州を占領してしまった劉備軍に対して、「曹操軍を追い払った主力となったのは我が軍(呉軍)なのだから、荊州は呉に属して当然…」と呉国は荊州の領有権を主張します。しかし、劉表(景升)からの世襲を主張して応じない劉備(玄徳)、諸葛亮(孔明)に業を煮やした周瑜(公瑾)は、とある策を講じます。

「あなたたち(劉備、諸葛亮)がこれから益州を取ると言うのであれば、私達が代わりに益州を取りましょう。そして益州を差し上げますから、その時に荊州をお返しください」

周瑜(公瑾)の腹は「益州進軍の際に通過すると見せかけて荊州に入り、そのまま荊州を取ってしまう」というものでした。

…しかし、諸葛亮(孔明)がそんな策見抜けない訳はありません。そしてその頃、周瑜(公瑾)は南郡攻防戦で受けた矢傷が元で「金瘡の病」を患い健康ではありませんでした。「金瘡の病」とは「刀や弓矢などの金属で受けた傷が化膿してしまうもの」です。

後日、荊州に進軍した呉軍。荊州を乗っ取る動きをした途端に荊州軍に取り囲まれ、動きを封じ込まれます。そして、一人の荊州兵が諸葛亮(孔明)からの手紙を周瑜(公瑾)に渡します。そこに書かれていたことは…

益州は天険の要害、劉璋(季玉)は暗愚であるものの守るには足りており、呉軍がいかに強力と言えども打ち破ることは不可能。また、あなた(周瑜)が益州進軍を口実に荊州を取ろうとしていることは端から承知。思えば、知力、戦略、交渉力…何においてもあなた(周瑜)は私(諸葛亮)に劣る。早く(呉国へ)お帰りになり、病を治された方がよろしいでしょう。

侮辱に満ち満ちた諸葛亮(孔明)の手紙。これも「策」でしょうが…手紙を呼んだ周瑜(公瑾)は怒り狂います。

「私がいながら、なぜ天は諸葛亮(孔明)をも生んだのだ」

そう言って大量の血を吐いて死んで行くのです。

まとめ

後日、諸葛亮(孔明)は周瑜(公瑾)の葬儀に参列します。彼が周瑜(公瑾)を死に追い込んだと考える将兵も多い中で弔辞を述べるのですが、それは…並々ならぬ無念の意と友情に満ち溢れた内容でした。当初は諸葛亮(孔明)に切りかかろうとする者もいる中、弔辞が終わる頃には彼の涙に他の将兵も「もらい泣き」する程でした。

中には、白々しい演技を…と揶揄する者もいました。しかし、明らかに命を狙われるであろう葬儀の場にわざわざ出向いて弔辞を述べた諸葛亮(孔明)…。そこには荊州と呉国の仲を取り持つ「演技」もあったかも知れません。しかし、半分は「戦国の世において民を救う同志」として周瑜(公瑾)の高い能力を認め、彼の死を惜しんでいたのでしょう。その気持ちが最初は諸葛亮(孔明)を殺そうとしていた将兵の心に響いたのだと思います。

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