実は凄かった荊州を支配した実力者【劉表】

実は凄かった荊州を支配した実力者【劉表】

荊州を支配した劉表は、三国志演義では優柔不断で頼りない印象を受け、劉備や孫策の引き立て役になっていました。しかし、三国時代には激戦区となる荊州を、存命中に実効支配していたのは劉表の影響力が強かったからといえます。そんな劉表の凄さをみていきましょう。


宦官が台頭して腐敗した政治に立ち向かう若かりし頃

三国志では劉備(玄徳)が後漢の血を受け継ぐ英雄とされていますが、劉表は前漢の景帝の一族であり、正真正銘の皇族でした。若い頃から学問に優れており、それでいて体も大きくて威厳溢れる態度から、めきめきと頭角を現していきます。劉表が若い頃から宦官の力が強まり、政治の腐敗ぶりが進んでいきました。そんな中、劉表も官職に就き、世の中を正すために政治家を志していました。そして、混迷の世の中を憂いた学者や官職たちが宦官を批判する活動を取ります。劉表もその一人であり、政治の中心を担う宦官たちから危険視されていたといいます。

宦官一派は、自分たちの利権を守るべく、危険思想とみなした学者たちを弾圧していきます、それが党錮の禁で、劉表は清流派の党人の中でも有能とされており、官職を追放されてしまいます。しかも、劉表は朝廷から追われる身となった官職の人物を助ける行動を取り、自身も憲兵から追われる存在となってしまいます。

40歳を過ぎる頃、再度中央に赴き、官職を得る

劉表は逃亡生活を続けていきますが、それでも有能さを惜しまれる存在であり、宦官を疎む勢力からは重宝されていました。中でも宦官勢力と真っ向から対立していた大将軍の何進は、自身の勢力を強めるために、劉表にも目をつけていました。そして、劉表は党錮の禁が解除された184年に、何進によって、中央に招かれて官職を得ています。

荊州に赴任して治世を敷く

何進が宦官に暗殺されると、袁紹や袁術が宮中になだれ込み、西涼の董卓が実権を握っていきます。劉表は荊州の統治を任されるよう便宜を図り、董卓から逃れるように都を後にしています。

当時の荊州は豊な耕地があったとはいえ、多くの豪族が支配権を握り、決して安泰とはいきませんでした。しかし、劉表の配下には蔡瑁やカイ越、カイ良ら有能な武将たちが揃っており、巧みに豪族たちを討伐していきます。


劉表は荒れた土地を開墾し、荊州の豊富な領土を活かして、善政を敷いて人心を安定させていきます。特に自身が若いころから励んでいた学問を奨励したので、多くの有能な学者が集まるようになりました。

この中には司馬徽が含まれており、他所の戦乱から逃れてきた官職や学者たちを受け入れていたので、人材の宝庫にまでなっていきます。荊州に埋もれていた人材の中には、司馬徽にも注目されていた徐庶やホウ統、そして諸葛亮がいます。ただし、劉表はこれらの突出した人物を採用することができず、人材発掘に勤しむ余裕が無かったと懸念されています、

軍事面でも荊州を守る

劉表は反董卓連合軍にも参加していり、そのあおりを受けて袁紹に味方しています。もともと中央に招聘してくれた何進に多少の恩義を感じていたと思われ、その筆頭配下だった袁紹とは最後まで同盟を結んでいます。

当時の袁紹は同族の袁術と仲たがいをしており、董卓以外の勢力では天下を二分するほどの勢いがありました。当然袁術から危険視されており、立場上袁術に従っていた長沙の孫堅が劉表打倒の兵を挙げてきます。

劉表は戦上手の孫堅に恐れを抱きますが、配下の黄祖が懸命に守り抜き、孫堅を流れ矢ながら討ち取る大手柄を果たしています。孫堅の残党は袁術軍に吸収されていくようになり、勢力は解散となります。しかし、亡き主君の無念を晴らそうとして、袁術軍の中で復讐に燃えていた武将たちも存在しています。

孫堅の長男である孫策もその一人です。孫策は黄蓋など父の孫堅時代から貢献している宿将に達や、周瑜や魯粛など新戦力を巧みに操って独立していきます。これは弟の孫権の代にも続き、劉表が支配をしていた荊州を苦しめることになっていきます。

袁術と敵対関係になる

董卓が呂布の反乱にあって暗殺された後、政治の中心は李カクら残党たちが実権を握っていきました。劉表は李カクたちからも信任を得ており、引き続き荊州の支配を実行していきます。これは宛に勢力を構える袁術へのけん制でもありました。

劉表は袁紹と同盟を結んでいたので、袁術と敵対関係にありました。その一旦としてあるのが、曹操と袁術の争いにあります。

当時の曹操は袁紹と友好関係にあったので、共通の敵である袁術と争っていました。劉表は袁術を挟撃するように、曹操をサポートしています。若くて実力者の曹操や袁紹と友好関係を築き、袁術と敵対関係にあったことから、劉表は荊州の支配を継続することが可能となっています。

曹操と敵対関係になっていく

董卓配下だった張済が、食料不足によって荊州の北部を攻撃してくると、劉表は独立勢力と同盟を結んで撃退しています。このとき張済は死んでしまいますが、劉表は捕えたその配下たちに決して攻撃されたから仕方なく戦ったが、私利私欲で殺害したわけではなく、困窮のためなら礼を尽くして対応していたという類の発言をしたとされています。これには張済の配下たちも感激し、劉表に服従していきます。

その頃、曹操が献帝を手中にし、董卓の残党を除外するようになっていき、中原は曹操と袁紹の2大勢力が支配するようになっていきました。両者は次第に争うようになり、劉表は袁紹を指示していきます。

張済の跡を継いだ張シュウは曹操と敵対するようになり、劉表も援護します。張シュウ軍の参謀・賈クによって、曹操軍は一時敗れています。しかし、勢力を盛り返した曹操の武将や指揮系統を見て、袁紹よりも優れていることを悟った賈クは、主君の張シュウに劉表袁紹を見限って曹操に帰順するように進言します。張シュウはその通りに実行して、曹操へと服従しています。

劉備(玄徳)を迎え入れる

荊州の大きな変動となったのが、200年に起きた官渡の戦いです。この一戦では曹操が袁紹に大勝し、中原での支配力を一層増していきました。当時の袁紹陣営には劉備(玄徳)一向が同行していましたが、この一戦で袁紹が敗れたことを受けて、劉表を頼るようになります。

劉備(玄徳)は曹操の元から逃れた経緯があり、匿うことによって、曹操から狙われることを多くの部下たちが心配していきます。

一方、劉表は袁紹を支援しようと、曹操の背後を急襲しようとしますが、長沙での反乱が勃発したことを受けて、遠征軍を送ることができずにいました。この反乱軍を鎮圧し、勢力を拡大していた劉表は、曹操と対抗できる兵力を持つようになっています。そのため、劉備(玄徳)一向を迎え入れることに抵抗はありませんでした。

劉表は配下の心配をよそに、劉備(玄徳)を新野に配置させて、曹操へのけん制としました。事実、曹操が荊州に侵攻した203年には、博望にて夏候惇や于禁らの大軍を相手に劉備(玄徳)が勝利しており、劉表の目論見は成功していきます。

しかし、劉備(玄徳)は自分が劉表配下から疎まれていることを察していたので、いつかは命が狙われることを危惧し、目を背けるために、曹操への遠征軍を提案します。曹操は袁紹の残党たちや北方の匈奴を打ち倒すために、大規模な遠征軍を敷いていました。

曹操がいない隙を狙って、許昌を急襲し、献帝を味方に付ければ天下の情勢は一気に変わるものでしたが、劉表は先の長沙での反乱があったことを憂いて、その進言を退けています。結果として、劉備(玄徳)は新野に在留したので、襄陽の諸葛亮を探すことができることにつながっていきます。

劉表の死後は荊州が争奪戦になる

劉表は208年に病死してしまいます。河北を制圧した曹操が荊州に侵攻を開始した直後でした。劉表の後継者争いも勃発し、曹操や孫権、劉備(玄徳)たちによって、荊州は激動の幕開けとなっていきました。

劉表がもう少し長生きしていれば、曹操が簡単に荊州入りすることもできず、赤壁の戦いも起こらずに、過去のいきさつを無くして、孫権と同盟を結んで対抗していたのかもしれません。

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