孫策と関羽
■ 孫策と関羽
孫策と関羽
呉の皇帝孫権の兄孫策と劉備(玄徳)の義弟の関羽には不思議と共通点がたくさんあります。
真っ先に共通点として挙げられるのは圧倒的な人気です。孫策は呉の国では周瑜や陸遜と並んでトップクラスの人気です。一方、関羽はいうまでもなく、神様にまでなった作中屈指の人気人物です。二人の人気のすごさは、後世の作品である水滸伝にも彼らと同じく「小覇王」「美髯公」というあだ名の登場人物が出てくることからもわかります。現代人だけでなく、昔の人にも孫策・関羽のファンが多かったのです。
その人気の大きな理由となったのは、孫策も関羽も文武両道の非常に優れた人物でした。特に武勇に関しては生涯ほとんど敗けたことがありません。先に述べた孫策の「小覇王」というあだ名も三国志演義で、一騎打ちの相手を一喝して馬から落馬させ殺すという名場面が作られ、そこに合わせて作られたものです。また、正史にはほとんどない大将の一騎打ちですが、孫策は太史慈と、関羽は顔良と、自ら武器を持って戦うシーンが記載されています。これも二人の素晴らしい武勇を表す共通点と言えましょう。
また、立身出世も似ています。どちらも低い身分から州のトップまでのし上がりました。孫策は袁術の、関羽は劉備(玄徳)の配下の一武将でした。そこから持ち前の武勇で戦争で勝利を重ねて主君のために領土を広げます。やがて、孫策は揚州を、関羽は荊州を治めることになります。最終的に孫策は独立をし、関羽は最後まで主君のために守るという差が出来ますが、大きな共通点と言うことが出来ます。
似ている欠点
■ 似ている欠点
似ている欠点
彼らのファンとしては残念なところですが、孫策と関羽はその人間的な欠点で最期を遂げることになります。三国志の作者である陳寿による、関羽の評価は「剛勇すぎて人を見下す」でした。関羽は結局その欠点によって、孫権軍の陸遜の策略にハマり、戦いに敗れて処刑されます。孫策も同じ欠点があり、自分の武勇に自信がありすぎて、お供もろくに連れず狩りに出たところを暗殺されてしまいます。孫策も関羽も偉大な英雄であったのは間違いありませんが、その人間的欠点により、同じような最期を迎えます。
郭嘉と法正
■ 郭嘉と法正
郭嘉と法正
郭嘉は曹操の、法正は劉備(玄徳)の軍師として大きな功績を残しました。三国志演義だと、同僚の荀彧や程昱に比べると、郭嘉は出番は多くなく、
「呂布を包囲した時に荀攸と一緒に水攻めを提言した」
「荀彧が殺せと言った劉備を殺すべきでないと進言した」
「早死した」
位です。また、法正も史実で大活躍した漢中攻防戦での手柄がすべて諸葛亮のものになってしまっていて、それほどの存在感がありません。ところが、正史では二人共軍師として大活躍しています。正史に比べて三国志演義で小さく扱われていることも、二人の共通点であると言えます。
主君を選ぶ
■ 主君を選ぶ
主君を選ぶ
郭嘉と法正の大きな共通点として、
「元々の主君を見限って、自分を活かしてくれる主君に仕えた」
ということが挙げられます。郭嘉は初め、袁紹の元を訪れました。
ところが、彼の人物に失望し、袁紹の配下である郭図らに袁紹の欠点を警告した後、去っていきました。その後、曹操軍の荀彧によって推挙され曹操に仕えることになりました。曹操は郭嘉と会い、話してみると、
「自分の大業を成就させるのは郭嘉だ」
と言い、郭嘉も、
「真の主君に出会えた」
とお互いに大いに喜んだといいます。
一方法正は初めは益州の劉璋に仕えていました。劉璋によって重用されるわけでもなく、劉璋ではこの先、益州を守りきれないと考えた法正は同僚の張松らと語らい、劉備(玄徳)の益州攻略に協力することに決めます。劉備(玄徳)は劉璋との戦いに勝ち続け、益州の州都である成都を包囲します。すると法正は劉璋に降伏勧告の手紙を送り、劉璋はそれを受け入れます。法正の助力により、劉備(玄徳)は益州を手に入れることができたのです。
大敗北を止められたのは!?
■ 大敗北を止められたのは!?
大敗北を止められたのは!?
郭嘉と法正の最大の共通点は死後の評価です。曹操は赤壁で疫病に苦しみ、周瑜率いる呉軍に敗北を喫します。その時曹操は、
「郭嘉さえ生きていてくれれば、このようなことにはならなかっただろう。」
と嘆いたといいます。
同じような敗北が劉備(玄徳)にもありました。夷陵の戦いです。諸葛亮や趙雲の反対を押し切って劉備(玄徳)は孫権との開戦に踏み切りました。
ところが、劉備の戦術のまずさにより(魏の皇帝である曹丕に嘲笑われていたといいます)、呉の陸遜の前に大敗北を喫します。敗戦の報告を聞いた諸葛亮は、
「法正が生きていてくれれば、こんな戦争は起きなかっただろうに。もし、起きたとしてもこんな結果にはならなかっただろう。」
と嘆きました。
二人の偉大な軍師の早い死が曹操、劉備(玄徳)の大敗を招いたと、二人の死後に評価がされたのです。
荀彧と孔融
■ 荀彧と孔融
荀彧と孔融
荀彧と孔融はどちらも三国志演義で、曹操の権力が伸びて行き過ぎるのを諌めて死ぬことになります。この共通点は三国志ファンはよく知っているのではないでしょうか。後世の、劉備を主人公とする物語では、二人のことを(あるいは荀攸を含めて三人の場合も)漢の忠臣だったのに、逆臣である曹操と対立して殺されてしまったとするものが、数多くあります。正史でも、二人は同様の最期を遂げます。どちらも漢王朝の臣として振る舞い、曹操の行き過ぎた権力を諌めて、怒りに触れ処刑、または自殺の最期となります。
続いてあげられるのはどちらも超名門の一族であることです。荀彧は性悪説で有名な荀子、孔融は儒教の開祖である孔子の子孫です。どちらも皇帝や国王の直系の子孫というわけではありません(王族ではあったでしょうが)。ですが、ある意味それ以上の有名人で、弟子や学ぼうとする人が大勢いた人物を祖先に持つ由緒正しい人物であります。現代の日本人ですと、いまいちピンとこないかもしれませんが、西洋で言えば荀彧の祖先はソクラテス、孔融の祖先はキリストであると言っているようなものでしょう。
もう一つ二人の共通点は袁紹を避けて曹操の元に行ったということが挙げられます。荀彧は袁紹のもとに仕官に行きますが、袁紹は大した人物ではないと見限り、曹操の元に仕えに行きます。その時、曹操は、
「我が子房(張良の字)が来た」
と言って喜んだといいます。一方、孔融は袁紹の息子である袁譚に本拠地である青州を攻められ、都に逃亡します。必然的に朝廷に出仕し、曹操と顔を合わせることになります。そして、この章の最初に述べたように、二人は曹操によって死を授けられることになります。確かに袁紹は曹操に比べたら小物だったのでしょう。ですが、もし二人が曹操ではなく袁紹を主君として選んでいたらこのような悲劇の最期は遂げなかったかも知れません。