個人的に三国志の武将に年俸を付けたらこうなった

個人的に三国志の武将に年俸を付けたらこうなった

多くの人が三国志で一番強い武将に呂布(奉先)を挙げます。しかし彼はよく君主を裏切る人物だったので自分が君主だった場合彼に多くの年俸を払いたいと思いたくはないでしょう。ここでは独断と偏見で「自分が君主だったら誰にどれだけの年俸を払いたいか」という事を紹介したいと思います。プロ野球などの年俸を意識してもらえたら幸いです。


諸葛亮(孔明)10億円

プレイングマネージャーとして彼を自分のチームに引き入れることができたら10億でも安いと感じるかもしれません。天才軍師としてチーム力を上げることだけでなく、見たこともない武器を作ってしまうのですから敵軍としてみたら厄介なこと極まりないです。
しかし懸念事項が一つあり、彼を自軍に招き入れたら下の者が窮屈にならないかという事が心配です。
諸葛亮(孔明)はトップの地位になっても自分で経理を行うなど全てを自分でやるタイプでした。劉備(玄徳)だから彼を扱うことができ、さらに劉備(玄徳)と義兄弟の契りを結んだ関羽(雲長)、張飛(翼徳)だったからある程度諸葛亮(孔明)に対し言いたいことも言えたのではないでしょうか。
(ちなみに司馬懿(仲達)は4億、くらいつけたいと思っています。というのも能力は勝っていますが野心がありそうなためです)
とは言え天才軍師でライバルの一人司馬懿(仲達)と違いクーデターを起こさない忠誠心があるため重宝したい存在です。

周瑜(公瑾)5億

諸葛亮(孔明)に並び称される天才軍師周瑜(公瑾)にも高い年俸を払い自軍に置いておきたい逸材です。軍師として軍を指揮することはもちろん彼の音楽の才能や、ルックスの良さでスポンサーを得られることが見込めるためここまで高い年俸となりました。
生まれもよく、赤壁の戦いでは大都督として曹操軍を撃退したことも高評価に値します。
元々孫策(伯符)の元で指揮していましたが、孫策(伯符)が亡くなった後、弟の孫権(仲謀)に仕え変わらず呉を盛り立てたのも彼の良さです。(ここで呉を乗っ取ろうと思えば乗っ取れたのではないかと思っています)
赤壁の戦いで奇襲に次ぐ奇襲をやってのけたのは彼が「文」だけでなく「武」にも秀でていたからではないかと思っています。そんな周瑜(公瑾)には高い年俸が必要でしょう。

孫策(伯符)3億5千万

私が諸葛亮(孔明)に次いで自軍に引き入れたい人物は孫策(伯符)です。彼は「小覇王」という異名があるほど武芸に秀でていた人物です。しかも度胸も満点で袁術に3000の兵と玉璽を交換し、そのわずかな兵で呉の礎を築いたのです。
さらに彼を味方に引き入れたら太史慈(子義)と言った大物が彼に惚れて自軍に入るといったようなことが起こりえるかもしれません。
それでいて人を鼓舞する力も備えられていて、弟に対して「お前は私より人を扱うのがうまい」という言葉を残し、この世を去りました。兄に対して劣等感を抱いていた弟の孫権(仲謀)はこの言葉に救われたことでしょう。強いのに全体を見ることができる、さらに男を惚れさせる孫策(伯符)は是非自軍に引き入れたい逸材です。

張遼(文遠)3億

勢いに乗っている相手を止めたいときにぶつけたい人物を上げたら張遼(文遠)の右に出る者はいません。彼は赤壁の戦い後、魏に攻め込もうとしていた呉軍の大きい壁として存在しました。もし彼がいなかったらもしかしたら魏が滅亡していたのではないかというほどの活躍をした人物です。
呉の子供たちは悪さをしたら「遼来遼来」(張遼が来るぞという脅し文句)と言われたほど彼の凄さが浸透していていたのです。
元々呂布の元で働いていた張遼(文遠)ですが君主が曹操(孟徳)になってもしっかり自分の責任を果たすというところも評価できる点です。

趙雲(子龍)3億

蜀の武将で一番勝っている人物が趙雲(子龍)です。彼の武力は三国志トップレベルでさらに単騎で劉備(玄徳)の子供を助けに行くという度胸がありました。しかもそれでちゃんと連れ戻しているというあたりもすごいところです。
私が彼を関羽(雲長)や張飛(翼徳)より買っている理由は「扱いやすさ」にあります。二人より後に劉備(玄徳)に仕えた諸葛亮(孔明)は、彼らを扱いづらかったのですが、趙雲(子龍)に至っては自分の思い通りに指示ができる武将でした。
仕事ができるのにちゃんという事も聞く。上司としてこれほどありがたい武将はなかなか存在しないことでしょう。
ちなみに関羽(雲長)は2億7千万、張飛(翼徳)は1億2千万という年俸を与えたいと思っています。関羽(雲長)は趙雲(子龍)と同程度で済みますが、張飛(翼徳)は強いけど酒での失態がひどすぎるのでマイナス面も多いためです。安いと思う人は多いかもしれませんが、危険な部下はあまり置いておきたくないので値を吊り上げられるくらいなら「お前はいらん」と一蹴したいです。とはいえ敵にいても厄介な存在なのである程度の額を出して「あわよくば自軍の兵にしておく」程度にはしておきたいです。

呂布(奉先)2億

これに関しては高いと感じる人もいれば安いと感じる人も多いのではないでしょうか。
実際三国志最強の呼び声高い呂布(奉先)なのでもっとついてもいいとは思うかもしれませんが、彼はよく裏切るのであまり高い額で雇いたいとは思わないです。
しかし張飛(翼徳)同様、彼は敵に回したら厄介極まりないのも事実です。誰の下にもついていないのであればいいのですが、彼が敵国の君主について攻めてきたなんて言ったらこちらの被害は計り知れません。
そのため「2億円を払って災害を消す」といった何とももったいない2億円の使い道になってしまう訳なのです。
ちなみにですが、彼の強さで忠誠心が高ければ10億円くらいつけてもいいのではないかと思っています。

袁術(公路)500万

最後はお約束のものすごく安い人物です。三国志で最も評判の低い人物の一人として挙げられるのが袁術(公路)です。生まれは一流なのに野心だけは一丁前で何も成し遂げていない人物です。
あまり相手にされず敵に回してもさほど脅威にもならないので自軍にいなくても差しさわりないため額は低いです。
しいて言うと「生まれがいいから彼のいう事を聞く人間はいる」という事から少額で手に入れられるのであれば念のため手元に置いておこうという位の発想です。

まとめ

個人的に自分の手元に置きたい武将、もしくは敵軍に置いておきたくない武将の年俸をまとめてみましたがいかがでしたでしょうか。
「強いから高い」というだけでなくさらに「扱いやすい」「野心があって不気味」というところまで考慮しなければいけないためなかなか難しく面白いと思います。

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