孫策に見出される
■ 孫策に見出される
孫策に見出される
呂蒙は少年時代から貧しい環境で育ち、母親を楽にさせたいという思いから、15歳で義兄(姉の夫)の軍に従軍していました。もちろん、家族には内緒にしていたので、従軍がばれると家族に叱られる始末となってしまいます。しかし、呂蒙は成功を掴むには自ら危険に飛び込まないといけないと芯を持っており、母もそれ以降なにも言わなかったといいます。
義兄に仕えていた役人に罵られると血気盛んな呂蒙は勢い余って役人を斬り殺してしまいます。一時身を隠していましたが、後に自首しています。一連の事件は当時江東で覇権を担っていた孫策に気に入られ、呂蒙は側近として仕えています。呂蒙は孫策の元で励み、武勇を挙げていきます。ちょうど孫策は江東に勢力を伸ばしている時期であり、人材を積極的に採用していました。
200年に若くして孫策が死去すると、後継者は弟の孫権となりました。まだ青年である孫権に忠誠心が揺らがないよう、重鎮の張昭や周瑜が率先して臣下の礼を取っており、呂蒙も将兵を鍛え直して統率を執るように仕向けます。
呂蒙は軍団の統率力の高さを強調し、孫権にも評価されています。
周瑜にも献策できるほどの戦略・戦術を見せる
■ 周瑜にも献策できるほどの戦略・戦術を見せる
周瑜にも献策できるほどの戦略・戦術を見せる
孫策から孫権の代において、内政は張昭が中心となり、軍務は孫策と義兄弟にあった周瑜が主に掌握していました。周瑜は非常に頭が切れ、曹操や諸葛亮ですら一目おいていたほどの人材でした。呂蒙は指揮官となる周瑜にたびたび進言するほどの戦略・戦術を披露していきます。
203年には孫権や孫策の父・孫堅の仇である高祖討伐に赴きます。呂蒙は周瑜に進言し、戦いを有利に進めていきます。高祖を追い詰めるも、周辺で小規模な反乱が勃発し、捕えることはできませんでした。
周瑜と呂蒙は反乱軍を討伐し、206年にはとうとう高祖を生け捕ります。この戦いでは呂蒙が先鋒を務め、自ら敵都督を討ち取る大活躍を見せました。孫権は仇を討てたことに大変感謝し、大活躍の呂蒙を賞賛します。
曹操が官渡の戦いに勝利し、河北を制圧後、とうとう標的を荊州の劉表と呉の孫権に絞り始めました。曹操と対決姿勢にあった劉表も病で亡くなり、曹操は圧倒的兵力で南下していきました。新野の劉備(玄徳)軍を撃破し、荊州も曹操の支配下に置かれてしまいます。劉備(玄徳)軍の諸葛亮が孫権陣営を訪れ、同盟を結び共同で曹操に対抗するべきであると説得します。
これに大都督となった周瑜も賛同し、孫権は開戦を決意します。この赤壁の戦いには呂蒙も参戦し、周瑜配下として程普や黄蓋らと戦い、曹操軍の将兵を討ち取っていきます。赤壁の戦いは曹操軍の疫病が蔓延したのと、火計が成功したことが挙げられますが、孫権軍の指揮の高さとそれを率いる呂蒙らの指揮官の能力値がものをいいました。
曹操軍にその脅威を知らしめる
■ 曹操軍にその脅威を知らしめる
曹操軍にその脅威を知らしめる
周瑜は曹操を敗退させた後、荊州の奪回を視野に入れていきます。曹操軍は赤壁の戦いで大敗北を喫し、大軍を動かすことができないと踏んでいたからです。孫権は周瑜の副将に呂蒙を付けて江陵の守備に就いていた曹仁を攻めさせます。
この戦いの前後に益州から一人の将が兵士を連れて周瑜に投降してきました。周瑜は呂蒙の軍に編入させて、増強させようとしましたが、呂蒙は益州からわざわざ出向いたことを評価し、この将に兵を増やしてあげるべきであると主張します。孫権はこの呂蒙の判断を指示し、周瑜に物おじしない性格であることを称賛しています。
周瑜甘寧を別働隊として夷陵に出陣させています。対する曹仁は、曹操が旗揚げ当時からの参戦であり、歴戦の古参の武将となっていました。夷陵を攻めるのは曹仁の裏を掻いた作戦でもありましたが、曹仁は軍を二手に分けて対応し、若き甘寧は苦戦を強いられてしまいます。
周瑜は呉の総大将を兼ねていますが、宿将の程普も参戦しており、両者は時に意見の食い違いで仲たがいをすることがありました。そんな折、甘寧苦戦との一方が入って、さすがの周瑜も救援するか一瞬躊躇しますが、呂蒙はすかさず周瑜と程普に留守を凌統に任せて夷陵の救援に向かうべきであると進言します。
凌統は甘寧がまだ高祖の配下だったころ、父親の凌操を殺されています。恨みに思っていたので、呂蒙は両者をあえて近づけないように配慮までしていました。
呂蒙はさらに敵の退路にあらかじめ罠をしかけておき、敵軍の軍馬を奪う算段を立てます。周瑜らの猛攻もあって、敵の将兵が一時退却すると、見事に罠にかかり多くの将兵が捕えられて馬も奪うことができました。勢いづいた周瑜軍は曹仁軍を追い詰め、全軍退却させることに成功しています。
孫権は荊州を支配することに成功しますが、これも呂蒙の活躍のおかげであったといわれています。
勉学の大切さを知り、猛将から知将へと変貌
■ 勉学の大切さを知り、猛将から知将へと変貌
勉学の大切さを知り、猛将から知将へと変貌
呂蒙は孫策に見出されてからというものの、猪突猛進タイプの劉備(玄徳)軍でいうところの張飛タイプといえました。呂蒙は貧しい身から己の才覚で成り上がった身であり、戦場で功績を残すことが出世の近道と考えていました。
しかし、孫策の後継者となった孫権から勉学と教養の大事さを諭されています。呂蒙は若い孫権を前に、主君は座して待つだけでいいものの、臣下は現場に赴き、血や汗をかきながら命の駆け引きをしている以上、勉学などしている時間はないと断ってします。
孫権は主君ですら忙しさに怠けずに勉学に取り組んでいるもので、呂蒙なら絶対にできると念を押します。孫権は詳しく勉強しろと言っているのではなくて、過去に起きた事例を多く知るだけでいいと諭します。呂蒙は仕方なく勉学を始めると、あっという間に学者以上の学問を吸収するようになっていきます。呂蒙の智恵はこの後、曹操や劉備(玄徳)との対決に欠かせないものとして備わっていきます。
孫権は父の孫堅や兄の孫策を見ていることから、考え方も聡明であり、呂蒙のプライドを傷つけないように配慮していることがわかります。また、呂蒙はその期待に応えるのが見事というほかない人物でした。
呂蒙の今後の軌跡
■ 呂蒙の今後の軌跡
呂蒙の今後の軌跡
呉は周瑜が死に、事態は大きく変貌しようとしています。魯粛が後継者となりますが、実戦では呂蒙の軍略や智謀が光りはじめていきます。今後、曹操軍と劉備(玄徳)軍を大いに苦しめた呂蒙の実力が徐々に発揮されていきます。