三国志演義に描かれた周瑜(公瑾) 諸葛亮(孔明)に惜しまれたその才能
呉の水軍大都督であった周瑜(公瑾)。赤壁の戦いでは劉備軍と連合して曹操(孟徳)の巨大水軍を壊滅させるなど、その実力は随一。駆け引きにおいても常に曹操(孟徳)より上手を行く知力の持ち主でした。華々しい活躍を見せた英雄でしたが36歳でこの世を去ってしまいます。
三国志演義は劉備(玄徳)や諸葛亮(孔明)といった蜀の武将、官吏を贔屓した描写が多いです。実際その場ではなにもしていないのにさも獅子奮迅の活躍をしていたことになっていたり、神様のように描かれることもしばしばあります。それでは三国志演義にある蜀将にまるわるフィクションをお届けしましょう。
今回は、三国志に登場する英雄たちから選抜して、ワールドカップでも活躍できそうなチームを編成していきたいと思います。
三国時代の知将として代表的なのは蜀の諸葛亮(孔明)と魏の司馬懿(仲達)です。三国志のシミュレーションゲームでも、軍師として誰もが欲しがるビッグネームですが、呉の孫権(仲謀)配下には彼らのような大物軍師はいませんでしたが、知将として名高い武将たちがリレー形式で孫一族を支えていったのです。
曹操はなぜ赤壁の戦いで大敗することになったのでしょうか。三国志の時代の水軍と共に紹介していきます。
北伐を繰り返した諸葛亮と姜維!2人が北伐を何度も行った理由とは?
諸葛亮と姜維は北伐を繰り返したことで有名です。そこで三国志好きが気になるのは、諸葛亮と姜維が北伐を繰り返した理由についてです。実は、北伐を繰り返した理由にはいくつかの説が存在しています。そこで今回は、諸葛亮と姜維が北伐を繰り返した理由について紹介していきたいと思います。
赤壁の戦い後 荊州南部侵攻は初めて劉備軍優勢で実行される計画
赤壁の戦い後、荊州城、襄陽城、南城を取り荊州北部を制圧した劉備(玄徳)。呉国との紛争を抱えながらも荊州南部侵攻に乗り出します。荊州全土を押さえ、天下三分の計の足掛かりとする諸葛亮(孔明)の大計を実現するための行動の始まりです。
三国志に出てくる最大の天才はもちろん諸葛亮です。国力で圧倒的に劣る蜀漢を支え、魏・呉に対抗しました。その兄である諸葛瑾は呉の国で孫権に仕えていました。敵国で偉大な才能を発揮していた弟を持つ彼はどう考えていたのでしょうか?また、どのように見られていたのでしょうか?
曹・劉・孫・呂・周・馬・袁など三国志の登場人物の多くは一字の姓を持っています。少数派ですが二字の姓をもつ人物もいます。彼らはどういう人物でしょうか?また、共通点はあるのでしょうか?
三国志の中でも最も有名な戦い!赤壁の戦い わかりやすく徹底解説!
三国志 赤壁の戦い わかりやすく!・・・三国志の歴史の中でも有名であり、映画化もされている赤壁の戦いがどのような経緯で行われ、どのような戦況だったのかを説明します。
長沙郡の攻防 黄忠(漢升)、魏延(文長)が劉備軍に加わる重要地
赤壁の戦い後、荊州南部の零陵、桂陽、武陵を次々と平定して行った玄徳軍。最後に残るは長沙郡。これまでの3郡と同様に劉備軍が圧倒的に有利な状況は変わりませんでした。そして長沙郡では、後の蜀漢の中心的存在となる黄忠(漢升)、魏延(文長)が劉備軍に加わります。
まさに波乱万丈! 劉備(玄徳)に軍略を教えた徐庶(元直)の生涯
劉備(玄徳)に仕える軍師といったら真っ先に諸葛亮(孔明)を思い浮かべることでしょう。しかし、彼の存在を劉備(玄徳)に教えた人物が徐庶(元直)です。ここでは波乱万丈に満ちた徐庶(元直)の生涯について紹介します。
三国志で最大の戦いの一つといっても過言ではないのが赤壁の戦いです。数で圧倒する曹操軍に対して孫権軍・劉備軍の連合軍が勝ったわけですが、この戦いでは「えっそんなことがあったの?」と拍子抜けしてしまうことも多々ありました。そんなエピソードについて紹介したいと思います。
三国擁立へ! 【劉備(玄徳)】の軌跡④「益州攻防戦~定軍山~荊州の悲劇」
劉備(玄徳)は益州に入ると、快進撃を繰り広げて乗っ取りを始めます。諸葛亮の天下三分の計を成し得ますが、益州の外には呉や魏が強大なライバルとして立ちはだかります。ここでは益州攻防戦や曹操軍に快勝した定軍山の戦い、それにともなって起こった荊州の悲劇をみていきましょう。
天下三分の計実現へ! 【劉備(玄徳)】の軌跡③「長坂の戦い~入蜀へ」
劉備(玄徳)は諸葛亮を得たものの、劉表の死によって、曹操の大軍から追われることになっていきます。天下三分の計実現へ向けて、益州入りを目指さなくてはなりませんが、まずは曹操との対決が迫っていきました。ここでは曹操と対決し、孫権との同盟や入蜀までを見てきましょう。
諸葛亮と言えば蜀における重要人物です。三国志の登場人物の中でも高い人気を誇っています。そんな諸葛亮ですが、“天才軍師”と評する人から、“無能”だったとの説を唱える人までいるのです。そこで今回は、諸葛亮は有能・無能どっちだったのか紹介していきたいと思います。
「才能がないわけじゃない、本気を出していないだけだ」という言葉とともに「明日から本気出す」というネット上の若者。でも、三国時代にもそんな人がいました。蜀の軍師中郎将・龐統(士元)です。
三国志きっての天才・蜀の軍師である諸葛亮(孔明)を育んだのは襄陽の隆中でした。そこは英傑がこぞって在野で知を競い合う土地だったのです。どんな人物たちが切磋琢磨していたのでしょうか。
三国志演義では関羽(雲長)の愛刀の青龍偃月刀や張飛(翼徳)の蛇矛(じゃぼう)など、人々を魅了する武器が登場します。そこまで有名ではないものの、諸葛亮(孔明)が発明した当時は画期的な新兵器だった幻の連弩を紹介します。
本当の三国志の世界はろくなリーダーがいなかったという驚愕の事実
三国志の世界には当然リーダー格となる人物がたくさん登場しますが、英雄と呼ばれている人物でも史実をたどればとんでもないミスをやらかしてしまうなどしています。今回は、そんな三国志の本当の世界を辿り、どんなミスがあったかなどを追及していこうと思います。