諸葛瑾--天才の兄

諸葛瑾--天才の兄

三国志に出てくる最大の天才はもちろん諸葛亮です。国力で圧倒的に劣る蜀漢を支え、魏・呉に対抗しました。その兄である諸葛瑾は呉の国で孫権に仕えていました。敵国で偉大な才能を発揮していた弟を持つ彼はどう考えていたのでしょうか?また、どのように見られていたのでしょうか?


戦乱の地から江東へ

戦乱の地から江東へ

戦乱の地から江東へ

諸葛瑾は若い頃に実母を亡くします。その後、父が迎えた継母に孝養を尽くしました。儒教の影響が強く「孝」を大切にする当時、諸葛瑾の評判は非常に上がりました。その後、後漢末に起こった「黄巾の乱」「董卓の乱」などを避けて揚州に住みました。その地に住んでいた時に、孫策が死亡し、孫権が後を継ぎました。その孫権に諸葛瑾は推挙され、仕えるようになりました。孫権の諸葛瑾に対する評価は高く、魯粛と共に賓客として扱われました。

弟と戦略での衝突

弟と戦略での衝突

弟と戦略での衝突

弟の諸葛亮は言わずと知れた、劉備(玄徳)軍の参謀です。当然のことながら、諸葛瑾は孫権のため、諸葛亮は劉備(玄徳)のため、策を練るので徐々に衝突していきます。諸葛瑾も諸葛亮も辛さはあったことでしょう。
諸葛瑾自身は孫権に忠誠を誓っていましたが、やはり敵の大幹部に実の弟がいるということで諸葛瑾に対して疑いの目を持つものはいました。あるいは、いつの時代にもあるように出世レースのライバルとして彼を陥れようとした者もいたかも知れません。ですが、孫権は一貫して諸葛瑾を信頼し続けます。
劉備(玄徳)の使者として諸葛亮が孫権の元を尋ねます。その時孫権は諸葛瑾に対して諸葛亮を引き抜くことは出来ないか?と相談します。諸葛瑾はそれに対して
「私がこの国を裏切らないのと同じように、弟も自分の国を裏切らないでしょう」
と返答します。諸葛兄弟の絆とお互いを信頼している事が伝わってきます。そして、孫権はその答えを聞いて、諸葛瑾を一層信頼したということです。

悪化する同盟関係--孫権VS劉備(玄徳)

悪化する同盟関係--孫権VS劉備(玄徳)

悪化する同盟関係--孫権VS劉備(玄徳)

・赤壁の戦い
・荊州南部の戦い
・劉備(玄徳)の入蜀
これらを経た後、孫権は荊州南部を手に入れようとします。元々、劉表・劉琮の領土で、曹操がそこを手に入れたわけなので、特にどちらのものというわけではないのですが、劉表の血を引く劉琦が死亡した際に、劉備(玄徳)が益州を手に入れたら、孫権に譲り渡すという約束でした。なので、孫権としては当然、荊州は自分のものと考え、諸葛瑾を使者として益州の劉備(玄徳)の元へ送ります。この交渉は結局失敗に終わります。諸葛瑾が益州にいた間、弟の諸葛亮とは公式な場での顔合わせはあったものの、私的に面会することはなかったといいます。
やがて、孫権は荊州を手に入れようと呂蒙に兵を率いさせます。劉備(玄徳)も自ら兵を率いて迎え撃とうとします。まさに一触即発の状態です。ここで、同盟関係を維持しようと魯粛が働きかけます。関羽と直に話し合います。また、同時期に曹操が漢中に攻め入り、おとします。漢中は益州の入口とも言うべき場所。劉備(玄徳)としてはオチオチしていられません。結局、劉備(玄徳)が歩み寄り、伊籍を使者として、荊州の一部を孫権に譲り渡します。諸葛瑾は同盟確認の使者として益州を訪れます。
その後、劉備(玄徳)は漢中を奪い、関羽が荊州から都へ攻め入る姿勢を見せます。これに対抗するため、魏は孫権に働きかけ、荊州に攻め入らせます。諸葛瑾も従軍し、手柄を立てます。孫権軍が荊州を奪った後は、諸葛瑾が南郡太守となります。
この荊州奪取が夷陵の戦いを呼び起こします。孫権は陸遜を総大将にして劉備(玄徳)軍を迎え撃たせます。諸葛瑾は講和を劉備(玄徳)に求めますが、受け入れられません。諸葛瑾が劉備(玄徳)の右腕である諸葛亮の兄であることから、内通を疑うものが出てきます。それを陸遜に進言するものも出てきました。陸遜はそんなことあるわけないとしつつも孫権に伺いを立てます。それに対しての孫権の返事は
「諸葛瑾が私を裏切らないのは、私が諸葛瑾を裏切らないのと同じだ」
とあります。諸葛瑾がいかに孫権の厚い信頼を得ていたかが分かります。

強大な魏の国に対抗するために

強大な魏の国に対抗するために

強大な魏の国に対抗するために

夷陵の戦いが終わると、魏が呉に攻め込んできます。諸葛瑾は荊州方面に出陣して魏軍を迎え撃ちます。曹真や夏侯尚と言った魏の名将相手に一進一退で戦い続けます。演義を読んだ人は、諸葛瑾は文官で戦争に出ているシーンとかはあまり想像しないかも知れません。ですが、後に「左将軍」「長史・中司馬」と軍事的に昇進しています。面白いエピソードとしては、孫権が臣下に政治的な意見を求めた時に、「自分は武官だから」と諸葛瑾は意見を控えるようなことを言ったそうです。正史と演義で全く諸葛瑾のイメージが変わってきます。
劉備(玄徳)の死後は呉と蜀漢の同盟が復活します。同盟復活後は弟の諸葛亮と直接連絡等をとっていたようです。諸葛亮には長らく息子がいませんでした。そこで諸葛瑾は自分の次男である諸葛喬を諸葛亮の養子とさせています。五丈原の戦いの際には、蜀漢軍の出陣に合わせて、陸遜とともに江夏方面に出陣しています。強大な魏の国に対抗するために、結果的に弟と共に同じ相手に対して戦うことになったのです。
諸葛亮の死亡後、魏との戦が再度あり、陸遜とともに出陣しますが、結局撤退することになります。この時、陸遜の指示に従い、損害を出さずに撤兵に成功し、孫権に褒められたようです。

まとめ

まとめ

まとめ

諸葛瑾は孫権の性格をよく掴んでおり、進言する時も真っ向から言うのではなく、諭すように伝えたといいます。孫権との折り合いが悪くなった重臣の朱治や虞翻との仲を修復して、彼らに感謝されたといいます。また、周瑜の子である周胤は罪を犯して、流罪になっていましたが、それを許してほしいと、歩騭と共に孫権に上奏しました。また、妻が亡くなった後、後妻を迎えることはなかったそうです。自らが優れていただけでなく、同僚や家族を非常に大切にしていました。
見た目やなりも立派で、それでいて奥ゆかしい態度であったので、周りの人から大変尊敬されていたと言われています。孫権も大事なことがあると、自ら諸葛瑾の元を訪れ、相談に乗ってもらったそうです。
家族を大切にしていた諸葛瑾ですが、息子の諸葛恪には非常な不安を持っていました。才能あふれる人物でしたが、驕ったところがあるため、諸葛家を滅ぼすのは諸葛恪ではないかと思っていたそうです。そして、実際に、昇進した諸葛恪が誅殺され、一族は皆殺しに会いました。ですが、諸葛亮の元へ養子にいった諸葛喬の一族が残っていたため、やがて呉の国の諸葛家も復興しました。自分がおくゆかしい性格だったからこそ、息子の欠点がよく見えていたのでしょう。
演義では同僚の魯粛同様、劉備(玄徳)の元にいる諸葛亮に振り回される文官というイメージが強い諸葛瑾ですが、非常に優れた将軍であり、政治家でありました。そこのところは演義は正しく伝えてはいません。ですが、凄く人格的に優れた人であったというのはなんとなく演義からも伝わってくると思います。本人としては半分は伝わったかなという感じでしょうか。





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