諸葛一族--前漢からの名門
■ 諸葛一族--前漢からの名門
諸葛一族--前漢からの名門
諸葛亮・諸葛瑾・諸葛誕など、三国各国で活躍した諸葛一族の祖先は、前漢・元帝の時代の司隷校尉である諸葛豊であると言われています。また、諸葛豊は秦の二代目皇帝である胡亥の時に反乱を起こした陳勝の配下であった葛嬰と伝えられています。葛嬰自身は陳勝に告げず王を名乗ったため、陳勝に処刑されます。ですが、漢の時代になって、葛嬰の孫を探し出し、諸県侯に報じました。それ以来、「諸葛」と名乗るようになったそうです。
そして、時代は流れ三国志の時代、諸葛亮は劉備(玄徳)に見出され、蜀漢の丞相として腕をふるいます。演義や漫画を読む人には天才軍師としての印象が強いでしょうが、史実の彼は非常に優れた政治家であったようです。そのため、蜀漢の領民は諸葛亮の善政に感謝し、彼を祀るようにまでなります。諸葛亮の弟である諸葛均も兄同様に蜀漢に仕えます。演義では、兄の留守を劉備(玄徳)に伝えるだけの役目でしたが、正史では長水校尉まで昇進しています。諸葛亮の子である諸葛瞻、孫である諸葛尚は蜀漢が鄧艾に攻められた時、成都までの道のりで最後の砦となる綿竹関を守って討ち死にします。死の直前まで蜀漢への忠義を貫いた諸葛亮の子と孫に相応しい最後と言えます。
諸葛亮の兄である諸葛瑾は呉の重臣として孫権の厚い信頼を得ます。ある時、孫権の家臣が、諸葛瑾が蜀の諸葛亮と結託して内通していないかと孫権に進言すると、孫権は
「諸葛瑾は私を裏切らない。私が諸葛瑾を裏切らないのと同じように」
とまで言ったそうです。いかに孫権に信頼されていたかが分かります。また、演義や漫画からですと、諸葛瑾は政治家や参謀である印象を受けるかと思いますが、実際には武将として出陣していました。魯粛などもそうですが、呉の知将は武将でなく政治家として演義で書かれていることが多いです。諸葛瑾の子である諸葛恪は呉の国の大将軍まで出世します。ところが、その才能が災いしたのか、独断専行によって人望を失い、最後はクーデターによって殺されてしまいます。
諸葛亮・諸葛瑾の遠縁の親戚と言われる諸葛誕は魏の国で出世します。諸葛一族を表す「蜀は竜を得、呉は虎を得、魏は狗を得た」という言葉があります。この場合の狗は「功あるもの」という意味で、三国とも素晴らしい人材を得たと言う意味です。諸葛誕も諸葛亮・諸葛瑾に劣らず素晴らしい才能をもっていたと当時の人は認めていたようです。
司馬一族--殷王の血筋
■ 司馬一族--殷王の血筋
司馬一族--殷王の血筋
魏の国の重臣である司馬懿ら司馬一族の祖先は秦・楚漢戦争の時に殷王となった司馬卬であると伝えられています。当時は世が乱れていた時期なので、実力で王にまでなった人物であったのでしょう。その子孫である司馬一族が最終的に三国志の勝者となったことを考えると、正に王の一族といえるのかも知れません。
三国志では司馬懿が圧倒的に目立っていますが、司馬一族には他にも優秀な人物がたくさんいます。
兄の司馬朗は兗州刺史に曹操に任命され、善政を敷いたと伝えられています。また、司馬懿は後に「私は兄に人格で及ばない」と言ったそうです。
弟の司馬孚は93歳と当時にしては大変な長寿を全うしました。非常に温厚な性格で人を恨んだことがないとまで言われていたそうです。また、慎み深く、司馬懿やその息子である司馬師・司馬昭が魏の実権を握ることになっても、自分は一歩下がった立場で通し、やがて彼らが魏の皇帝一族をないがしろにしても、あくまで臣下の立場として皇帝をたてていました。実権を握っている司馬昭たちに対して換言することも多々ありましたが、司馬孚に対しては司馬昭たちも手出しをすることはありませんでした。そして、司馬炎が魏の最後の皇帝である元帝から禅譲された時も、
「臣は死ぬ日まで魏の臣下です」
と元帝に頭を下げたそうです。
司馬懿の息子である司馬師・司馬昭はいずれも麒麟児とまで呼ばれる優秀な人物でした。司馬懿が築いた司馬一族の権勢を二人がより確実なものにしました。権力者のもとに優秀な息子が二人いると、後継者争いになりがちですが、幸か不幸か兄である司馬師には男児がいませんでした。そのため、司馬昭の息子である司馬攸を養子にしていました。そして、司馬師が持病の瘤が悪化して死期を悟った時、司馬攸の兄である司馬炎が司馬昭の息子であったことも考慮して、後継者を司馬昭にしました。これによって、司馬一族の権力はスムーズに譲り渡されたのです。
司馬昭の息子である司馬炎は魏の国から禅譲を受け、晋の皇帝となり、三国を統一します。司馬昭は魏の皇帝の元で晋王になります。ですが、曹操と同じく皇帝になることは息子に任せます。そして、予定通り、司馬炎は父である司馬昭が死亡すると、晋王に即位し、その後、皇帝の位につきます。司馬一族の栄華はここに頂点を極めるのです。
夏侯一族--高祖の御者の血統
■ 夏侯一族--高祖の御者の血統
夏侯一族--高祖の御者の血統
夏侯惇・夏侯淵を始めとする夏侯一族の祖先は漢の高祖の御者である夏侯嬰です。また、彼らの叔父が曹操の父親である曹嵩です。曹嵩は宦官である曹騰の養子に入りましたが、元々は夏侯一族です。
祖先である夏侯嬰は漢の高祖が項羽率いる楚軍に追われている時、馬車を操り、高祖の子供を守り抜きました。まさに、高祖の忠臣とも言うべき存在です。
一方、夏侯惇・夏侯淵は曹操の挙兵時からの配下です。30年以上曹操のもとで戦いました。夏侯淵は蜀漢との最前線の司令官として戦い、黄忠相手に戦死をします。夏侯惇は、曹操配下の将でありながら漢の官職をもらっています。これはいかに夏侯惇が曹操に信頼されていたかを示しています。その子らである夏侯覇・夏侯威・夏候恵らも諸葛亮・姜維の北伐に対抗するために出陣します。夏侯一族の魏の皇帝一族に対する忠誠心は素晴らしいものがありました。ところが、その忠誠心のために、運命は変わってきます。魏の国では司馬懿がクーデターを起こし、曹爽を倒し、実権を握りました。それを見た夏侯覇は自分の身に危険を感じて蜀漢に亡命します。曹一族とのつながりが深いからこそ、魏の国を捨てた。乱世に起こった予期せぬ運命でした。
まとめ
■ まとめ
まとめ
圧倒的に多い一字姓に比べるとやはり二字姓の人物は限られます。他には公孫瓚や公孫淵の公孫一族。黄巾の乱で活躍した皇甫嵩の皇甫一族。呉の名臣である太史慈の太史一族らがいます。二字姓の正史への登場人物がかなり限られるのに比べると、演義のみの登場人物には二字姓がたくさんいます。ざっと挙げてみるだけで、沙摩柯・董荼奴・阿会喃・刑道栄・武安国・慕容烈・裴元紹・程遠志・兀突骨・朶思王とかなり色々なパターンの姓が出てきます。また、彼らの多くは蛮族として設定されています。やはり架空の人物と言えど、中央の地には二字姓の人物が多くいたら不自然と考えられたのでしょう。