北伐を繰り返した諸葛亮と姜維!2人が北伐を何度も行った理由とは?

北伐を繰り返した諸葛亮と姜維!2人が北伐を何度も行った理由とは?

諸葛亮と姜維は北伐を繰り返したことで有名です。そこで三国志好きが気になるのは、諸葛亮と姜維が北伐を繰り返した理由についてです。実は、北伐を繰り返した理由にはいくつかの説が存在しています。そこで今回は、諸葛亮と姜維が北伐を繰り返した理由について紹介していきたいと思います。


そもそも、北伐とは何?

そもそも、北伐とは何?

そもそも、北伐とは何?

三国時代における蜀漢は、諸葛亮と姜維が北伐を繰り返します。劉備(玄徳)の死後、諸葛亮は北伐を繰り返すことになり、魏に対して5度に渡って侵攻しています。諸葛亮の死後、しばらく北伐は一時中止されるのですが、姜維が軍権を握ると大々的な北伐を再び繰り返すことになったのです。

北伐とは、蜀漢が魏へ侵攻することです。地理的に、北に侵攻していくことから北伐と呼ばれているのです。ちなみに、北伐は三国時代以外にも東晋時代や南宋時代、さらには孫文や蔣介石らによる国民党の北伐まであります。三国時代の北伐は、諸葛亮と姜維が行ったのですが、諸葛亮や姜維による北伐には、様々な説があります。それぞれの説について紹介していきましょう。

長安を攻略するため説

長安を攻略するため説

長安を攻略するため説

有力な北伐理由の説は、長安を攻略するためとの説です。当時の長安は首都レベルの大都市であり、豊かな土地だったのです。このときの蜀漢と魏の国力を比べると、圧倒的に魏が上回っています。そこで、豊かな土地である長安を攻略することで、国力差を埋めようとしたとの説なのです。

しかも、諸葛亮が北伐を行なっていた時代の魏の皇帝である曹丕は、洛陽に遷都しています。比較的に長安と洛陽は近いため、長安を攻略することができれば、魏討伐の足掛かりにすることができるのです。このことからも、まずは長安を攻略することが目的だったとの説が有力視されているのです。

攻撃的な防御だった説

攻撃的な防御だった説

攻撃的な防御だった説

諸葛亮と姜維の北伐は、攻撃的な防御だったとの説も存在しています。北伐は魏への侵攻であり、通常ならば攻撃に分類されるはずです。しかし、北伐の真の理由は防御だったとの説があるのです。当時の蜀漢と魏には国力差が大きく、魏に侵攻されるのは得策ではありません。魏が本気で討伐をしようとすれば、国力差から負ける可能性が高かったのです。

そこで、あえて北伐を行うことにより、蜀漢には国力的な余裕があることを示したとされています。北伐をするだけの余裕があるため、蜀漢討伐をするのは難しいとの印象を魏に与えることができるのです。まさに、攻めさせないための攻撃だったという訳です。

この説が事実なら、諸葛亮の北伐は成功と言えるでしょう。諸葛亮は攻撃的な防御ができており、実際に魏によって攻め込まれるのは少なかったです。しかし、姜維は失敗したといえます。結果的に北伐によって国力を損なわせてしまい、蜀の滅亡に追いやってしまったのです。それでは攻撃的な防御とはならず、姜維は失敗したと言えるのです。

単なるデモンストレーション説

単なるデモンストレーション説

単なるデモンストレーション説

三国時代の北伐は、単なるデモンストレーションとの説もあります。端的に説明してしまえば、北伐はただの見せかけだったとの説になります。なぜ見せかけの北伐をしなければならなかったのかと言えば、蜀漢という国の成り立ちと関係しています。

蜀漢というのは、曹丕が後漢を廃してしまい、魏の皇帝になったので、その対抗としと漢の皇帝を名乗るようになったのです。漢の正統後継者を名乗る蜀漢としては、同じく漢の正統後継者を名乗る魏と並立して存在するわけにはいけません。そのため、北伐を繰り返し、魏を攻める姿勢を見せ続けたという説なのです。

蜀漢の存在意義を示すためには、例えポーズだったとしても北伐を行う必要があったのです。本気で攻略するつもりはないが、蜀漢の存在意義や国内をまとめるために北伐が必要だったとの説となっています。

魏による策略説

魏による策略説

魏による策略説

三国時代の北伐は、魏による策略だとする説もあります。この説は、魏はあえて北伐をしやすいように、蜀漢を誘い込んだとの説になります。蜀漢が保有している土地は、魏にとって攻めにくい土地です。しかも、蜀漢を討伐しようとすると、呉が攻め込んでくる可能性もあります。そのため、魏としては、蜀漢を弱体化させた後に討伐したかったと考えることができるのです。

そのため、あえて魏は蜀漢に隙を見せ、諸葛亮や姜維に北伐をさせ、それを撃退することで弱体化を狙ったとの説となります。実際に諸葛亮は北伐追われ、病に倒れてしまいます。姜維による北伐も、蜀漢を疲弊させることになり、弱体化させることを成功させているのです。ただし、この説はあくまでも結果論ではとの意見もあります。結果から見れば、北伐によって蜀漢を弱体化させることに成功しています。しかし、北伐で魏は何度か大敗も喫しており、魏による策略説は現実的ではないのではとの声も多いのです。

劉備(玄徳)・諸葛亮の意志を継いだから説

劉備(玄徳)・諸葛亮の意志を継いだから説

劉備(玄徳)・諸葛亮の意志を継いだから説

劉備(玄徳)と諸葛亮の意志を継いだからとの説もあります。諸葛亮が北伐を行った理由は、劉備(玄徳)の意志を継いだからであり、姜維が北伐を行った理由は、諸葛亮の意志を継いだからとの説です。諸葛亮は北伐にあたって、「出師表」を劉禅に奏上しています。この「出師表」で諸葛亮は、劉備(玄徳)への恩義を述べているのです。この「出師表」から、劉備(玄徳)の意志を継いだことがよくわかります。そのため、劉備(玄徳)の意志を受け継ぎ、北伐にこだわったとの説なのです。

また、姜維が北伐にこだわった理由は、諸葛亮の意志を受け継いだからとの説があります。姜維は元も魏に仕えていたのですが、諸葛亮の北伐の際に蜀漢に降伏しています。その後、諸葛亮は姜維を評価しており、取り立てたのです。このことから、姜維は諸葛亮への恩義に報いるために、諸葛亮の意志を受け継ぎ、北伐にこだわったとの説があるのです。

結局どの説が有力なの?

結局どの説が有力なの?

結局どの説が有力なの?

今回は、諸葛亮と姜維が北伐を繰り返した理由の様々な説について紹介してきました。正直、どの説が有力なのかは微妙なところがあります。複合的な理由となっており、すべてが少しずつ含まれていると見ることもできるのです。いずれの説も可能性があり、今後も三国志好きの人で議論されることでしょう。

また、逆に諸葛亮や姜維が北伐をしなかったら、蜀漢はどうなっていたのかを考えるのも面白いです。ただ、単なるデモンストレーション説に見るように、蜀漢は魏と争うことで存在意義があります。そう考えると、やはり北伐は避けることはできなかったことでしょう。いずれにしても、歴史のifを考えるのは面白いので、ぜひ三国志のifも考えてみてください。





この記事の三国志ライター

関連するキーワード


北伐 諸葛亮 姜維

関連する投稿


「天下三分の計」を実際に唱えたのは誰!?

三国志のストーリーで重要な役割を果たす「天下三分の計」。多くは諸葛孔明が劉備(玄徳)に献策したものと理解しているが、史実を紐解いてみると面白い事実が分かる。天下を曹操・孫権・劉備(玄徳)の三勢力に分けるという「天下三分」の構想は、意外な人物にオリジナルがあったのだ。


働きすぎ!軍師・孔明の死因は過労死だった?

三国志最高の軍師と言われる諸葛亮孔明。彼の死因はなんと過労死!?いったいどれだけ働いていたのか、なぜそこまでしたのかを彼の人生と共に見ていきます。正史と演義での彼の役割の微妙な違いにも注目です。


三国志を彩る個性豊かな知将7選

三国志を彩る個性豊かな知将7選をご紹介!


諸葛亮孔明が北伐にこだわった本当の理由とは?

劉備(玄徳)に三顧の礼で迎えられた天才軍師・諸葛亮孔明。劉備(玄徳)に迎えられてからは名軍師として数えきれない活躍を見せます。そして最後は北伐でその生涯を閉じるのですが、そもそもなぜ北伐を繰り返していたのでしょうか。推測も交えつつ、北伐にこだわった理由に迫ってみるとしましょう!


行ってみたい!三国志オススメの聖地(遺跡)7選

日本でも多くのファンがおり、とても人気な三国志。三国志人気の聖地(遺跡)をご紹介します。


最新の投稿


関羽「刮骨療毒」名医・華佗の技術

樊城の戦火が夜空を焦がす中、関羽の右腕を貫いたのは、ただの矢ではなかった。 肉を裂き、骨にまで届く毒。名医・華佗が「骨を削り、毒を断つしかありません」と言う。関羽は、碁を打ちながら笑みを浮かべて「痛みなど、意志の前では塵にすぎぬ」と言った。 英雄の強さとは、剣の冴えではなく、痛みを静かに受け入れる心だった。


呉の軍師、周瑜「美周郎」はなぜ36歳でこの世を去ったのか?

周瑜の死は、過酷な戦乱の時代を反映していると言えます。彼の早すぎる死が、三国志という物語に悲劇的な輝きを与え、私たちを1800年後の今も惹きつけてやまないのです。「美周郎」と呼ばれた天才将軍の最期は、現代に生きる私たちにも、健康の大切さと人生の儚さを静かに訴えかけているようです。


赤兎馬という名器は、それを使う者の本性を暴き、増幅する

「力」や「宝」は、それを持つ人物の器によって、吉と出るも凶と出るもする。赤兎馬の生涯は、単なる名馬の物語ではなく、持ち主を映す鏡としての象徴でした。


燃ゆる背に風が鳴る。黄蓋・苦肉の計、苦肉の策

西暦二〇八年、長江の水面に、ひとつの決意が沈んでいた。曹操、北の地をほぼ制し、南へ。押し寄せる黒い雲のような大軍に、江東は揺れる。主戦の旗を掲げた周瑜に、ためらう声が重なる、「降れば命は繋がる」。だが、その軍議の輪の外で、ひとりの老将が背を伸ばしていた。名は黄蓋。


人中に呂布あり ― 奉先、馬中に赤兎あり、呂布入門!

後漢の末、彼の名は風のように戦場を駆け抜けた。呂布、字は奉先。人は「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と讃えたが、同時に「三姓の家奴」と蔑んだ。最強の矛と、最も軽い信。――この二つが、彼の生涯を裂いたのだが、強さ上の人気、呂布について、初めての方に紹介しよう。


アクセスランキング


>>総合人気ランキング