そもそも、北伐とは何?
■ そもそも、北伐とは何?
そもそも、北伐とは何?
三国時代における蜀漢は、諸葛亮と姜維が北伐を繰り返します。劉備(玄徳)の死後、諸葛亮は北伐を繰り返すことになり、魏に対して5度に渡って侵攻しています。諸葛亮の死後、しばらく北伐は一時中止されるのですが、姜維が軍権を握ると大々的な北伐を再び繰り返すことになったのです。
北伐とは、蜀漢が魏へ侵攻することです。地理的に、北に侵攻していくことから北伐と呼ばれているのです。ちなみに、北伐は三国時代以外にも東晋時代や南宋時代、さらには孫文や蔣介石らによる国民党の北伐まであります。三国時代の北伐は、諸葛亮と姜維が行ったのですが、諸葛亮や姜維による北伐には、様々な説があります。それぞれの説について紹介していきましょう。
長安を攻略するため説
■ 長安を攻略するため説
長安を攻略するため説
有力な北伐理由の説は、長安を攻略するためとの説です。当時の長安は首都レベルの大都市であり、豊かな土地だったのです。このときの蜀漢と魏の国力を比べると、圧倒的に魏が上回っています。そこで、豊かな土地である長安を攻略することで、国力差を埋めようとしたとの説なのです。
しかも、諸葛亮が北伐を行なっていた時代の魏の皇帝である曹丕は、洛陽に遷都しています。比較的に長安と洛陽は近いため、長安を攻略することができれば、魏討伐の足掛かりにすることができるのです。このことからも、まずは長安を攻略することが目的だったとの説が有力視されているのです。
攻撃的な防御だった説
■ 攻撃的な防御だった説
攻撃的な防御だった説
諸葛亮と姜維の北伐は、攻撃的な防御だったとの説も存在しています。北伐は魏への侵攻であり、通常ならば攻撃に分類されるはずです。しかし、北伐の真の理由は防御だったとの説があるのです。当時の蜀漢と魏には国力差が大きく、魏に侵攻されるのは得策ではありません。魏が本気で討伐をしようとすれば、国力差から負ける可能性が高かったのです。
そこで、あえて北伐を行うことにより、蜀漢には国力的な余裕があることを示したとされています。北伐をするだけの余裕があるため、蜀漢討伐をするのは難しいとの印象を魏に与えることができるのです。まさに、攻めさせないための攻撃だったという訳です。
この説が事実なら、諸葛亮の北伐は成功と言えるでしょう。諸葛亮は攻撃的な防御ができており、実際に魏によって攻め込まれるのは少なかったです。しかし、姜維は失敗したといえます。結果的に北伐によって国力を損なわせてしまい、蜀の滅亡に追いやってしまったのです。それでは攻撃的な防御とはならず、姜維は失敗したと言えるのです。
単なるデモンストレーション説
■ 単なるデモンストレーション説
単なるデモンストレーション説
三国時代の北伐は、単なるデモンストレーションとの説もあります。端的に説明してしまえば、北伐はただの見せかけだったとの説になります。なぜ見せかけの北伐をしなければならなかったのかと言えば、蜀漢という国の成り立ちと関係しています。
蜀漢というのは、曹丕が後漢を廃してしまい、魏の皇帝になったので、その対抗としと漢の皇帝を名乗るようになったのです。漢の正統後継者を名乗る蜀漢としては、同じく漢の正統後継者を名乗る魏と並立して存在するわけにはいけません。そのため、北伐を繰り返し、魏を攻める姿勢を見せ続けたという説なのです。
蜀漢の存在意義を示すためには、例えポーズだったとしても北伐を行う必要があったのです。本気で攻略するつもりはないが、蜀漢の存在意義や国内をまとめるために北伐が必要だったとの説となっています。
魏による策略説
■ 魏による策略説
魏による策略説
三国時代の北伐は、魏による策略だとする説もあります。この説は、魏はあえて北伐をしやすいように、蜀漢を誘い込んだとの説になります。蜀漢が保有している土地は、魏にとって攻めにくい土地です。しかも、蜀漢を討伐しようとすると、呉が攻め込んでくる可能性もあります。そのため、魏としては、蜀漢を弱体化させた後に討伐したかったと考えることができるのです。
そのため、あえて魏は蜀漢に隙を見せ、諸葛亮や姜維に北伐をさせ、それを撃退することで弱体化を狙ったとの説となります。実際に諸葛亮は北伐追われ、病に倒れてしまいます。姜維による北伐も、蜀漢を疲弊させることになり、弱体化させることを成功させているのです。ただし、この説はあくまでも結果論ではとの意見もあります。結果から見れば、北伐によって蜀漢を弱体化させることに成功しています。しかし、北伐で魏は何度か大敗も喫しており、魏による策略説は現実的ではないのではとの声も多いのです。
劉備(玄徳)・諸葛亮の意志を継いだから説
■ 劉備(玄徳)・諸葛亮の意志を継いだから説
劉備(玄徳)・諸葛亮の意志を継いだから説
劉備(玄徳)と諸葛亮の意志を継いだからとの説もあります。諸葛亮が北伐を行った理由は、劉備(玄徳)の意志を継いだからであり、姜維が北伐を行った理由は、諸葛亮の意志を継いだからとの説です。諸葛亮は北伐にあたって、「出師表」を劉禅に奏上しています。この「出師表」で諸葛亮は、劉備(玄徳)への恩義を述べているのです。この「出師表」から、劉備(玄徳)の意志を継いだことがよくわかります。そのため、劉備(玄徳)の意志を受け継ぎ、北伐にこだわったとの説なのです。
また、姜維が北伐にこだわった理由は、諸葛亮の意志を受け継いだからとの説があります。姜維は元も魏に仕えていたのですが、諸葛亮の北伐の際に蜀漢に降伏しています。その後、諸葛亮は姜維を評価しており、取り立てたのです。このことから、姜維は諸葛亮への恩義に報いるために、諸葛亮の意志を受け継ぎ、北伐にこだわったとの説があるのです。
結局どの説が有力なの?
■ 結局どの説が有力なの?
結局どの説が有力なの?
今回は、諸葛亮と姜維が北伐を繰り返した理由の様々な説について紹介してきました。正直、どの説が有力なのかは微妙なところがあります。複合的な理由となっており、すべてが少しずつ含まれていると見ることもできるのです。いずれの説も可能性があり、今後も三国志好きの人で議論されることでしょう。
また、逆に諸葛亮や姜維が北伐をしなかったら、蜀漢はどうなっていたのかを考えるのも面白いです。ただ、単なるデモンストレーション説に見るように、蜀漢は魏と争うことで存在意義があります。そう考えると、やはり北伐は避けることはできなかったことでしょう。いずれにしても、歴史のifを考えるのは面白いので、ぜひ三国志のifも考えてみてください。