桃園の誓い の 3人の若者とは
■ 桃園の誓い の 3人の若者とは
桃園の誓い の 3人の若者とは
この3人の若者の出会いのきっかけとなったのは、とある盗賊の軍団を討伐する義勇兵を募集する立て札の前です。
(この盗賊の軍団は黄布の賊と呼ばれ、後漢に反乱を起こしていた軍団です。しかしその内容は略奪など、ただの盗賊軍団でした)
まず、その立札の前で劉備(玄徳)が力のない自分を振り返ります。実はこの劉備(玄徳)は前の王朝、つまり前漢の皇帝のひ孫です。
この時の劉備(玄徳)はこう悩んでいました。
『軍隊となるような人材を集められるお金があれば、きっと黄布の賊を倒す事が出来る。しかし今の自分にはそのお金が無い。』
そこへ声をかけたのが張飛です。そして、立て札の前で自分の力の無さに苦しみつつ立ち去ろうとする劉備(玄徳)に声を掛けます。
『お前は人々のために戦う気はないのか。そのまま立ち去って恥ずかしくないのか。』
憤る張飛に、劉備(玄徳)は『自分にはそれだけの力が無く情けなく思っている』と正直な気持ちを伝えました。
その正直さに共感した張飛は劉備(玄徳)に『俺には多少のたくわえがある、一緒に戦おう』と誘います。
その後、居酒屋で理想について語り合う2人の前に現れたのが関羽でした。
酒場の店主に『俺はこれから黄布の乱と戦いに行く。景気づけに一杯やってゆくぞ』と大声で話す関羽にただならぬものを感じた劉備(玄徳)と張飛は、関羽とも意気投合。それが、この3人の出会いとなります。
劉備(玄徳)・張飛・関羽はそれぞれどんな人物だったのか
■ 劉備(玄徳)・張飛・関羽はそれぞれどんな人物だったのか
劉備(玄徳)・張飛・関羽はそれぞれどんな人物だったのか
劉備(玄徳)はすでに述べたように、前王朝(前漢)の皇帝の末裔です。しかしその時は母と二人でわらじやむしろを作ってつつましく暮らしていました。
(父は子供の頃に死亡しています)今の王朝である後漢の政策を嘆いており、自分に力があれば人々を幸せに出来る国を作ることが出来るのにと歯がゆい思いを抱えていた若者でした。
張飛は代々商人の家系でしたが、非常に武術に優れた若者でした。まっすぐで正義感が強いけれど大酒呑み粗暴、でいささかトラブルメーカーな一面も。しかしこの張飛が劉備(玄徳)を見出さなかったら三国志は始まらなかったのです。(張飛が劉備(玄徳)に声をかけたのは、他の人と違う何かを感じたからだと伝えられています。)
関羽は流れ者。とはいっても決してならず者ではありません。荒れた国を憂い、各地を転々としてはその土地の暴れ者や盗賊を切り捨てて生きてきた者でした。武術に関しては3人の中で最も優れていたと伝えられています。
この3人に共通するのは正義感です。劉備(玄徳)は高貴な血筋ながらそれを鼻にかけるすことも、本当ならば自分が王族だったのになどと嘆くこともありません。ただ純粋に人々の不幸に胸を痛め、民衆が安心して暮らせる国を作りたいと願っています。
張飛・関羽も同様で、武術に叩けていますがそれを使っての立身出世を願うという事は全くありませんでした。
劉備(玄徳)・張飛・関羽の3人はただその強い正義感から人々の幸せのために立ち上がったのです。
三国志がこうも長く語り継がれた理由の1つは、この3人の生き様のカッコよさにあると言って良いでしょう。
ちなみにこの時代、日本は弥生時代でようやく稲作が始まった時期でした。
桃園の誓い とは?
■ 桃園の誓い とは?
桃園の誓い とは?
ところで、この三国志でよく聞く 桃園の誓い とは何でしょうか?
それは、この劉備(玄徳)・張飛・関羽が酒場で意気投合したのち、張飛の自宅裏にある桃園でそれぞれの志を誓い合った事から来ています。
時期的に、ちょうど桃の花が満開だったとか。それが史実かどうかはともかく、この3人はこの桃園で兄弟の誓いを立てます。
『我ら3人、生まれた日も時も違えどもここに兄弟の契りを結ぶ。心同じくして助け合い、困窮する者たちを救う。上は国家に報い、下は民の安らかな暮らしのため労を惜しまん事を誓う。生まれた日も時も違えども、死する日は同じ事をここに願うなり。』
こう言って、劉備(玄徳)を長兄・関羽を次兄・張飛を末弟として義兄弟として生きる事を誓ったとされています。
これが有名な「桃園の誓い」なのです。
短いシーンですが、三国志の中でも最も有名と言っても良いシーンです。満開の桃の花の下、同じ理想を持ち、人々の幸せのため戦う事を誓い合う3人の若者というのは何とも絵になる図ですよね。
「桃園の誓い」は史実なの?
■ 「桃園の誓い」は史実なの?
「桃園の誓い」は史実なの?
実は、この「桃園の誓い」は後にこの3人を主人公に作られた小説の中のフィクションなのです。三国志自体は史実を元に描かれており、劉備(玄徳)、張飛、関羽ももちろん実在の人物です。が、実際に桃園で誓いを立てたという史実は残っていません。もしかしたら実際にあったかもしれませんが、史実にいちいち『桃の花の下で誓いを立てた』とは書きませんよね。でも、全くの作り話ではないのです。正式な史実には『劉備(玄徳)は常に張飛・関羽を実の兄弟のように親しみ、なおかつ誠実であった。張飛・関羽もまた常に劉備(玄徳)備の傍で補佐役に徹していた。』という内容の記述があります。この3人が同じ理想を持って戦った事は史実であり、その史実を基にしたフィクションなのです。
この桃園の誓いは、本場中国の人々にとっても大変に心を打つシーンであるようで、張飛の家があったとされる近くに石碑が立っていたりしています。
この石碑の場所は、劉備と張飛の生まれ育った場所。当時の幽州涿群涿県です。現代でいうと黄海の奥にある入り江近く。ここには「三義広場」という三国志の記念館広場のようなものも建っています。三国志ファンにとっては聖地ですが、北京から1時間ほどという好立地にもかかわらず交通機関が整っていないため、たどり着くのはなかなか大変な場所のようでもあります。
『三国志』の名前の由来
■ 『三国志』の名前の由来
『三国志』の名前の由来
その後、三国志の物語は登場人物をどんどんと増やしてとてつもなく長く続いて行きます。
黄布の乱に関していえば、3人で人を集めます。資金難にも悩みましたが、黄布の乱のお陰で仕事に支障をきたしてい隊商から金銭的援助を受け、乱を起こしていた賊軍を蹴散らして名を上げます。
その名は朝廷にまで届きますが、役人にワイロを渡さなかった劉備(玄徳)は働きの割には低い地位しか与えられません。
それでも誠実に役職をこなす劉備(玄徳)ですが、さらに国を荒らす野心家たちが次々と出てきて戦いが続く…
三国志というタイトルは、この後に後漢が滅び(邪心を持った野心家たちによって滅ぼされます)その国は魏・呉・濁の3つに分裂(三国時代)します。ばらばらになった国ではやはり悪政が行われていました。それを再び新しい国に統一するために戦った事に由来しています。
もちろん劉備(玄徳)・張飛・関羽も活躍しますが、彼らの子孫の代にまで話が続く一大歴史ドラマなのです。