赤壁の戦いって?
■ 赤壁の戦いって?
赤壁の戦いって?
三国志の歴史の中でも天下を分けるタイミングの戦いとなっているのが、日本でもお馴染みである赤壁の戦いです。日本でも有名となっていた映画「レッドクリフ」はこの赤壁の戦いをモチーフにした映画となっています。
赤壁の戦いは現在の長江中流の赤壁という場所で行われた戦いで当時魏を率いていた曹操と呉を率いている孫権、蜀を率いている劉備の連合軍との戦いでした。
当時大きな勢力待っていた魏ですが、華北を統一しさらに領域を広げるべく、南下政策を進めていました。当時の中国をどんどん南下していき、江南を目指していた曹操に対して、当時江南を所有していた孫権が劉備と協力して抵抗しました。
そこで両軍交えることとなったのが赤壁という土地になっています。
三国志 赤壁の戦い わかりやすく
■ 三国志 赤壁の戦い わかりやすく
三国志 赤壁の戦い わかりやすく
三国志の赤壁の戦いは、208年に中国の長江沿いで、曹操軍と孫権・劉備連合軍の間で行われた戦いです。
当時、曹操は中国の北部を統一し、南下して江南を征服しようとしていました。一方、孫権は江南の呉を治め、劉備は蜀を治めていました。曹操は、呉と劉備をそれぞれ倒して、天下を統一しようと考えていました。
赤壁の戦いは、曹操軍が圧倒的に優勢な状況で始まりました。曹操軍は、当時の中国最大の軍隊である80万の大軍を率いていました。一方、孫権・劉備連合軍は、合わせて3万程度の兵力しかありませんでした。
しかし、孫権軍の周瑜は、曹操軍の船を火で焼くという奇策を思いつきました。周瑜は、小船に油を積んで、曹操軍の船に接近させました。そして、小船に火をつけると、曹操軍の船に飛び移り、火を放ちました。
曹操軍の船は、瞬く間に炎上し始めました。曹操軍は、火を消そうとしましたが、うまくいきませんでした。そして、曹操軍は、多くの兵士を失いながら、撤退を余儀なくされました。
赤壁の戦いは、曹操軍の敗北で終わりました。この戦いによって、天下三分の形勢がほぼ固まり、三国時代が始まることになりました。
赤壁の戦いの発端は?
■ 赤壁の戦いの発端は?
赤壁の戦いの発端は?
ではそんな赤壁の戦いですが何が発端で起こったのでしょうか。赤壁の戦いはもともと魏が勢いのまま、魏が中国大陸を占領しようとしたことが始まりとなっています。それ以外にも呉に所属していた二喬姉妹を曹操が狙っており、その2人を奪い取るためとも言われています。
そんな三国志の歴史の中でも重要な戦いである赤壁の戦いを戦況ごとに説明していきたいと思います。
まず、南下してくる曹操仕切る魏をなんとしてでも止めなければいけなかった呉の孫権ですが、もともとは蜀と協力するという考えはありませんでした。
そもそもこの協力するための同盟を結ぶと言う考えに至ったのは蜀の有名な軍師がある諸葛亮です。
諸葛亮は蜀のために尽力するのはもちろんのことですが、諸葛亮個人として「天下三分の計」と言う魏、呉、蜀の三国が県立する三国時代という社会を構想していました。
これを実現させるためにも蜀が力をつけて魏や呉と同等に立ち会える国になることを望んでいました。それを実現させるためにもこの戦いは重要であったと言われています。
蜀・呉同盟軍の作戦とは!
■ 蜀・呉同盟軍の作戦とは!
蜀・呉同盟軍の作戦とは!
赤壁は長江にあるため、水軍戦での勝負が鍵となっていました。まず、事前の情報として曹操は中国北方領土としているため水軍戦はあまり得意ではありませんでした。
対する呉の軍師である周瑜率いる呉軍は水軍戦にとても慣れていました。曹操はとにかく兵力にたけており、多くの軍勢で攻め寄って行きます。そして船同士をつなぎ合わせて水上に城塞を作り上げます。
この大群に対して呉軍はまともに戦っても長引いてしまい、勝機がどんどんなくなっていくと言う推測から短期決戦を仕掛けます。この時、呉の武将である黄蓋が火攻めの計を提案します。
これは黄蓋が寝返るふりをして敵の船に忍び込み火を放つという策でした。これには黄蓋の幸福と火の勢いを広げる必要がありました。蜀と呉の連合軍はこの策を中心に魏を追い詰めていきます。
まず黄蓋が寝返りをする理由を作らなければいけません。そのため、わざと味方に罰を与えられたと言う証拠を作るため背中に傷を負います。ボロボロになった黄蓋は曹操に信用されて、黄蓋の降伏は問題なく進んでいきました。
さらに曹操も火攻めという策を理解しており、警戒はしていたようですが、当時風向きが魏軍にそこまでダメージを与える向きではなかったため、問題ないと判断していました。しかし、曹操が恐れていた風向きが魏軍にとって不都合な風向きに変わってしまいます。
これに気づいた黄蓋はすぐさま準備していた火を船に放ち、火攻めを実行します。黄蓋が連れてきていた船には油や枯れ草などがたくさん積んでおり、火を放つだけでつなぎ合わせされていた曹操の船に燃え移って行きました。
この時につけられた火は陸上の魏軍にまで燃え移って行き、曹操の本陣は総崩れとなってしまいました。慌てた様子の曹操を見て周瑜は自分の軍を送り、曹操は大敗を喫しました。
実は魏軍は大変だった?
■ 実は魏軍は大変だった?
実は魏軍は大変だった?
曹操が敗戦した理由はもちろん呉軍の水上での戦いが上手かったということも言えるかと思いますが、それ以外にも自分たちの環境があまり良くなかったということを敗戦の理由として挙げられます。
環境と言うのは、この当時曹操率いる魏軍の周辺では疫病が発生していたと言われています。赤壁の戦い以前にも様々な土地を攻めながら南下してきた曹操軍ですが、すべての兵士は北から連れてきた兵士であり、南の土地に慣れていませんでした。
さらに慣れない船旅や戦場での戦いによって軍の中で疫病が蔓延していました。約200,000いた曹操軍の兵士でしたが、疫病のおかげで実際に戦うことができた兵士はそれ以下だったと言われています。
赤壁の戦いの後が面白い!
■ 赤壁の戦いの後が面白い!
赤壁の戦いの後が面白い!
それでは赤壁の戦いは蜀と呉の同盟軍の勝利で終わりましたが、赤壁の戦い以降その情勢はどう変わっていったのでしょうか。
赤壁の戦いでこれまでにない敗北を喫した曹操率いる魏軍はおとなしく北へと戻って行きました。しかし、孫権に後を追われて魏が侵略されないように曹仁と張遼に南方の守備を任せ、呉からの攻撃を防がせました。
赤壁の戦いで多くの兵士を失った曹操は再び南下政策を進めるためにも、多くの人材を集めるようにしました。天下統一に最も近かった曹操ですが、ここでの敗戦は予想していなかったようです。
より北の勢いを増すために一度遠征などには出掛けないで、元ある土地を栄えさせることに尽力します。
それでは蜀と呉の同盟軍はどうなったのでしょうか。おそらく劉備と孫権は赤壁の戦いで負けていれば命がなかったことでしょう。手を取り合って1つのことを成し遂げた2人の関係は良くなっていくと誰もが思っていたことでしょう。
しかし、2人の関係は赤壁の戦いを期に悪化していきます。劉備が諸葛孔明の天下三分の計を信じ実行しようとしたことが引き金となり、当時の荊州の土地の南部を占領します。
しかし、これは呉を怒らせる行為となってしまい、呉と蜀の関係は悪化していきます。後に呉と蜀が激突する原因となる戦いの引き金になった行動とも言えるでしょう。
まとめ
■ まとめ
まとめ
赤壁の戦いは三国志を詳しく知らない人でも名前くらいは聞いたことがあるという人もいるのではないでしょうか。それほど有名であり、ドラマがあった戦いとなっています。
三国志をこれから勉強するという人にとっても戦況や人物関係はわかり易いため、三国志初心者にオススメの戦いとも言えるでしょう。