諸葛亮(孔明)の甥 呉の秀才諸葛恪(元遜)とは

諸葛亮(孔明)の甥 呉の秀才諸葛恪(元遜)とは

諸葛亮(孔明)の甥にして諸葛瑾(子喩)の長男である諸葛恪(元遜)は、呉の第3世代をけん引する秀才でした。
本記事では、諸葛恪(元遜)の人物伝とその後を紹介します。


諸葛恪(元遜)の人物伝

諸葛恪(元遜)の人物伝

諸葛恪(元遜)の人物伝

諸葛恪(元遜)は西暦203~253年を生きた呉の秀才です。出身地は瑯邪郡陽都県で、蜀の名宰相と謳われた諸葛亮(孔明)、父親の諸葛瑾(子喩)と同じ出身です。父は呉の大将軍諸葛瑾(子喩)。叔父は蜀の丞相を務めた諸葛亮(孔明)という名門諸葛家の嫡流です。
若い頃よりめきめきと才能を現し、呉の家臣団はみな諸葛恪(元遜)の将来に期待をしていたと言われています。ところが性格に欠点があり、しばしば諸葛亮(孔明)が兄の諸葛瑾(子喩)に注意を促す書面を送るほどでした。西暦234年に丹陽太守に任命され、蛮族の討伐に取り掛かります。そしてわずか3年でこれを呉に帰順させ、4万の兵士を抱えました。その功績により孫権(仲謀)から威北将軍に任命されます。
孫権(仲謀)が病の床に伏した後、幼帝の孫亮を補佐するべく大将軍と太傅を兼任しました。孫権(仲謀)亡きあとは関税の緩和するなどして友好的な経済政策を実施し、呉の国力回復に尽力しましたが、魏の討伐に失敗したことを理由に孫峻に暗殺され、51年の生涯に幕を下ろします。

幼い頃より秀才の片鱗を見せる 諸葛瑾(子喩)の長男

幼い頃より秀才の片鱗を見せる 諸葛瑾(子喩)の長男

幼い頃より秀才の片鱗を見せる 諸葛瑾(子喩)の長男

諸葛恪(元遜)は諸葛瑾(子喩)の長男としてこの世に生を受けます。幼いときより才能豊かで優秀な人物でした。呉の家臣たちが一堂に集まる場で、父親の諸葛瑾(子喩)に孫権(仲謀)がからかって「諸葛瑾」と書かれた名札を首からぶら下げたロバをプレゼントしました。諸葛瑾(子喩)はロバ面なことで有名な人物でした。父親がみんなの前でバカにされたとき、諸葛恪(元遜)は父の体面を保つために孫権(仲謀)の前に進み出て「我が君、諸葛瑾が愚息諸葛恪がお願いがあって手前に参りました。」と仰々しく挨拶をしました。孫権(仲謀)は「そうか、お前の願いは何だ?」と質問すると諸葛恪(元遜)はロバを指さして「あの名札に5文字を書き足すことをお許しください。」と言ってその場に平伏しました。
「よし、よいだろう。」と言って名札に5文字を書き足すことを孫権(仲謀)が許して筆の準備を整えさせると、諸葛恪(元遜)は筆を持ってさささっとロバの名札に字を書き足しました。諸葛恪(元遜)が書き足した5文字は「子喩之驢馬」です。名札に書かれた文字は「諸葛瑾子喩之驢馬」となりました。
そして諸葛恪(元遜)は何事もなかったかのように驢馬の手綱を引いて諸葛瑾(子喩)の前に驢馬を連れてくると、「父上、我が君より諸葛瑾子喩之驢馬を賜りました。どうかお納めください」と片膝をついて父親に拝礼しました。
それを見ていた呉の家臣や孫権(仲謀)は、「さすがは諸葛瑾殿が息子。父親の名に恥じぬ見事な振る舞い、天晴れだ。」と感心しました。それ以来孫権(仲謀)は諸葛恪(元遜)の才覚を痛く気に入り軍事面で重用するようになりました。

孫権(仲謀)死後の活躍

孫権(仲謀)死後の活躍

孫権(仲謀)死後の活躍

孫権(仲謀)が大往生した後、幼帝の孫亮が呉の2代皇帝に即位しました。諸葛恪(元遜)は孫権(仲謀)の死の間際枕元に召喚されて孫亮の補佐役を命ぜられました。
諸葛恪(元遜)は新皇帝の即位と同時に政治の中核を担う大将軍と太傅を兼任するように命ぜられ、孫弘と孫峻を束ねて後事にあたるべしと孫権(仲謀)から遺命を賜っていました。
しかし、孫弘はかつて呉の皇帝の跡目争いの際に孫覇を支持し、孫和派の諸葛恪(元遜)とは険悪な仲にありました。孫弘は孫権(仲謀)の死を隠蔽し、諸葛恪(元遜)を退けて呉の実権を我が物にせんとして計画を企てます。しかし、この計画は諸葛恪(元遜)の知るところとなり、孫弘は謀反を実行する前に逆に諸葛恪(元遜)の手によって誅殺されてしまいます。先ほど孫弘は誅殺されたと書きましたが、これは諸葛恪(元遜)がこの後、呉の実権は諸葛恪(元遜)が握ったことから、それを考慮すると孫弘の罪は濡れ衣(諸葛恪の行動が正当化された)だった可能性があります。

父親からは危惧されていた

父親からは危惧されていた

父親からは危惧されていた

諸葛恪(元遜)の父親である諸葛瑾(子喩)は、生前「諸葛恪(元遜)は諸葛家を滅ぼすであろう」と危惧していました。その諸葛瑾(子喩)の予言は、諸葛恪(元遜)が呉の政治権力を手にしたときに実現していしまいました。
諸葛恪(元遜)の明暗をわけたのは、西暦252年の魏の侵攻から呉の防衛に成功してからでした。魏の湖順(こじゅん)、諸葛誕の軍を見事退けた諸葛恪(元遜)は、自身に用兵の才覚が備わっていることを過信します。
すっかり有頂天になってしまった諸葛恪(元遜)は、周りからの忠告を無視して魏を討伐軍を挙兵して合肥に進軍します。合肥新城を取り囲んだものの、これを攻略できないばかりか、引き際を見極められないまま消耗戦へと突入し、無駄に自軍の兵の大半を犠牲とします。
人望は失墜しましたが、一方で内政面ではまず関税を撤廃し、経済活動を活発化させるなど、国力増強のための施策を次々と打ち出したため、民の心は諸葛恪(元遜)から離れることはありませんでした。
しかし、専制的な政治と自らの手柄に酔いしれて呉の君主に対する驕りをみせるようになっていったため、この軍事面での失敗は失脚を望む者どもの恰好の口実になってしまいました。
敗戦の帰路についた諸葛恪(元遜)を待ち構えていたのは、孫峻による罠でした。大義名分を掲げて実権の掌握に身を乗り出した孫峻は、体調悪化を押して宴席に参加した諸葛恪(元遜)を斬殺し、政権を乗っ取ってしまいました。
諸葛瑾の予言のとおり、諸葛一族は諸葛恪(元遜)の失敗によって滅亡してしまいました。

まとめ

まとめ

まとめ

諸葛亮(孔明)の甥にして諸葛瑾(子喩)の長男だった諸葛恪(元遜)は諸葛家の名に恥じぬ傑出した才覚と頭脳の持主でした。それは戦争時の用兵や内政面での優れた経済政策の実績を見てもお分かりいただけると思います。ところが、諸葛恪(元遜)は呉の重鎮にあった父親と蜀の名宰相と聞こえた叔父などの血縁関係と自信の能力を過信していたからなのか、上司や部下からは扱いづらい人、つまり人の調和を乱す者として判断され、非業の死を遂げました。もう少し自分の能力を過信せず、同僚や上司を軽んじていなければ諸葛亮(孔明)や諸葛瑾(子喩)が危惧していたようなことも的中することはなかったでしょう。





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