由緒正しい場所や建物にはなにかしらの有名な故人にまつわる由来や伝説がつきものです。中国のとある場所では、ある三国志の英雄にちなんだ地名や名所があります。三国志の舞台めぐりをする前にぜひこの記事で予習してみましょう。
三国志の時代には魏・呉・蜀が競い合っていましたが、蜀が最初に滅んでいます。皇帝だった劉禅はその後いったいどうなったのでしょうか。今回は劉禅についてご紹介いたします。
蜀を建国した劉備(玄徳)は仁徳の士として有名ですが、だれからも好かれていたわけではなく、配下になって初めて心を開きかけた人物もいます。それは政治家でもある劉巴(子初)です。張飛(益徳)をあしらい、諸葛亮(公明)ですら一目を置いた政治力はどのようなものだったのでしょうか。
三国志演義では、「南中」と呼ばれる地域が登場します。蜀の南方での争乱を防ぐため、諸葛亮が向かった場所です。また、「七縦七擒」の語源や饅頭の由来となった場所でもあります。孟獲ら南蛮の中心人物や戦い・文化もご紹介します。
三国志・蜀の北伐、魏延が子午谷道を進んでいたら長安は奪えていたのか
五虎大将軍が減っていく中で、その武勇を期待された蜀の猛将・魏延。彼はあの天才軍師・諸葛亮にある作戦を提案しています。今回はその北伐にスポットを当てて魏延をご紹介します。
三国志でも後半の山場である蜀の北伐。率いるのは天才軍師・諸葛亮孔明です。用意周到に北伐の準備を進め、戦略的にも優れていましたが、諸葛亮は撤退することになります。今回はその原因となった「街亭の戦い」をご紹介いたします。
前回までは、諸葛3兄弟が散り散りになり、諸葛瑾が呉へ諸葛亮と諸葛均は荊州へ流れたところまでを書きました。さて、後半はいかに…!?
漢の劉氏や魏の曹氏、夏候氏、蜀に仕えた馬氏の五常など、通常はどこの国でも親兄弟、親戚は同じ君主に仕えています。ところが、諸葛亮孔明の兄弟、親戚はみな優れた功臣ですが、兄は呉に、はとこは魏に仕えています。血の結束は固いと言いますが、兄弟、親戚同士で争うことになってしまった諸葛家の悲劇の一部始終をお伝えします。
三国志には有能なのに、なかなか世間的に評価されない武将が存在しています。時代背景もあって、裏切りや主君の出来によってはあまり活躍しても、関羽や張遼のような評価はされにくいことが結構あります。ここでは有能なのに評価されない代表的な武将「魏延」をご紹介していきます。
日本における一般的な三国志のイメージといえば、小説の三国志演義がメインとなっており、大柄な武将たちの豪快な一騎討ちや智将たちの頭脳戦が描かれています。しかしながら、それら主役級の登場人物の補佐を務める武将たちも実は正史では結構な活躍をしています。
魏・呉・蜀がそれぞれ滅亡してから約1000年後。「三国志」の娯楽化が進むことで、まさかの三国志を題材にした漫談や喜劇が生まれました。本記事では、三国志をテーマにしたお笑いネタをご紹介します。
三国志のお話は蜀が魏に滅ぼされたところで終わります。その際、最後に戦っていたのが姜維です。諸葛亮の跡を継いで北伐を敢行したものの、思うような結果が得られず、更には国力の衰退を招いた…とも言われている彼ですが、一体何を求めていたのでしょうか?
諸葛亮って実際どれくらいすごいの? 演義と正史に見る諸葛亮像
三国志においてもっとも有名な人物と言えば、やはり諸葛亮でしょう。主に三国志演義における第二の主人公として、ネット上でネタにされることも多い天才軍師ですが、正史と演義ではそのイメージが随分違っていることをご存知でしたか?今回は、そんな諸葛亮についてご紹介します。
日本でも多くのファンがおり、とても人気な三国志。三国志人気の聖地(遺跡)をご紹介します。
劉備(玄徳)に三顧の礼で迎えられた天才軍師・諸葛亮孔明。劉備(玄徳)に迎えられてからは名軍師として数えきれない活躍を見せます。そして最後は北伐でその生涯を閉じるのですが、そもそもなぜ北伐を繰り返していたのでしょうか。推測も交えつつ、北伐にこだわった理由に迫ってみるとしましょう!
三国志を彩る個性豊かな知将7選をご紹介!
三国志のストーリーで重要な役割を果たす「天下三分の計」。多くは諸葛孔明が劉備(玄徳)に献策したものと理解しているが、史実を紐解いてみると面白い事実が分かる。天下を曹操・孫権・劉備(玄徳)の三勢力に分けるという「天下三分」の構想は、意外な人物にオリジナルがあったのだ。
三国志最高の軍師と言われる諸葛亮孔明。彼の死因はなんと過労死!?いったいどれだけ働いていたのか、なぜそこまでしたのかを彼の人生と共に見ていきます。正史と演義での彼の役割の微妙な違いにも注目です。