ピリリとパンチの効いた知将たちがバトンをつないでいく呉
■ ピリリとパンチの効いた知将たちがバトンをつないでいく呉
ピリリとパンチの効いた知将たちがバトンをつないでいく呉
三国志のシミュレーションゲームなどをプレイしたことがある人なら、陣営に加わってほしい軍師として真っ先に蜀の諸葛亮(孔明)、魏の司馬懿(仲達)の名前を挙げるでしょう。彼らは説明するまでもなく、文字どおりそれぞれの国の大黒柱として、軍事作戦を一手に担う巨星でした。
それに比べ、呉の孫氏陣営には彼らのような知将のビッグネームは見当たりません。「いやいや、そんなことはないだろう」という声も聞こえてきそうですが、実際のところ不思議と呉の才気走った知将は夭折してしまい、大功を立てる前に歴史の舞台から姿を消してしまうのです。ただ、面白いことに才能のある若い軍師候補が、まるでバトンをつなぐかのように孫権(仲謀)を支え続けていきます。ここでは、そんな呉の若き知将たちをリレー形式で紹介していきましょう。
周瑜(公瑾):芸術性にも優れた欠点なしのイケメン「美周郎」
■ 周瑜(公瑾):芸術性にも優れた欠点なしのイケメン「美周郎」
周瑜(公瑾):芸術性にも優れた欠点なしのイケメン「美周郎」
三国志マニアならずとも、一度は耳にしたことがあるだろう呉の大都督・周瑜(公瑾)。容姿端麗、頭脳明晰で武芸にも優れた“スーパー武将”です。しかも、とても寛大な性格で人の心をつかむことに長けていたというから、現在で言うところの「コミュ力の高いリア充イケメン」といったところでしょうか(笑)。付いたニックネームが「美周郎」ですから、あながち大げさではなかったようです。
しかも芸術性も高く、特に音楽に精通しており、周瑜(公瑾)が酒席で演奏を聴いていたとき、そこそこ酔っていたにもかかわらず演奏者のわずかな間違いも見逃さずに指摘したそうです。そのため、人々は「演奏をミスすると周郎が振り向くから気をつけろ」とまで言われていました。
そんな周瑜(公瑾)ですが、なんと生まれまで名家というからウィークポイントはないのかという感じです。高祖父の周栄(字は不明)は尚書令、従祖父の周景(字は不明)と従父の周忠(字は不明)は三公のひとつである大尉を務め、父の周異(字は不明)も洛陽の県令を務めた文字どおりのエリートファミリー出身です。孫氏に仕えるようになったのは、孫堅(文台)が反董卓連合軍に参加したとき、その息子・孫策(伯符)の名声を聞いて親交を結んだことに端を発します。もともと孫氏は兵法家として有名な孫武(字は不明)の子孫ということで、こちらも名家だったのでシンパシーがあったのかもしれません。
周瑜(公瑾)と孫策(伯符)のエピソードとして有名なのは、美人姉妹として有名な大喬小喬を攫って嫁にした話ですが、ここでは割愛します。孫策(伯符)が匹夫の矢によって他界したあとも、後を継いだ弟の孫堅(仲謀)を支え、若き君主の名参謀となったのです。
周瑜(公瑾):その死を諸葛亮(孔明)も泣いて惜しんだ英才
■ 周瑜(公瑾):その死を諸葛亮(孔明)も泣いて惜しんだ英才
周瑜(公瑾):その死を諸葛亮(孔明)も泣いて惜しんだ英才
周瑜(公瑾)といえば、やはり一番に思い浮かべるのは赤壁の戦いでの見事な采配ぶりでしょう。劉表(景升)の残した荊州の水軍を手に入れた曹操(孟徳)は、その足で数万の兵を擁して呉の孫権(仲謀)に降伏を迫りました。呉の重臣たちはこぞって戦っても勝てないことを説き、孫権(仲謀)に降伏を勧めました。そこに鄱陽への使者として留守にしていた周瑜(公瑾)が戻り、孫権(仲謀)に曹操(孟徳)との開戦を勧めたのです。迷っていた孫権(仲謀)はこれで心が決まり、床机を一刀両断にして「これ以降、曹操(孟徳)への降伏を口にしたものはこのとおりだ」といって赤壁の戦いが始まったのです。
赤壁の戦いの顛末については、黄蓋(黄柄)との「苦肉の策」など、当サイトでも詳しく紹介していますので割愛します。大都督・周瑜(公瑾)の采配によって、曹操(孟徳)軍を大敗へと追い込みます。しかし、戦後に江陵の曹仁(子孝)を攻めた際、右の脇腹に流れ矢を受け、この傷がもとで病気を発症し、36歳の若さでこの世を去るのです。
周瑜(公瑾)は病床で死期を悟り、主である孫権(仲謀)に遺書を送ります。その中には次のような文言がありました。
「魯粛(子敬)は忠烈にして、事に臨みてかりそめにせず、以て瑜に代わるべし」
つまり、自分の後任として魯粛(子敬)を推挙したのです。なお、周瑜(公瑾)の葬儀に出席した諸葛亮(孔明)が発した弔辞はあまりにも有名で、三国志フリークなら涙を流さないものはいないといわれる名文です。「ああ、公瑾よ、不幸にして夭亡す」から始まるこの弔辞は、一度は目にしたことがあるかもしれません。内容としては、周瑜(公瑾)の才能を認め、最高の好敵手を失った悲しみを語っているのですが、稀代の天才軍師からも一目置かれていた周瑜(公瑾)も、やはり天才だったのでしょう。
魯粛(子敬):親劉備派のお人好しといわれた慎重な頭脳派
■ 魯粛(子敬):親劉備派のお人好しといわれた慎重な頭脳派
魯粛(子敬):親劉備派のお人好しといわれた慎重な頭脳派
さて、周瑜(公瑾)の死後、奮武校尉に任命されて軍の最高司令となります。三国志演義では親劉備派として描かれており、赤壁の戦いでも孫権(仲謀)に劉備(玄徳)と結んで曹操(孟徳)に対抗すべしという主戦論者でした。
魯粛(子敬)は、非常に慎重な性格だったとされており、しかも品行方正でマジメ。あまり欲がなく、質素な生活を送っていたそうです。また、軍の規律も表裏なく等しく誤りなく行い、遠征の際には書物を手放さずに深い思慮を持つ人物だったということです。
赤壁の戦い直後、劉備(玄徳)が荊州南部の武陵、長沙、桂陽、零陵の4軍を攻める際、荊州の貸し出しを依頼してきました。周瑜(公瑾)は反対しましたが、魯粛(子敬)は曹操(孟徳)を牽制するために劉備(玄徳)に力を与えておくほうが得策として孫権(仲謀)に進言し、これを採用したという話は有名ですね。
このように何かと劉備(玄徳)に肩入れし、そのたびに諸葛亮(孔明)に出し抜かれるという「お人好し」なイメージがつきまといますが、魯粛(子敬)は非常に思慮深く、しかも戦局を読むのが上手だった人物のようです。赤壁の戦い後の呉が取るべき戦略も、周瑜(公瑾)という傑物がいれば強硬策も可能だが、亡き今となっては劉備(玄徳)と友好関係を保ちつつ、曹操(孟徳)に対抗することが良策という見識があったのです。
そんな思慮深く、その判断力に定評のあった魯粛(子敬)が唯一見誤っていたのが、部下である呂蒙(子明)の評価でした。かつて魯粛(子敬)は彼を武力オンリーの人物として侮っていましたが、陸口で軍を敷いていた呂蒙(子明)を訪れた際、すっかり知力も備えた名将に成長していたため「呉下の阿蒙にあらず」という名言を残し、評価を一変させたというエピソードがあります。
呂蒙(子明):関羽(雲長)を死へと追いやった計略家
■ 呂蒙(子明):関羽(雲長)を死へと追いやった計略家
呂蒙(子明):関羽(雲長)を死へと追いやった計略家
魯粛(子敬)が46歳の若さでこの世を去ると、後任として選ばれたのが呂蒙(子明)でした。武力が高く、武将としての名は知れ渡っており、数々の武功を立ててきましたが、知略はからっきしでした。そんな呂蒙(子明)を見て、孫権(仲謀)は優れた武将は知力も高いから勉学に励むよう諭しました。そこから勉学に勤しみ、儒学者にも劣らない知力を身に着けたそうです。そんな姿を見て、魯粛(子敬)も「呉下の阿蒙にあらず」と言ったのですが、これに対し呂蒙(子明)は「志別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」(武士は三日会わなければ鍛錬して別人になっている。心して良く見なさい)と答えて、ギャフンと言わされたエピソードは有名ですよね。
さて、その呂蒙(子明)ですが、おもに孫権(孟徳)のそばにいて曹操(孟徳)攻略のための側近として支えていましたが、魯粛(子敬)の死後は対劉備(玄徳)の外交窓口として、荊州に駐屯する関羽(雲長)との交渉役となっていました。しかし、親劉備派の魯粛(子敬)とは異なり、呂蒙(子明)は表面上、関羽(雲長)に敬意を表しつつ、荊州奪還のチャンスを窺っていたのです。
関羽(雲長)は呂蒙(子明)も親劉備派で、曹仁(子孝)の樊城を攻めた隙きに背後を突くことはないだろうと高をくくっていました。とはいえ、名将のほまれ高い呂蒙(子明)が背後にいることで、備えは万全にして樊城攻めを行っていたのです。そこで呂蒙(子明)は病気を理由に前線を退くと油断させ、後任にまだ名前の知られていない陸遜(伯言)を挨拶に行かせます。これによってすっかり油断した関羽(雲長)は備えを手薄にしてしまい、そこを急襲して、関羽(雲長)らを捕らえることに成功したのです。つまり呂蒙(子明)の策略によって、関羽(雲長)と養子の関平(字は不明)は首を刎ねられてしまうのです。
陸遜(伯言):復讐に燃えた劉備(玄徳)軍をさんざん討ち果たした
■ 陸遜(伯言):復讐に燃えた劉備(玄徳)軍をさんざん討ち果たした
陸遜(伯言):復讐に燃えた劉備(玄徳)軍をさんざん討ち果たした
呂蒙(子明)は関羽(雲長)を病気を理由に騙し討ちをしたのですが、これは実際に呂蒙(子明)が病気がちだったということもあったために、話に信憑性があったわけです。そして、嘘から出た真ではありませんが、呂蒙(子明)は本当に病気で死んでしまうのです。享年42歳という若さ。呉の知将は、なぜか若くしてこの世を去りがちですね。これには、関羽(雲長)の呪いだと言われたりもしましたが、真偽の程は不明です。そして、呂蒙(子明)の代わりとして呉の中心となったのが、若き陸遜(伯言)でした。
一方、関羽(雲長)を殺された劉備(玄徳)は血を吐くほどの怒りで復讐に燃えます。諸葛亮(孔明)の諫言にも耳を貸さず、数十万の兵を率いて自ら孫権(仲謀)攻めに赴きます。これを防ぐために孫権(仲謀)は総大将にあたる大都督に陸遜(伯言)を任命します。そして、縦に伸びた陣形を敷いた劉備軍を火計によって壊滅させ、白帝城へと敗走させました。これを夷陵の戦いといいます。この敗戦をきっかけに、劉備(玄徳)は気力も体力もすっかりと萎えてしまい、やがてこの世を去ることになりました。
まとめ
■ まとめ
まとめ
このように、呉の孫権(仲謀)は忠臣の知将たちによってに支えられ、最後は帝位にまで上り詰めます。しかし盛者必衰ということもあり、孫家は後継争いが起こり、この政変に巻き込まれる形で陸遜(伯言)は憤死するといったことになっていきます。さらに、その後の呉は暴君・孫晧(元宗)の出現によって滅亡の途をたどるのです。