諸葛亮(孔明)を育んだ襄陽は英傑ぞろいの地だった

諸葛亮(孔明)を育んだ襄陽は英傑ぞろいの地だった

三国志きっての天才・蜀の軍師である諸葛亮(孔明)を育んだのは襄陽の隆中でした。そこは英傑がこぞって在野で知を競い合う土地だったのです。どんな人物たちが切磋琢磨していたのでしょうか。


① 雌伏の時を送っていた諸葛亮(孔明)の大いなる野心

群雄が割拠していた三国時代。民衆は安息の地を求めて中国大陸を右往左往していました。そんな物騒な時代、1国だけ風が止まったかのように静かで平和な国がありました。それが劉表(景升)が治める荊州でした。州都の襄陽は多くの民であふれ、ひと時の春を楽しんでいたのです。

襄陽から10kmほど離れた隆中という場所に、若き日の諸葛亮(孔明)は居を構えていました。生まれは徐州琅邪郡という土地で曹操(孟徳)管轄下となっており、彼の引き起こす戦火から逃れて、一家離散して弟の諸葛均(字は不明)とともに隆中へ移り住んでいたのです。隆中での生活は、まさに晴耕雨読。自給自足をしながら、歌などを歌って呑気に暮らしていたのですが、実際のところはそうではなかったようです。ここに諸葛亮(孔明)の歌を紹介しましょう。

蒼天は円蓋の如し 陸地、棋局に似たり
世人黒白の分ありて 往来して栄辱を争う
栄うるものは自ずから安々 辱めらるるものは定めて碌々
南陽に隠君あり 高眠臥して飽かず

簡単にいえば「群雄割拠の世は囲碁の盤のようなもので、人々は白黒の決着をつけたくて争っているようなものだ。栄えたほうは安心でき、辱めを受けたほうは不快な思いをしている。南陽(襄陽のこと)に隠れた英才はいるが、惰眠をむさぼり世に出る気はない」という内容なのです。この南陽に隠れた英才が諸葛亮(孔明)自身のことを指しているのは間違いないようで、襄陽の司馬徽(徳操)門下の学生仲間には自分のことを管仲・楽毅になぞらえていたそうです。つまり、その時期と仕えるべき君主が現れるのを待っていたのです。

②「水鏡先生」と呼ばれた司馬徽(徳操)という人物

そもそも司馬徽(徳操)に学ぶ若者たちは、何を目的としていたのでしょうか。もちろん、来るべき時に君主の求めに応じて士官することが目的だったのです。ところが荊州の主である劉表(景升)は暗愚で優柔不断、しかも疑り深いというとても人の上に立つような人物ではありませんでした。ただ、これに関しては若いころは意気軒昂な好人物だったという説もあり、年とともに人柄が変わっていったという説もあります。ちなみに劉表(景升)配下の人間が司馬徽(徳操)を登用するように進言したが、「たかが一介の書生じゃないか」と一蹴されたというエピソードがあります。もちろん司馬徽(徳操)も劉表(景升)のことはあまり評価していなかったので、配下に入ることはあり得なかったわけです。

③ 司馬徽(徳操)門下の英才・崔州平とは?

さて、そんな司馬徽(徳操)の元で学んでいたのは諸葛亮(孔明)はじめ、徐庶(元直)、龐統(士元)、向朗(巨達)といった、のちに劉備(玄徳)配下で活躍する知将ぞろいだったわけですが(徐庶はのちに騙されて曹操(孟徳)配下に入りますが)、世に出なかった英才も粒ぞろいだったようです。代表的なのが崔州平(字?は不明)という人物です。諸葛亮(孔明)が自らを管仲・楽毅になぞらえていたときも、他の書生たちは大言壮語だと笑いましたが、この崔州平と徐庶(元直)はその才能を認めていたということです。

ちなみに、当時の中国では苗字と名前は1文字ずつがほとんどで、「諸葛」という苗字は極めて珍しかったそうです。もともとは諸々の「葛氏」ということで諸葛となったらしいですが、正確なところはわかっていません。そして、崔州平というのは中国名では異例というわけではなく、おそらく崔◯で字が州平だったと思われます。ただ、どんな文献を紐解いても崔州平の本名は記述されていません。そしてこの崔州平、実は諸葛亮(孔明)の賢妻を紹介した人物としても知られています。諸葛亮(孔明)の妻は黄承彦(字は不明)の娘である綬で、のちに木牛流馬の開発を助けた内助の功で有名ですね。

④ あの有名な「孟公威」と「石公元」も司馬徽(徳操)門下だった!

さらに司馬徽(徳操)門下には孟建(公威)と石韜(公元)もいました。このふたりは三国志好きな方なら知らない人はいないほど有名です。そう。劉備(玄徳)が三顧の礼のために諸葛亮(孔明)を訪ねた際、道中の飲み屋で前述の諸葛亮(孔明)が作ったとされる歌を歌っていた人たちです。それを聞いて劉備(玄徳)がふたりのどちらかが諸葛亮(孔明)だと勘違いするうっかりエピソードなんですが、そのあと彼らも配下に誘うという節操のなさがあります。もちろん「いえいえ、我々なんてとても……」と断られるわけですが(笑)。

のちに孟建(公威)は魏に士官し、涼州刺史にまで出世します。諸葛亮(孔明)が北伐で魏に出兵した際、敵の軍師・司馬懿(仲達)からの書状に対する返事を持ち帰る役目だった杜襲(子緒)に諸葛亮(孔明)が「公威によろしく伝えてほしい」と頼んだというエピソードがあります。また、石韜(公元)は徐庶(元直)と同郷の幼馴染で、一緒に戦火を逃れて荊州へ移り住んだ人物です。曹操(孟徳)を著しく嫌っていた人物でしたが、曹丕(子桓)の代に代わってから魏に士官し、典農校尉という役職に就いたと言われています。なお、この石韜(公元)は諸葛亮(孔明)から「君ならどこかの国に士官すれば太守くらいにはなれるだろう」と言われた人物です。これをディスられたと思った石韜(公元)は「じゃあ、君はどうなんだ?」と問い返すと、諸葛亮(孔明)は笑いながら首を振って答えなかったというエピソードがあります。

⑤ 臥龍か鳳雛、どちらかを手に入れれば天下は思いのまま

司馬徽(徳操)門下には、さらに英傑が学んでいました。それが龐統(士元)です。司馬徽(徳操)をして「臥龍か鳳雛、そのどちらかを手に入れれば天下は思いのままになる」とまで言わしめた人物です。臥龍とは伏せている龍のことで諸葛亮(孔明)を指し、鳳雛とは鳳のヒナで龐統(士元)のことを指します。英才ぞろいだった司馬徽(徳操)門下でも、諸葛亮(孔明)と龐統(士元)の才能はずば抜けており、しかも天下人(君主)を知略で支える「王佐の才」があると見られていたのです。なお、龐統(士元)の詳細な人となりは、いずれまたこのコラムで別の機会にご紹介します。

このように荊州の司馬徽(徳操)門下には、かくも英才が綺羅星のようにそろっていたにもかかわらず、誰ひとり登用できなかった劉表(景升)はいかにうかつな人物だったかというのは想像に難くありません。まあ、それを言ってしまえば臥龍と鳳雛を配下に加えたのに、三国の中でもっとも弱く、魏に併呑されてしまった蜀の君主・劉備(玄徳)もたいがいではあるのですが……。

劉表(景升)が治めていた荊州は、北の曹操(孟徳)、西の孫権(仲謀)と接した土地であり、さらに魏の北には袁紹(本初)の豫州がありました。曹操(孟徳)は袁紹(本初)を官渡の戦いで破り、致命的な大ダメージを与えて憤死させました。その後の掃討作戦ともいえる烏丸討伐に曹操(孟徳)が出兵している機に乗じて、背後から攻めるよう劉備(玄徳)は劉表(景升)に進言するのですが、優柔不断な劉表(景升)は兵を出すこともなく、曹操(孟徳)は勢力を拡大していくことになるのです。

まとめ

このように劉表(景升)が治める荊州には英才がたくさん集まっていたわけですが、これは偶然この土地が英才を生む土地柄というわけではなく、司馬徽(徳操)のカリスマ性で集まってきたわけでもありません。英才というのは机上の学問だけに優れているというわけではなく、世の中の情勢にも敏感だったということなのです。優柔不断とはいえ劉表(景升)の治世は評価されており、安全な土地を優秀な人材が察知して集まっていたというのが実際のところなのでしょう。そして、群雄割拠しているほぼ中央に位置する荊州という場所が、どこの君主に士官するにも都合がいい地の利があったということも言えるでしょう。

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