水上戦・赤壁の戦い
■ 水上戦・赤壁の戦い
水上戦・赤壁の戦い
三国志で最も有名な戦いは、208年の「赤壁の戦い」でしょう。映画レッドクリフは、まさにこの赤壁の戦いを描いています。曹操、孫権、劉備(玄徳)が入り乱れる、まさに三国志の見せ場です。
曹操は、ここまでに、呂布や袁術を滅ぼし、強敵である袁紹を撃退し、河北を制しました。さらに荊州の劉琮も降して、まさに天下を統一する勢いだったのです。
赤壁の戦いは、そんな曹操の快進撃を食い止める快挙でした。
なぜあの曹操が80万(厳密には20万ほどだと考えられています)もの兵力で、5万にも満たないような孫権・劉備(玄徳)連合軍に敗れたのでしょうか?
理由はいくつかありますが、ポイントになるのは、決戦が「水上戦」だったということでしょう。孫権軍の指揮をとった周瑜は水軍の扱いに慣れている一方で、曹操は水軍の扱いに不慣れでした。
陸上戦と水上戦では何が違うのか
■ 陸上戦と水上戦では何が違うのか
陸上戦と水上戦では何が違うのか
中国には「南船北馬」という言葉があります。
北部は陸地が多いので騎馬を扱う戦いに長けています。騎馬民族である匈奴などはまさにその象徴でしょう。
逆に南部では川が多いのです。交通手段も馬よりも船を利用する機会が増えます。結果として水軍を扱う戦いに長けていくことになるのです。
水上戦に騎馬を統率する能力は必要ありません。必要なのは軍船を率いる能力です。そして兵の足場は船上になりますので、船が沈没するとその部隊はあっという間に全滅してしまいます。
軍船の指揮能力と装備が勝敗のカギを握っている。これが陸上戦と水上戦の決定的な違いでしょう。
曹操軍には水軍があったのか
■ 曹操軍には水軍があったのか
曹操軍には水軍があったのか
では、曹操軍にはまともな水軍がなかったのでしょうか?
もともと曹操は荊州を制圧するのが目的で南進しています。そのために事前に、玄武池で水軍の調練を行っていますが、あくまでも荊州の支配者である劉表を倒すためのものでした。最終的に劉表との決戦は陸上戦だという推測もあったと思います。最低限の水軍の調練だったのかもしれません。
しかし、ここで劉表が病没し、後継者の劉琮があっさりと降伏してしまいます。さらに劉備(玄徳)を追撃しつつ、江陵にある劉表の水軍を無傷で手に入れることに成功しました。数々の軍船と共に6万ほどの兵も吸収しています。
棚ぼたの状態で、曹操は孫権に匹敵する水軍を揃えることができたのです。しかも兵力は曹操が5倍以上も多い状態でした。予定にはなかったものの、ついでに孫権も叩いておこうと考えたのは当然の成り行きだったのではないでしょうか。
水軍にはどのような軍船があったのか
■ 水軍にはどのような軍船があったのか
水軍にはどのような軍船があったのか
三国志時代の水軍の資料は、ほとんど残っておりません。ですから、17世紀ごろの明の時代に書かれた「三才図会」が参考にされています。
三才図会に描かれている最も巨大な軍船が「楼船」です。最も小さな軍船が「走舸」になります。それぞれの軍船の特徴を確認していきましょう。
●楼船 指揮官が乗る軍船で、二つの軍船を繋ぎ、その上に楼閣を載せたものです。砦のように三層の防壁が設置され、100人以上の兵士が乗り込んでいました。舷側は防火対策として牛革が使用されています。食糧庫の他に、家畜のスペースもあったと考えられています。かなり巨大で、高い防御力を誇っていましたが、速度は遅く、小回りはききませんでした。
●闘艦 中型の軍船で二層の防壁を備え、その内側には多くの弩兵が配置されました。赤壁の戦いの際には、孫権配下の黄蓋が偽りの投降をする際に乗船しています。それに対して曹操は、楼船や闘艦を鎖で繋いで固定して要塞化していました。
●蒙衝 細長い小型の軍船で、特攻役として活躍しています。船首がかなり頑丈に設計されており、そのまま敵船に衝突して大破させたり、敵船に乗り込むなどに使用されました。赤壁の戦いでは、黄蓋が数十艘の蒙衝にそれぞれ魚油を含んだ枯草を積み、曹操の陣営まであと1kmほどに迫った時に火を放って突撃したと記されています。
●走舸 小型のため高速を誇った軍船です。防御力は低いですが、偵察用に使用されたり、蒙衝が特攻して大破した際に味方を救出する役目もありました。精鋭が乗船し、敵船に乗り込んでいくような奇襲攻撃にも使用されています。
赤壁の戦いの際には、後尾に繋いでいた走舸に乗って黄蓋は火の海を脱出しています。(ちなみに黄蓋は一度海に投げ出されて瀕死の状態になります)
他にもさらに小型で高速な軍船「赤馬」もありました。船体が赤く塗装されていたようです。
軍船を繋いだリスク
■ 軍船を繋いだリスク
軍船を繋いだリスク
曹操軍では慣れない土地のため疫病が流行し、さらに船酔いにも苦しめられていました。三国志演義ではここで龐統が登場。曹操に軍船を繋いで安定させることを献策します。「連環の計」です。
龐統の策略だったことは三国志演義の演出だったとしても、曹操が軍船を繋いでいたのは間違いありません。三国志正史でも、曹操の船団は船首と船尾が繋がった状態であるので、焼き討ちするべきだと、黄蓋が周瑜に進言したと記されています。
緒戦の水軍同士の戦いで敗北した曹操は、上流の烏林で守りを固めて持久戦の構えをとりました。連環した水軍の守りは固く、周瑜らも何度か撃退されています。
しかし、火攻めには弱く、東南の風に煽られ、火は矢のような速度で曹操の水軍を焼き尽くしていきました。
まとめ・じっくりと攻めれば曹操は勝っていたはず
■ まとめ・じっくりと攻めれば曹操は勝っていたはず
まとめ・じっくりと攻めれば曹操は勝っていたはず
荊州の水軍基地である江陵を制圧したところで、じっくりと腰を据えていれば、曹操は赤壁の戦いで大敗しなかったのではないでしょうか。
江陵で水軍を改めて調練し、長江での水上戦を少しずつ学ぶことで、曹操であれば水上戦のコツをつかんだはずです。圧倒的な兵力差から、孫権側から降伏する者たちも続出したことでしょう。そうなれば孫権も抵抗することを諦めていたかもしれません。
曹操を勢いづかせてしまった劉琮の無血開城。もしかすると、ここが赤壁の戦いのターニングポイントだったのではないでしょうか。結果として孫権の勝利に大きく貢献したのが、劉琮だったともいえます。劉琮なくして三国志は成立しなかったわけですね。
まさかとは思いますが、これも諸葛亮の神算が導き出した計略だったのでしょうか。だとすると、まさに最強軍師ですね。