三国擁立へ! 【劉備(玄徳)】の軌跡④「益州攻防戦~定軍山~荊州の悲劇」

三国擁立へ! 【劉備(玄徳)】の軌跡④「益州攻防戦~定軍山~荊州の悲劇」

劉備(玄徳)は益州に入ると、快進撃を繰り広げて乗っ取りを始めます。諸葛亮の天下三分の計を成し得ますが、益州の外には呉や魏が強大なライバルとして立ちはだかります。ここでは益州攻防戦や曹操軍に快勝した定軍山の戦い、それにともなって起こった荊州の悲劇をみていきましょう。


益州攻防戦で快進撃を続ける

劉備(玄徳)は益州へと軍を進めていきます。行く先々で徹底抗戦を敷く城もありますが、ホウ統や法正の軍略に、黄忠や魏延などの武将たちの活躍もあって、連戦連勝を重ねていきます。曹操が孫権に敗れたこともあり、荊州が落ち着いた状況になったことを受けて、諸葛亮が張飛や趙雲を引き連れて益州へとやってきます。荊州の守備には歴戦の雄である関羽が就きます。

戦力が大幅にUPした劉備(玄徳)軍は、益州で快進撃を続けていきますが、劉璋配下の張任が徹底抗戦を繰り広げ、1年もの間、劉璋を降伏させることはできませんでした。その間、軍師として随行していたホウ統が敵軍の流れ矢によって死んでしまいます。劉備(玄徳)はいたく悲しみ、少しの期間でしたが、ホウ統は劉備(玄徳)の蜀入りに多大な貢献をしていました。

馬超の参戦で益州を手に入れる

劉備(玄徳)軍が首都の成都を包囲することに成功すると、漢中で孤立していた馬超が軍勢を引き連れて劉備(玄徳)への服従を申し入れてきます。馬超は益州でもその武勇が恐れられており、劉璋は馬超がやってくることを知ると、瞬く間に降伏を申し入れてしまいます。劉備(玄徳)は馬超を丁寧に迎え入れて、その配下としました。

劉備(玄徳)は荊州から益州の有望な人材を手中にし、とうとう益州を制覇して、諸葛亮が提案した天下三分の計を実現しました。すでに50歳を半ばまできていた劉備(玄徳)ですが、やっと安住の地を手に入れて安堵していたことでしょう。しかし、劉備(玄徳)が益州を手にいれたことは、曹操や孫権からは脅威とみられ、さらなる警戒を生むことにつながっていきます。

孫権との対立が深まる

呉では劉備(玄徳)が蜀を手に入れたことを素直に喜ぶことはありませんでした。劉備(玄徳)が荊州南部を制圧できたのも、赤壁の戦いで呉が主力を出して勝利したからこそといえます。孫権は当然のことながら、荊州は呉のものであり、益州を手にしたからには劉備(玄徳)は荊州から撤退するべきだと主張します。

しかし、劉備(玄徳)は涼州を攻めないと、まだ益州は万全ではないと考えて、孫権には返答をはぐらかします。これに怒った孫権は、都督となった呂蒙を筆頭に荊州に猛攻をかけてきます。荊州の守備には歴戦の関羽が就いていましたが、奇襲ともいえる攻撃だけに、なすすべがなく、呂蒙の軍略の前に敗れています。

一時和解して曹操との決戦に備える

一方漢中では、張魯が曹操に降伏するという事態に陥り、益州は一気に曹操と国境を隔てることになってしまいます。さすがの劉備(玄徳)も曹操と孫権を同時に相手するのは難しいと判断し、諸葛亮の進言もあって、荊州の一部を孫権に返還し、両者は和解します。

この和解には劉備(玄徳)穏健派の魯粛の働きがあったので、関羽と魯粛の間で穏便に和解成立となりました。

定軍山の戦いで曹操軍を撃破

219年、劉備(玄徳)は次の標的を漢中とし、益州の政治を諸葛亮に任せて、馬超や張飛、黄忠や魏延、法正を引き連れて出陣しました。劉備(玄徳)は総大将として益州攻防戦で活躍した諸将を連れていきます。特に法正は蜀入りに大貢献しましたので、劉備(玄徳)の信頼は厚いものだったといえます。

対する曹操軍は総大将を夏侯淵として、副将に張コウを配してきました。この戦いでは法正の軍略が光ります。まず、法正は張コウと夏侯淵を引き離すことを提案します。劉備(玄徳)は複数の部隊に分けて、張コウの部隊に夜襲をかけていきます。

名将でもある張コウは、この攻撃を耐え抜きますが、法正は陣を焼き払って張コウ軍を混乱させていきます。次第に劣勢となった張コウでしたが、ここで夏侯淵が軍を分けて援護に向かっていきます。

夏侯淵を討ち取る

夏侯淵の本陣が手薄になったのを機に、法正はここで一気に夏侯淵の本陣を急襲する策を進言します。法正は夏侯淵の本陣から南に離れた逆茂木を焼き払います。少数の兵を伴い、慌てて消化活動に自ら出向いた夏侯淵でしたが、その隙に本陣の裏手の高所を黄忠が駆け上っていきます。

とても登れそうにない崖でしたが、黄忠は自ら率先して先陣を切り、兵を鼓舞していきました。本陣の裏手から急襲され、高所に陣を取ったことが裏目にでてしまい、夏侯淵たちは火計と高所で逃げ場が無くなってしまいます。

夏侯淵は討ち死にし、戦況は圧倒的に劉備(玄徳)軍が有利となりました。このまま曹操軍の漢中の守備隊を壊滅させるべく、劉備(玄徳)は浮足立った残兵を狙いますが、張コウが総大将となって盛り返し、曹操軍は壊滅することなく、退却することができました。

劉備(玄徳)は張コウを逃したことをとても後悔したといいます。しかし、曹操の旗揚げから参戦している古参の夏侯淵が死亡したことは、魏にとって大ダメージとなり、曹操の落胆ぶりもすさまじいものだったでしょう。

劉備(玄徳)はこの戦いで漢中を手に入れ、かつて前漢を築いた劉邦(高祖)を敬い、漢中王と名乗るようになりました。劉備(玄徳)はこの戦いで大いに活躍した黄忠や法正、魏延を特に信頼していきます。黄忠は関羽と肩を並べる将軍として存在していき、魏延も張飛を差し置いて漢中の守備を任されるほどに信頼されていました。

破滅を呼ぶ関羽の死

漢中まで手に入れたとあって、ますます孫権は劉備(玄徳)を警戒していきます。荊州の奪還には関羽が邪魔になっていましたが、漢中へと主力が出陣している間、関羽も曹仁の守る樊城を攻めていました。諸葛亮は荊州を離れる際、呉には決して油断してはならないと言い残していました。

関羽もそれを守り、常に呉の孫権や呂蒙を警戒して守備を怠っていませんでした。この辺りはさすが関羽というべきでしょうが、関羽を打ち倒すためには油断させるしかないと思い、呂蒙は自分が病気と偽って、全く無名の若者を抜擢し、荊州方面の司令官に任命しています。これが後に都督となる陸遜です。

無名の陸遜を侮る

陸遜は荊州一帯の守備を任されたことを関羽に報告しようと、手紙を送ります。関羽はこの内容から陸遜がまったくの素人で、軍略には長けていない人物と侮ってしまいます。しかし、陸遜は呂蒙や周瑜といった歴代の都督たちに後れを取らない傑物で、呂蒙と合流し。守りの薄くなった荊州に残った劉備(玄徳)軍の根城を一気に攻略していきます。

この機を狙い、呂蒙は曹操と同盟を結んで関羽を挟撃するべきと主張します。この策に乗った孫権と曹操は一時的に同盟を結び、関羽を攻めたてます。荊州で孤立した関羽は、于禁ら曹操軍の援軍を打ち破る活躍を見せるものの、後方から呂蒙と陸遜に攻めたてられて、兵士の家族を人質に取られてしまい、戦意喪失となった関羽軍は総崩れとなっていきます。

さすがの関羽も、周瑜に劣らない呂蒙や陸遜、精鋭揃いの曹操軍の前に力尽きました。劉備(玄徳)の旗揚げから付き添った関羽も、ついに捕らえられて処刑されてしまいます。

関羽を見殺しにした養子の劉封を処刑

劉備(玄徳)の養子だった劉封は、援軍を要請していた関羽の救援に行きませんでした。劉備(玄徳)の報復を恐れた側近の孟達は、曹操に寝返ってしまい、劉封はあげくのはてに曹操軍に上庸を占領されるという失態をしてしまいます。劉備(玄徳)は怒りに狂って、諸将が止めるのを聞かず、劉封を処刑させました。これほどまでに関羽の死は大きな悲しみとなって、今後も劉備(玄徳)を苦しめていきます。

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