① 口下手でブサイク、愚鈍な若者時代
■ ① 口下手でブサイク、愚鈍な若者時代
① 口下手でブサイク、愚鈍な若者時代
つい面倒なことは後回しにして、ぐうたらと寝てしまう人はいませんか。そういった人が必ず言うのは「自分は本気を出していないだけ。本気を出せばすごいことができる」という言い訳です。そして「明日からは本気出す」と言い出します。こういったセリフは、インターネットのSNSでもよく見かけますよね。でも、往々にしてそういう人はいつまでも重い腰を上げないものです。
三国時代にも、そんなぐうたらしているように見える人物がいました。なんと劉備(玄徳)配下の軍師中郎将・龐統(士元)その人です。「えっ? 諸葛亮(孔明)と“臥龍、鳳雛”と並び称された軍師が?」と思われるかもしれません。しかし、若き日の龐統(士元)は見た目がブサイクで口下手、行動がスローモーで一見すると愚鈍に見える人物のため周囲の人の評価は決して高くなかったのです。しかし、20代半ばを過ぎたころになってようやく周りから「彼は愚鈍なのではなく、冷静沈着なのではないか」という評判になり始めたのです。
ぐうたらしていたわけではなく、物事の全書を冷静に見極めてから行動をするといった人物だったようで、師匠でもある司馬徽(徳操)からも「諸葛亮(孔明)は時期をうかがって伏せている龍(臥龍)、龐統(士元)はまだ雛である鳳凰(鳳雛)だ。これらのどちらかを手に入れることができれば、天下は思いのままだ」と評しています。これが広く知れ渡り、諸葛亮(孔明)とともに龐統(士元)の名前も轟いていったのでした。それでは、そんな龐統(士元)はどんな人だったのでしょうか。少し掘り下げてご紹介していきましょう。
② 諸葛亮(孔明)の良いライバルは司馬懿(仲達)より龐統(士元)だった
■ ② 諸葛亮(孔明)の良いライバルは司馬懿(仲達)より龐統(士元)だった
② 諸葛亮(孔明)の良いライバルは司馬懿(仲達)より龐統(士元)だった
劉備(玄徳)の配下に加わるまでは、龐統(士元)も諸葛亮(孔明)と同じく司馬徽(徳操)門下でともに学んでいました。群雄割拠の時代、世の情勢は刻一刻と移り変わっていましたが、襄陽のあたりは静かで穏やかな日々が続いていました。それでも書生たちは常に政治の状況にアンテナを張っていて、君主たちの行動や発言をチェックしていたのです。
そんな襄陽には、曹操(孟徳)との戦いに敗れ、劉表(景升)の元に身を寄せた劉備(玄徳)が客将として滞在していました。そして1年あまりが経ち、平穏でのどかな生活をしていた劉備(玄徳)は劉表(景升)との面会の最中に、突然さめざめと泣き出したのです。劉表(景升)がその理由を問うと、劉備(玄徳)は泣きながら「トイレに行ったときに、ふと自分の太ももに贅肉(髀肉)が付いていることに気づき、悲しくなったのです」と答えたのです。髀肉が付くのは平和の証であり、なにが悲しいのかと劉表(景升)がさらに問うと劉備(玄徳)は自分は常に馬に乗って戦場を走り回っていた。しかし年月はあっという間にすぎ、自分も老いて、こんな内ももに贅肉が付くような歳になってしまった。たいした功績も立てていないのに歳を取っていく自分に悲しくなったというのです。これが世に言う「髀肉の嘆」です。
そんな劉表(景升)と劉備(玄徳)のやり取りは襄陽中に広がりました。隆中で隠遁生活をしている諸葛亮(孔明)のもとにも、このやり取りを伝えに行った人がいました。学友の徐庶(元直)です。この話を伝えた徐庶(元直)は「劉備(玄徳)は危ういな」と言ったそうです。荊州の平和は自分が治めているからだという自負のある劉表(景升)は、劉備(玄徳)のいくさを望むような発言を快く思わないはず。いずれまた劉備(玄徳)を襄陽城に呼び出し、殺してしまうのではないかというのが徐庶(元直)の見立てでした。
そんな徐庶(元直)の政局予想に対し、諸葛亮(孔明)はひとこと「劉表(景升)は殺さない。いや、殺すことができないだろう」と返しました。その返事を聞いて徐庶(元直)はビックリしました。まったく同じことを龐統(士元)も言っていたからです。そして龐統(士元)はさらにひとこと付け加えたことを言うと諸葛亮(孔明)はにやりと笑い「彼はこう言ったのではないかな? 劉表(景升)は優柔不断で決断力がないからおそらく劉備(玄徳)が殺されることはないだろうが、流されやすいため配下の武将が強く言えば殺してしまう可能性もなくはない」と言ったのです。徐庶(元直)はそれを聞いて、天才は同じようなことを考えるものだと感心したそうです。そして、臥龍と鳳雛は良いライバル同士ということがわかるエピソードですね。
③ 赤壁の戦いで曹操(孟徳)を敗走させた影の立役者
■ ③ 赤壁の戦いで曹操(孟徳)を敗走させた影の立役者
③ 赤壁の戦いで曹操(孟徳)を敗走させた影の立役者
諸葛亮(孔明)が劉備(玄徳)の「三顧の礼」に応じて幕臣となったのですが、龐統(士元)は相変わらず襄陽で遊学していました。そんな折に、かの赤壁の戦いが起こるのです。このとき呉の都督・周瑜(公瑾)に連環の計を勧め、自ら曹操(孟徳)陣営に赴き、兵士たちの船酔い対策として船を鎖でつなげれば揺れが収まり、船酔いしなくなると告げます。これにより火計でつながれた船が延焼して全滅するという計略なのですが、これを見抜いた曹操(孟徳)軍の武将が人けのない場所で龐統(士元)を後ろから羽交い締めにします。その武将こそ、母を拉致されて泣く泣く曹操(孟徳)の配下となった徐庶(元直)だったのです。しかし親友の龐統(士元)を曹操(孟徳)に差し出すことはしませんでした。一方、龐統(士元)も徐庶(元直)に対し、火計に巻き込まれないよう策を授け、前線から離れて難を逃れることができました。
こうして赤壁の戦いでは、諸葛亮(孔明)の活躍などで孫権(仲謀)・劉備(玄徳)連合軍が曹操(孟徳)の大軍に大勝します。荊州の全域を手に入れた劉備(玄徳)の元に、龐統(士元)が士官してきます。実は、龐統(士元)は呉の魯粛(子敬)とも親交があり、そのよしみで孫権(仲謀)に引き会わされるのですが、あまりのブサイクさと不真面目な態度に孫権(仲謀)は腹を立て、登用することはありませんでした。そんな龐統(士元)なので劉備(玄徳)もまさかこの人が鳳雛とは思わず、田舎町の県令として赴任させてしまうのです。はたして、鳳雛はメキメキと実力を発揮して出世するのでしょうか?
④ 本気を出せば才能を発揮する男・龐統(士元)
■ ④ 本気を出せば才能を発揮する男・龐統(士元)
④ 本気を出せば才能を発揮する男・龐統(士元)
龐統(孟徳)は自ら劉備(玄徳)の元に士官したぐらいなので、それなりの野心は持っていたのでしょう。ライバルの諸葛亮(孔明)は軍師として重用されていますし、自分も要職につけるだろうと思っていたのかもしれません。ところが、見た目や態度で閑職に追いやられてしまい、ガッカリしたというよりは「こんなものか」と思ったのでしょう。田舎の県令に着任した龐統(士元)は仕事もせずに酒を飲みながらごろごろして、とうとう村人たちから劉備(玄徳)に訴えられてしまいます。これを問題視した劉備(玄徳)は張飛(翼徳)を派遣し、龐統(士元)に尋問させることにします。
明日から本気出す、ではなく張飛(翼徳)が来たから本気を出した龐統(士元)は、ぐうたらしていた1ヶ月分の仕事をあっという間に半日で片付けてみせました。これを見た張飛(翼徳)は、龐統(士元)の才能に驚き、すっかり心酔してしまうのです。張飛(翼徳)の報告に前後して、龐統(士元)を閑職に追いやったと劉備(玄徳)から聞いた諸葛亮(孔明)は笑って「鳳雛をそんなところにやったら、仕事もせずに酒ばかり飲んでいるでしょう」と言いました。そして張飛(翼徳)の報告を聞いた劉備(玄徳)は自分の不明さを恥じ、すぐに龐統(士元)を呼び戻して諸葛亮(孔明)と同じ軍師として迎え入れたのでした。
⑤ 劉備(玄徳)に似すぎた優しさが仇となり落命
■ ⑤ 劉備(玄徳)に似すぎた優しさが仇となり落命
⑤ 劉備(玄徳)に似すぎた優しさが仇となり落命
軍師に取り立てられた龐統(士元)は、蜀攻略のために劉備(玄徳)に随行します。これは諸葛亮(孔明)の「天下三分の計」の一環で、蜀を攻略して我が物にすることで魏・呉・蜀という中国を三分して鼎の状態に持ち込むという作戦です。こうした作戦こそ政局をいったん安定させ、そのうえで全国統一への足がかりにする一歩なのですが、蜀の主は劉璋(季玉)で同じ劉姓ということで劉備(玄徳)は気が進みませんでした。それは龐統(士元)も同じで、頭では諸葛亮(孔明)の作戦が正しいことは理解しているが、気持ちがそう思えないといった感じでした。
白水関を陥落し、兵士たちにねぎらいの宴会を開いた劉備(玄徳)に対し龐統(士元)は「人の国を奪うのに、何がそんなに嬉しいのですか」と苦言を呈したそうです。このように実は劉備(玄徳)と龐統(士元)は、その考え方が非常に似ており、だからこそ似た者同士を組ませることで自分のウィークポイントを浮き彫りにさせるという諸葛亮(孔明)の考えがあったのです。そして、その優しい人柄同士の蜀攻略戦は大胆さを欠いたため、劉璋(季玉)軍の反撃にあって龐統(士元)は落鳳坡で命を落としてしまうのです。
まとめ
■ まとめ
まとめ
龐統(士元)は、その風貌や態度から愚鈍な人間と誤解されがちですが、実は「能ある鷹は爪を隠す」の典型な人物であったようです。才能があったからこそ、自分の力量に見合わない仕事に関しては手を抜くということが許されたわけで、才能がないのにぐうたらしていてはダメですね。ただ、これらのエピソードを見ると龐統(士元)は意外と野心家で、承認欲求の強い人間だったのかもしれません。