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兄弟の契りなんて言葉もありますが、実の兄弟ですと日本の戦国時代でも兄弟仲の良くない兄弟も沢山います。実際、中国は近年まで一人っ子政策が用いられてますが、当時は兄弟も多かったのではないでしょうか。そこで今回は三国志の時代に存在していた兄弟について紹介します。
魏を牽引し、三国志の歴史の中でも特に優秀な人物と言えた曹操(孟徳)ですが、そんな優秀な人材でも女性関係はだらしなく、不倫を続けていたといいます。ではその複雑な女性関係を紐解いていきましょう。
三国志・偽りの投降が成功したのは赤壁の戦いだけではない「石亭の戦い」
偽りの投降が功を奏したのは「赤壁の戦い」だけではありません。孫権が皇帝に即位する前年に行われた「石亭の戦い」も同様です。その背景とともにお伝えします。
【武将考察】シリーズの第4回目は、荊州奪還戦と呂蒙をとりあげます。赤壁の戦い直後から荊州は、曹操、孫権、劉備(玄徳)の三勢力(三国)の境に接する紛争地帯となります。今回は、視点を孫呉におき、荊州奪還における呂蒙の活躍とその人柄、主君である孫権からの評価や関羽の呪いと言われる死の所以についてまとめてみたいと思います。
演義で呂布と並ぶ裏切り者の代名詞である魏延。演義での主役とも言うべき諸葛亮に逆らったため、裏切り者という印象が強い彼ですが、対南蛮や北伐では蜀漢の中心の将軍として働いた名将でもあります。本当の魏延はどのような人物なのでしょうか?
三国志の序盤において、中原では曹操・袁術・呂布・劉備(玄徳)・劉表らによって勢力争いが行われていました。その一方で、黄河の北側・河北では、袁紹と公孫瓚が覇権を争っていました。袁紹VS公孫瓚、彼らの争いとはどういうものであったのでしょうか?
三国志・大軍を率いた劉備を破った名将・陸遜(りくそん)の忍耐力
呉の英雄・陸遜。孫策や周瑜と並び人気があります。周瑜は曹操を破りましたが、陸遜は劉備(玄徳)を破っています。夷陵の戦いの際の陸遜の采配に注目してみました。
まさに波乱万丈! 劉備(玄徳)に軍略を教えた徐庶(元直)の生涯
劉備(玄徳)に仕える軍師といったら真っ先に諸葛亮(孔明)を思い浮かべることでしょう。しかし、彼の存在を劉備(玄徳)に教えた人物が徐庶(元直)です。ここでは波乱万丈に満ちた徐庶(元直)の生涯について紹介します。
三国志は、後漢皇族のいい加減な政治によって始まったものです。しかし、その皇帝たちの出来事は陰に隠れがち。黄巾の乱から陽人戦の間に起きた「十常侍の乱」以降も、どうなったのでしょうか?「黄巾の乱」で活躍した何進とその妹は、なぜ十常侍の乱に関わっているのでしょうか?また、黄巾の乱は三国志演義ベースで紹介しています。
三国志の中でも屈指の有名人である周瑜公瑾。しかし彼ほどエピソードに虚実入り混じり、メディア媒体で描かれる人物像に差がある人もいないでしょう。呉の内部からの尊崇だけでなく外部からも讃えられた才を持っていた周瑜の生涯を紹介します。
もしも三国武将が現代でプロ野球日本代表だったらベストオーダーはこうなる
三国志の世界の武将は運動神経だっていいはず。現代に彼らがいたらもしかすると持ち前の運動神経を生かしてスポーツ選手になっていたかもしれません。今回は日本の国民的スポーツのひとつである野球で三国武将でドリームオーダーを組んでしまおうという三国志ファンにとっても野球ファン夢のような企画です。それではオーダーの発表です!
三国志の主役といえる曹操(孟徳)・劉備(玄徳)にはそれぞれ典韋や許チョ、張飛といった屈強な護衛が付いています。では呉の孫権はどうでしょうか。イマイチぴんとこないかもしれませんが、周泰(幼平)がその役を担っていたと考えられます。孫権から厚く信頼されていた周泰とはどのような武将なのかみていきましょう。
曹操とは何者だったのか(青年編 2) 侵入! 撲殺! 権力者をも恐れぬ度胸!
ヤンチャな少年時代を送った曹操も、20歳を過ぎて役人になります。しかし官職についても、個性的なところは相変わらずだったのです。権力者を恐れぬ曹操の気骨を、ご紹介します。
三国志演義の序章 黄巾の乱を徹底解説(黄巾 の 乱 わかり やすく)
黄巾 の 乱 わかり やすく! 三国志にはさまざまな合戦や反乱などで群雄たちが領土拡大や政権掌握を理由に争いあいます。本記事では三国志演義の始まりとなる黄巾の乱について解説します。
李牧・張良・陳平に負けない天性の知略を持って生まれた【郭嘉】
智謀を持って君主に献策し、幕僚にいるだけでその存在を恐れられるのが軍略家(軍師)たちです。戦国時代を描いた現在人気の漫画キングダムでは李牧、秦から前漢の時代に活躍した張良や陳平などに匹敵する知略の持ち主として、三国志には郭嘉が存在しています。曹操(孟徳)に最も評価された軍師の郭嘉を紹介していきます。
三国志の英雄といえば劉備(玄徳)の名が挙がります。三国志演義の影響もあって、多くのファンを持ち、日本でも大人気といえるでしょう。そんな劉備(玄徳)は正史でも主役級の扱いとなっており、三国志の時代には多大な人望を集めていました。ここでは義勇軍の結成から徐州攻防戦までの劉備(玄徳)の軌跡をたどっていきます。
関羽(雲長)は桃園の誓い にて劉備(玄徳)らと義兄弟の契りを交わして以降、青龍偃月刀を愛刀としました。軍神と言われるほどの関羽(雲長)の活躍は関羽(雲長)個人の実力だけでなく、青龍偃月刀という武器が優れていたからと言っても過言ではありません。
戦国時代においては家柄も立派な武器!?血統の良い武将ランキング
劉備(玄徳)が自分の正当性を主張する時に漢王室の血を引いているということを挙げていたのは演義でも正史でも出てきます。ですが、漢帝国には百人以上子供がいる皇帝もいます。では、血統にはなんの意味もないのでしょうか?そんなことありません。実際に血統が素晴らしい(本当なのかどうかはともかく)武将を見てみましょう。
【武将考察】シリーズ第2回。西涼の錦と勇名をとどろかせた馬超。潼関の戦いでは曹軍を相手に奮戦し、その名は曹操を恐れさせます。また劉璋も馬超の名に恐れおののき劉備に降伏するなど、大きな威力を発揮しました。その馬超の光と影を見てみたいと思います。
赤壁の戦い後、天下三分の計実現のために益州(蜀)攻略を模索していた劉備(玄徳)、諸葛亮(孔明)でしたが、逆に蜀からも漢中の張魯(公祺)に狙われていることを察知した人物たちが、外部から強い指導者を招き入れ、蜀防衛を図ろうと画策していました。その筆頭となって行動したのが張松(永年)でした。