三国志・偽りの投降が成功したのは赤壁の戦いだけではない「石亭の戦い」

三国志・偽りの投降が成功したのは赤壁の戦いだけではない「石亭の戦い」

偽りの投降が功を奏したのは「赤壁の戦い」だけではありません。孫権が皇帝に即位する前年に行われた「石亭の戦い」も同様です。その背景とともにお伝えします。


石亭の戦い

石亭の戦い

石亭の戦い

228年に魏と呉は10万に及ぶ軍勢で衝突する大きな戦いをしています。「石亭の戦い」です。魏の総大将は曹休であり、呉は孫権自身が出陣し、大都督に名将・陸遜を任命しています。この戦いは呉の大勝に終わるのですが、その勝因の鍵を握っていたのが「偽りの投降」でした。つまり呉は計略を用いて魏を欺き、大損害を与えることに成功したわけです。孫権は翌229年にようやく呉の皇帝に即位します。石亭の戦いの勝利が孫権に自信を与えたことは間違いないでしょう。この大勝によって孫権は皇帝に即位する決心がついたのです。呉にとって大きな転換期ともいえる戦いについて今回はご紹介していきましょう。

偽りの投降による勝利【赤壁の戦い】

偽りの投降による勝利【赤壁の戦い】

偽りの投降による勝利【赤壁の戦い】

20年前にさかのぼると、208年にも孫権は大きな戦いに勝利しています。「赤壁の戦い」です。このときの相手は曹操でした。荊州を呑み込み、そのまま孫権が拠点とする揚州に攻め込んできたのです。孫権は名将・周瑜にすべてを託して迎撃します。このときに使った計略が偽りの投降でした。実行したのは古参の黄蓋です。黄蓋は投降を装い、曹操軍の本営に近づき、火を放って曹操軍の水軍を焼き払いました。こうして孫権は曹操に勝利し、揚州の自治を守ったばかりではなく、荊州へ進出していくことになるのです。

曹操ほどの人物がなぜ偽りの投降を見抜けなかったのでしょうか。その理由の一つに孫権の陣営から曹操側へ降伏・投降していくものが多かったことがあげられます。孫権が19歳で家督を継いだときには盧江太守の李術が反乱を起こし、交州刺史で同族の孫輔もまた内通を疑われて幽閉されました。同族から離反者が出るくらいですから、曹操側に内応した者は多かったと推測されます。曹操は意図的に内側から崩そうとして孫権の陣営に調略を仕掛けていたはずです。軍勢の数も領地の広さも圧倒的に曹操側が優っているわけですから、投降者が多く出るのは仕方のなかったことかもしれません。実際に赤壁の戦い前に曹操との抗戦を主張したのは周瑜や魯粛ぐらいでした。他は和睦や降伏を主張していたのです。

国の比較

国の比較

国の比較

呉は魏の人口の半分ほどだったと伝わっています。領有している州も魏が幽州、冀州、青州、幷州、徐州、兗州、豫州、司隷、雍州、涼州と広大であるのに対し、呉は揚州の一部、荊州の一部、交州です。呉が滅んだ際には人口はおよそ230万人。魏はおよそ440万人でした。当然のように呉のみで魏に対抗することは難しく、益州に拠点を置く蜀と手を結ぶことになります。

孫権は圧倒的に不利な状況でしたが、この偽りの投降はそこを逆手にとった効果的な策略でした。ただし内通者が多くなることは危険を含んでいるのも事実で、245年には魏に内通した征西将軍の馬茂が孫権の暗殺を謀って失敗し、処刑される事件も起こっています。偽りの投降が成功しやすい環境というのは、まさに諸刃の剣だったわけです。

偽りの投降による勝利【石亭の戦い】

偽りの投降による勝利【石亭の戦い】

偽りの投降による勝利【石亭の戦い】

228年の石亭の戦いで魏に偽りの投降を仕掛けたのは、鄱陽郡の太守である周魴です。このとき曹操はすでにこの世を去っており、魏の初代皇帝である曹丕も亡くなっています。二代目皇帝である曹叡の時代であり、対呉の総司令官は同族の曹休が担っていました。実際に実績も充分で、呉の呂範を破っています。呉からは韓綜のような寝返りも出ていました。

周魴は投降に関する内容を七条に分けて曹休に伝えました。孫権はこの策略を成功させるためにわざと詰問の使者を周魴の屋敷に送っています。周魴はわざわざ自らの髪を切って謝罪しました。周魴の屋敷には魏の密偵が放ってあり、その報告を聞いた曹休は周魴の投降を信じたのです。自らの髪を切ることはかなり重要な事柄だったようで、これは三国志演義にも登場するシーンになります。三国志演義では周魴は自らの髪を切って投降が本物であることを曹休に示したことになっています。

揚州の軍事責任者である曹休は、荊州をまとめる司馬懿、豫州をまとめる賈逵なども召集し、10万の大軍を率いて揚州の石亭に進軍します。しかしそこには孫権軍が待ち伏せをしていました。罠にかかったことを知った曹休でしたが、退くことはプライドが許さなかったようでそのまま侵攻していきます。陸遜の伏兵に遭い、さらに呉の朱桓、全琮の奇襲を受けて曹休は壊滅に近い損害を受けることになるのです。

曹休のその後

曹休のその後

曹休のその後

絶体絶命の曹休を救ったのは、援軍にかけつけた賈逵でした。賈逵は自軍の兵を多く見せて呉の伏兵を退けます。これにより曹休は命拾いすることになるのですが、元来この二人は不仲で、曹休は感謝するどころか賈逵の到着が遅かったことを非難したそうです。曹休は皇帝・曹叡の同族であることから大敗の責を負わされることはありませんでした。しかし一万以上の兵を失った大敗が曹休のプライドを傷つけ、曹休はすぐに病没してしまいます。賈逵もまた亡くなり、この地の総司令官には新たに満寵が就任することになります。満寵は曹休以上に呉を苦しめることになり、孫権は苦戦を強いられていきます。

まとめ・石亭の戦いの後

まとめ・石亭の戦いの後

まとめ・石亭の戦いの後

石亭の戦いで大勝利を飾った大都督の陸遜の凱旋を孫権は大喜びで迎え、皇帝用の絹傘をさしかけて殿門を出入りさせ、また皇帝用の御物や珍物を褒美として与えています。翌年に皇帝に即位した孫権は陸遜を上大将軍・右都護に任命しました。陸遜は呉の最高司令官となったのです。投降を演じて策略を成功させた周魴もまた昇進し、裨将軍に任じられています。

228年は蜀の諸葛亮が北伐を開始した年でもあり、孫権が皇帝に即位しても蜀にはこれに異を唱える余裕がありません。孫権はそれも見越して229年に皇帝に即位することになります。ここに至って三人の皇帝が並立することになるのです。魏・呉・蜀が揃ったわけです。これは石亭の戦いの大勝利が生んだ状況ともいえるのかもしれません。ちなみに魏の対呉総司令官が満寵に代わってからも呉は偽りの投降を行っています。やはり本当に魏に投降する者が減らなかったという背景があったのではないでしょうか。

孫権はまさにピンチをチャンスに変える戦略で魏に対抗したのです。





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孫権 赤壁の戦い

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