呉を救った【周泰】の正史と演義での活躍

呉を救った【周泰】の正史と演義での活躍

三国志の主役といえる曹操(孟徳)・劉備(玄徳)にはそれぞれ典韋や許チョ、張飛といった屈強な護衛が付いています。では呉の孫権はどうでしょうか。イマイチぴんとこないかもしれませんが、周泰(幼平)がその役を担っていたと考えられます。孫権から厚く信頼されていた周泰とはどのような武将なのかみていきましょう。


孫策に士官して孫権に仕える

孫策に士官して孫権に仕える

孫策に士官して孫権に仕える

周泰(幼平)は孫策(伯符)が江東に進出していたときにはその配下として参戦しています。まだ数千人規模だった孫策は人材の登用を率先しており、周泰のほかにも周瑜(公瑾)、魯粛(子敬)、陳武(子烈)、凌操、諸葛瑾(子瑜)、蒋欽(公奕)と後に呉で活躍していく諸将が揃っていきました。

周泰は孫策に従軍し、江東を転戦していきながら敵軍を討ち取る姿は鬼神のごとく凄まじく、その武勇を認められて江東の反乱制圧に貢献していきました。その後、周泰は潘璋(文珪)とともに孫権に仕えるようになっていきます。周泰の力量を見いだせた孫策も見事といえますが、まだ若い孫策に付いていく姿勢を見せていた周泰の眼力も見事といえるでしょう。

孫権を守り抜いた周泰

孫権を守り抜いた周泰

孫権を守り抜いた周泰

孫策(伯符)存命時は、まだ後継者でなかった孫権(仲謀)ですが、孫策に高くその資質を評価されており、周泰はその身辺警護のような役目を担っています。若干10代の孫権ですが、孫策も20代前半と若く、孫家の台頭のためには兄弟が力を合わせる必要があったとみられています。そこには血みどろの後継者争いというのはなかったのでしょう。孫策は率先して孫権を戦場に連れていきました。

周泰も孫権の智謀や博識さに感嘆していたはずで、将来孫家を背負う存在になると考えていたのかもしれません。孫権は周泰を気に入り、常にそばにおくようになっています。

12の矢傷を負う

12の矢傷を負う

12の矢傷を負う

孫策は異民族の山越征伐に繰り出し、袁術(公路)配下の袁イン(袁術の従兄弟にあたる)を丹陽から追い出してしまいます。孫権は丹陽に住んでおり、周泰(幼平)も付き添っていました。周辺の勢力は孫策の威光に屈しており、敵対勢力が無い状態といえました。募兵で固めて城の強度も高くないなど、完全に油断していた孫権でしたが、袁術は密かに孫策討伐の考えを持っていて、山越に扇動をけしかけます。袁術は丹陽の有力者たちにも孫策反乱軍の話を持ちかけていき、若い孫権に支配されるのを疎んじたものたちが一斉に反乱を起します。

孫策軍は江南に進出しながら反乱軍に対処しなくてはならず、孫権の居城は山越の反乱軍にも急襲されてしまいます。身の危険を感じた周泰は孫権を馬に乗せて脱出を図り、意気消沈する味方を激励して士気を向上させていきます。

軍とはいえない少数の兵力でしたが、周泰は敵兵を凌ぎ、味方を勇気づけていきます。自身は全身12カ所の矢傷を受けながら孫権を守り続けていきました。周泰は孫権を無事に孫策の元へ送り届けると、孫策から感謝されました。周泰は心身がボロボロの状態になり、傷の回復を待って春穀の県長に昇進することが決まりました。

各地を転戦して武功を重ねる

各地を転戦して武功を重ねる

各地を転戦して武功を重ねる

孫策(伯符)が25歳で死去すると孫権(仲謀)が後継者になります。周泰(幼平)は各地を転戦し、父の仇である江夏の黄祖討伐でも戦功を挙げ、孫家の一大決戦となった赤壁の戦いでは都督の周瑜や程普とともに、曹操軍を退けることに成功しました。

赤壁の戦い後に周瑜が死去すると、呉内では人事面で大きな変化が相次ぎ、魯粛や呂蒙などが周瑜の後継者になっていくと、新たな若手の武将たちが台頭し始めてきます。

周泰は古参の将として孫権から信任を得ており、孫策の頃から活躍していた武将でした。しかし、孫権についていたことも多かったので、諸将の中には周泰が出世できたのは、孫権のそばにいたからだという疑いを持つ者も出てきました。

孫権の恩人として尊敬を抱かれる

孫権の恩人として尊敬を抱かれる

孫権の恩人として尊敬を抱かれる

赤壁の後、漢中を支配した曹操(孟徳)は呉への雪辱のために、大軍を以って濡須口へ攻めてきます。すでに都督の周瑜は亡く、孫権(仲謀)は自身で兵を率いて迎撃に向かいます。当然ながら周泰(幼平)も参戦しています。この戦いでは孫権軍の徐盛や甘寧が大活躍して曹操軍を退却させています。

周泰もこの戦いの後将軍に出世し、一時期徐盛や朱然といった武将を配下に置きますが、彼らは周泰が実力で出世したわけではないと思い、指示を仰がず部隊はバラバラになっていました。

見かねた孫権(仲謀)は宴会を開き、その場で周泰の服を脱がせます。周囲の将たちは驚いた様子で見ており、孫権は周泰の生傷を一つ一つ指していき、この傷のおかげで自分は命を救われたと涙ながらに説明し、周泰がいなかったら自分はこの場に生きていないと語ります。徐盛や朱然は周泰の実力を認め、配下になることを納得していきました。

晩年は呂蒙(子明)の配下として荊州にも参戦していますが、没年は記録されておらず、222年に起きた夷陵の戦いまでは存命だったといわれています。

三国志演義での周泰は活躍が多い

三国志演義での周泰は活躍が多い

三国志演義での周泰は活躍が多い

小説の三国志演義では、周泰(幼平)はもともと海賊の設定で、孫策(伯符)が挙兵することを知ると、改心してその配下として活躍していきます。孫権を守り、矢傷を負って重傷になったときには華佗の治療を受けて一命を取り留めています。

赤壁の戦いでは先陣を任されて奮闘し、曹操軍の武将を討ち取っています。正史では濡須口の戦いで、徐盛に不満を打ち上げられていますが、演義では215年の合肥の戦いで劣勢な孫権軍の主力として徐盛を敵軍の包囲から救出する活躍を見せています。

夷陵の戦いでは陸遜の指揮の下で蜀軍を蹴散らし、甘寧を弓で討ち取った沙摩柯を一騎討ちで破っています。

諸葛亮(孔明)に知力の差を見せつけられた周瑜(公瑾)や魯粛(子敬)といった呉の大都督クラスでは、演義での活躍は今一つでしたが、周泰は活躍の場面が多く描かれています。

ちなみにゲームなどでも傷のついた顔立ちで、武力の優れた武人として描かれていることが多く、孫権の護衛として活躍していたことが影響しているとうかがえます。

呉の建国に貢献した英雄

呉の建国に貢献した英雄

呉の建国に貢献した英雄

周泰(幼平)の一番の貢献といえば、やはり孫権(仲謀)を救った12の傷を負うシーンですが、もしもここで孫権が殺されていると、孫策が早死にすることで呉の中枢は大いに揺らいだことでしょう。もちろん、周瑜(公瑾)や張昭(子布)といった重臣たちが補佐を務めるでしょうが、赤壁の戦いで勝利できていたかは定かではありません。

それだけに周泰の取った行動は賞賛され、呉の建国に欠かせない重鎮として評価されています。





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