三国志が始まる前の時代「漢」
■ 三国志が始まる前の時代「漢」
三国志が始まる前の時代「漢」
三国志が始まるずっと前は、「漢」という時代でした。そこから少し細かく書くと、「前漢」「後漢」に分かれます。
後漢の政治は、前漢からだいたい引き継がれたものです。漢時代では、20代から50代の男性は2年間兵士になる必要がありました。(一部の男性を除く)
また、強い権力を持つ人たちは皇族と関係を結ぶことで、政治に大きな影響をもたらしています。
三国志直前は、「霊帝」という救いようのない人が天に近い存在でした。その部下「十常侍」も超身勝手な連中です。霊帝のどの辺がダメだったのか。それは次の項目でご紹介します。
三国志に登場する後漢末期の皇帝
■ 三国志に登場する後漢末期の皇帝
三国志に登場する後漢末期の皇帝
後漢の皇帝たちは、(初代と第2代以外)若いうちに即位しています。
三国志に登場する皇帝は、「霊帝」「献帝」の2人です。あ、少帝もいました。
霊帝
酒と女性に溺れたダメ皇帝。この時代の皇族は一夫多妻だったため、何皇后と王美人それぞれが子どもを産んでいます。
後ろには「十常侍」というユニットがいて、民から多くの財産を奪いました。十常侍は12人いますが、「だいたい10人だよね」というノリでそういう名称がついています。
(少帝)
何皇后の子ども。ちょっとだけ皇帝でした。
献帝
王美人の子ども。のちに起きた「十常侍の乱」の後、豪族の董卓に保護されます。
三国志の始まり「黄巾の乱」
■ 三国志の始まり「黄巾の乱」
三国志の始まり「黄巾の乱」
霊帝は遊んでばかり。でも、逆らえば十常侍に何をされるかわかりません。やがて中国は飢饉と疫病に苦しむ人々で溢れかえっていました。
そんな時、妖術師・張角が立ち上がります。張角は日々の努力を重ねた結果、風と雨を操れる人物になりました。さらに、疫病を治す力もあったため、世間から注目を浴びます。
そして、新しい歴史が始まる瞬間です。
「蒼天の時代は終わった。これからは黄天の時代だ!」
黄色い布を頭に巻き付けた集団「黄巾党」は、そう叫んで反乱を起こします。これが「黄巾の乱」です。
といっても混乱がさらに増すだけだったので、「何進」という人物が中心になって黄巾党を鎮めます。
何進とその妹(何皇后)
■ 何進とその妹(何皇后)
何進とその妹(何皇后)
何進
元は非人レベルの仕事に就いていましたが、妹が霊帝と結婚したことで人生が一変します。
階級が一気に上がった何進は、黄巾の乱を鎮圧。ところが、その後は「十常侍の乱」に巻き込まれてしまいます。
何皇后(何氏)
何進の妹にして、霊帝の妻。子は少帝。
霊帝にはもともと別の皇后がいましたが、「可愛いから」という理由で何氏にあっさり乗り換えます。
しかし霊帝は、お気に入りの王美人とも子(献帝)を産みました。それを知った何皇后は嫉妬に狂い、王美人を始末してしまったのです。また、姑とのバトルでも勝利を収めています。
その後は董卓に殺されますが、たいへん気が強かったからか晩年についてあまり描かれません。
少帝が5ヶ月皇帝だった理由
■ 少帝が5ヶ月皇帝だった理由
少帝が5ヶ月皇帝だった理由
献帝が30年在位していたのに対し、少帝はたったの5ヶ月です。それは、でしゃばりの董卓が何皇后を脅したことと大きく関係がありました。
王美人が他界したあと、残された献帝は霊帝の母親(何皇后の姑)に育てられました。やがて、何皇后と姑が対立。「どちらの子が皇帝にふさわしいか」争っていたのです。
何皇后が勝ったことで少帝が即位しましたが、混乱に乗じた董卓が難癖をつけてきます。
「お前の姑は俺の親族だから」
脅迫に成功した董卓は、献帝を即位させます。董卓は「(姑の)仇を取ってやる」と躍起になって、何皇后と少帝をそのまま殺害したのです。
西園八校尉と、十常侍の乱
■ 西園八校尉と、十常侍の乱
西園八校尉と、十常侍の乱
少帝が即位した一方で、十常侍は事件を起こしていました。「十常侍の乱」は、董卓が献帝を保護する前の出来事です。
また、この事件は霊帝プロデュースの「西園八校尉(さいえんはつこうい)」も関係しています。難しいグループ名ですが、まずはこの集団について大まかにご紹介します。
西園八校尉は、黄巾の乱の後に結成された兵士グループです。黄巾党の暴れっぷりを見た霊帝の部下は、「ヤバそうだから何とかしようよ」と何進に伝えます。
さんざん遊んでいた霊帝が、甲冑をつけて「将軍」と名乗るほどのことです。メンバーには、名門の袁紹と政治家の曹操がいました。何進は霊帝の側近でした。
何進が殺された「十常侍の乱」
■ 何進が殺された「十常侍の乱」
何進が殺された「十常侍の乱」
何進と何皇后は、兄妹そろって少帝の支持に専念します。十常侍はこの頃ものびのびと生きていたので、何進は彼らの暗殺を企てます。
しかし、計画が十常侍にバレたため、何進は彼らに囲まれて殺害されます。
この事件を知った西園八校尉の一部が、ついに十常侍をこらしめたのです。主に袁紹と曹操が活躍しました。
献帝の曹操暗殺計画
■ 献帝の曹操暗殺計画
献帝の曹操暗殺計画
董卓が鎮められたあと、献帝は曹操に保護されました。ところが曹操もまた、献帝の身内を手にかけて自身の関係者を配置します。献帝が「もういい加減にしてよ」と怒ったため、曹操は少し落ち着きを取り戻します。
あるとき、曹操と献帝は狩りに出かけました。そこで曹操は献帝の私物を利用したため、献帝は「やっぱりこの人無理」と呆れます。
これまでの不満が頂点に達したので、献帝と伏皇后は曹操の暗殺計画を立てました。
しかし、その計画も曹操にバレたため、伏皇后とその一家は殺されてしまいます。のちに曹操は自分の娘を皇后にしましたが、それに逆らう人は誰一人いなかったそうです。
後漢皇族の滅亡へ
■ 後漢皇族の滅亡へ
後漢皇族の滅亡へ
後漢の皇族は、残念ながら滅亡に向かいます。
曹操が魏の基盤を築き上げたあと、息子の曹丕が跡を継ぎます。曹丕は色々あって残念な人として評価されています。
そんな曹丕が魏の初代皇帝になったのですが、どんな経緯があったのでしょうか?
表向きは「献帝が自分からリタイアした」。実際は曹丕とその部下が献帝を追い込んだことで、皇帝という枠を奪われます。
劉協(献帝)はその後も妻とともにひっそりと暮らしていました。
曹操に対抗していた劉備(玄徳)の耳に、やがて誤報が入ります。「献帝が亡くなられた」と聞いた劉備(玄徳)が、「劉」という姓がついているだけで「蜀漢」の初代皇帝となったのです。
水面下で起きた後漢皇族の問題
■ 水面下で起きた後漢皇族の問題
水面下で起きた後漢皇族の問題
霊帝の行いと崩御(他界)後は、三国志や後継者争いの始まりでした。
なぜ黄巾の乱や陽人の戦いが始まったのか。この2つは有名な戦いですが、水面下で起きた皇族の問題を知ることで三国志を把握しやすくなるでしょう。
曹丕と劉備(玄徳)がそれぞれ皇帝になったことも、後漢皇族と密接な関係があります。
昔は皇帝がいることを武器に、権力者が暴れることもよく起こりました。後漢末期では十常侍が、三国志初期では董卓がその権力者にあたります。
三国志中盤以降では「献帝」が在位していたのに対し、少帝の在位期間はごく僅かだったので省略できます。
しかし、董卓が少帝を引きずり下ろした事実は、暴政に至るまでの経緯を示していると思います。