袁術と孫策の侵攻
■ 袁術と孫策の侵攻
袁術と孫策の侵攻
陸遜が12歳ごろに住んでいた領地が、寿春を本拠地にしている袁術の侵略を受けます。当時の陸遜は、当主である従祖父・盧江太守の陸康を頼って盧江郡の舒県に住んでいました。もともとは陸康と袁術は親交があったのですが、兵糧問題でこじれ、武力衝突に発展してしまったのです。
袁術の先兵はまだ若い孫策が率いており、陸康は徹底抗戦しますが、長きに渡る攻城戦の末に落城してしまいます。息子の陸績を陸遜とともに事前に城を脱出させており、二人は無事、長江以南の呉郡に落ち延びています。陸康は殺されることはありませんでしたが、落城後すぐに病没しています。陸家一族の多くが亡くなりました。
陸遜の袁術、孫策への憎しみはどれほどだったことでしょうか。
陸家は呉郡の四姓と呼ばれるほどの豪族であり、孫策が呉郡を征服した後も地元豪族との衝突は続くことになります。
21歳で孫権に仕える
■ 21歳で孫権に仕える
21歳で孫権に仕える
孫策が暗殺され、孫権がその跡を継ぐことになると、地元豪族との融和政策が積極的に取り組まれることになります。陸家の当主である陸績はすでに孫策の配下になっていましたが、ここで陸遜も孫権に仕えることになるのです。
陸遜の活躍は素晴らしく、海昌県の屯田都尉に任じられたときには県政も任され、干ばつに苦しむ領民に対して官倉を開いて施す一方、農耕や養蚕といった産業を盛んにして県を立て直しています。
さらに会稽郡で悪事をはたらいていた山越族の頭目・潘臨を、私兵を用いて討伐し、続いて鄱陽で賊徒の尤突が反乱を起こしますが、陸遜はこちらも討伐しています。
政治面、軍事面で功績のあった陸遜は定威校尉(部隊司令)に昇格しました。
孫策の娘を娶る
■ 孫策の娘を娶る
孫策の娘を娶る
年齢や身分に捉われず個人の能力を評価して起用する孫権は、すぐに陸遜の器量を認めました。そして兄である亡き孫策の娘を陸遜に嫁がせるのです。孫家と陸家は強い絆で結びつくことになります。
陸遜は孫権の勢力の兵力不足を解消するために山越族を平定し、精鋭の軍を編成することを進言します。
陸遜の凄い点は、「有言実行」できる点でしょう。
陸遜は計略をもって多勢の敵軍を破り、兵と民戸を増やすことに成功しました。
頭角を現し始めた陸遜はその後、天下の名将・関羽の相手をすることになります。
荊州を守る関羽の油断を誘って倒すことを進言したのは陸遜です。総司令官の呂蒙は病気で建業に戻っており、陸遜の策を聞き、自分の代理に陸遜を推薦しました。このとき陸遜は偏将軍・右部都督に任じられています。
名将・関羽を攻略する
■ 名将・関羽を攻略する
名将・関羽を攻略する
当時の最強ランクに位置する関羽を、呂蒙と陸遜は計略をもって攻略します。
荊州の公安、南郡、宜都郡などを次々に占領し、関羽・関平親子を捕らえました。関羽らはその後、処刑されています。孫権はこうして悲願だった荊州南部の領地を自領に加えることができました。その喜びはひとしおだったことでしょう。
陸遜は功績によって右護軍・鎮西将軍まで出世しました。右護軍といえば総督です。陸遜は30代にして孫家を代表する将軍となったわけです。孫権に仕え始めて16年間ほどですが、わずかな期間で武功を重ねてここまで出世する例も珍しいことです。
陸遜は見事に孫権の期待に応え続けてきたともいえます。
大軍・劉備(玄徳)との戦い
■ 大軍・劉備(玄徳)との戦い
大軍・劉備(玄徳)との戦い
222年、劉備(玄徳)が大軍を率いて荊州に攻め込んできました。
孫権は陸遜を大都督に任じ、朱然や韓当、潘璋などの歴戦の勇将と兵五万を与えて迎撃させます。三国志の中でも有名な戦い「夷陵の戦い」です。
陸遜は劉備(玄徳)が水陸両道から攻めてくることを恐れていましたが、劉備(玄徳)は陸にいくつもの屯所を築いて陸側からのみ進行しました。陸遜は勝算を見い出しています。
諸将は劉備(玄徳)の出鼻を叩くことを提案しますが、陸遜は動きません。若い陸遜は諸将から侮られており、真っ向から作戦を否定されます。それでも陸遜は耐えに耐えます。
半年以上対峙していくなかで六百里ほども劉備(玄徳)軍の侵攻を許しています。それでも陸遜はじっと機を待って耐えています。
国家の命運がかかった戦いで諸先輩方からのアドバイスを受け入れず、己の信念を貫くということは並大抵のことではありません。陸遜にはそれだけの覚悟と自信があったのです。
陸遜の覚悟と勝利
■ 陸遜の覚悟と勝利
陸遜の覚悟と勝利
陸遜は命令に服従しない諸将に対し、剣に手をかけて叱咤しています。
「私が総司令官に命じられたのは、いかなる屈辱にも耐え重責を果たすであろうと見込まれたからだ。それぞれには任務がある。それぞれの持ち場で全力を尽くすべきであり、軍令違反は断固処罰する」と。
やがて長い対陣で劉備(玄徳)軍の疲れ切った隙を突き、陸遜は火計を用いて劉備を撃破します。劉備(玄徳)軍は数多くの将軍が戦死し、かつてないほどの大敗を喫することになるのです。
後に孫権が陸遜になぜ諸将の命令違反を報告してこなかったのかを問うたとき、
「諸将は国家の功臣であり、今後のことを考えたからです。私は私怨を棄て、国事を優先させたのです」と答えています。
孫権は感心し、陸遜を輔国将軍、荊州牧に任じ、江陵侯に封じました。
まとめ・陸遜の器量
■ まとめ・陸遜の器量
まとめ・陸遜の器量
陸遜の夷陵での戦い方、すなわち「敵が優勢、味方が劣勢なときは守りを固めて情勢の変化を待つ」という兵法が、将来の中国軍の基本的な戦い方となりました。
三国志正史を編纂した陳寿も、経験豊富で大軍を率いる劉備(玄徳)を、知名度もまだ低い陸遜が破ったことを感心しています。そして陸遜単独の伝をたてているのです。家臣の身分で正史に単独伝があるのは諸葛亮と陸遜の二人だけです。それだけの評価を受けていたことになります。正統な王朝は魏であり、また、生まれ故郷である蜀に対して思いのあった陳寿です。蜀の英雄である関羽や劉備(玄徳)を破った呉の将を絶賛することは考えられないのですが、どうやら陸遜だけは別格だったようです。
もし陸遜が夷陵の戦いで、諸将の反対意見に屈していたら、孫権軍は敗れて荊州を失っていたことでしょう。さらにほぼ同時期に曹丕軍は孫権の領土に攻め寄せており、孫権は滅亡していたかもしれません。そう考えると、陸遜をして「社稷の臣」であると最高の評価を受けていることも納得できます。
関羽、劉備(玄徳)を破った陸遜はまさに三国志のなかでもトップクラスに位置する名将といえるでしょう。