漢中の領民がたまたま見つけた玉璽が張魯(公祺)に届けられる
■ 漢中の領民がたまたま見つけた玉璽が張魯(公祺)に届けられる
漢中の領民がたまたま見つけた玉璽が張魯(公祺)に届けられる
ある時、漁をしていた漢中の領民が水辺から奇妙なモノを拾い上げます。ズシリと重く、多くの文字が堀込まれている。何か分からないが重要なモノに違いないと主君張魯(公祺)の下に届けられます。鑑定の結果、漢朝の玉璽であることが判明。張魯(公祺)を始め、漢中の重臣たちは大いに驚きます。
玉璽は皇帝の「ハンコ」です。漢の長い歴史の中で盗難や紛失があり、玉璽はいくつか作られている…という言い伝えがありました。そして、この玉璽を手にした者は後年、皇帝になる…という言い伝えまでありました。明らかに迷信です。「ハンコを手に入れたから皇帝になれる」のであれば苦労しません(笑)。しかし、この迷信は戦国の武将たちに魔性の輝きを与え続けます。
かつて孫堅(孫権の父)は見つけた玉璽を朝廷に献上せずに隠し持ち、孫一門の繁栄の象徴としました。袁術は頂上的な勘違いをし、玉璽を擁して皇帝を名乗ってしまいました(後年、周囲の諸将から総攻撃を受けて没落)
堕落した国内を憂い天下第一人者への帰順を画策
■ 堕落した国内を憂い天下第一人者への帰順を画策
堕落した国内を憂い天下第一人者への帰順を画策
蜀を統治していた劉璋(季玉)の悪政により、国内はそれ程豊かではなく、佞臣はびこる状態。長く戦乱もなく蜀の兵士は戦ったことすらない。蜀は天険の要害という地形により外部からの侵入を阻んでいるが、一旦破られれば、あっという間に崩壊。他国の侵入を許せば独力では国を守れない。それが蜀の現状でした。これを打開するために起死回生の策として「天下第一人者を蜀に招き、他国の侵入を防いでもらう」ということを思い立ちます。
そして、張松(永年)が選んだ「天下第一人者」とは曹操(孟徳)でした。
魏国を訪れた張松(永年)が見た曹操(孟徳)統治下の現実
■ 魏国を訪れた張松(永年)が見た曹操(孟徳)統治下の現実
魏国を訪れた張松(永年)が見た曹操(孟徳)統治下の現実
大いなる希望を胸に抱き、魏国を訪れた張松(永年)。曹操(孟徳)への謁見を役所に願い出ると「沙汰があるまで待たれるように」と指示されます。しかし、1日、2日…1週間待っても何の音沙汰もありません。張松(永年)が再び役所に願い出ると「曹操様への謁見を申し出る方は非常に多いため、すぐにという訳には…」という返事。やむなく宿舎に戻る張松(永年)。10日以上待ってようやく曹操(孟徳)に会うことができた…そんな扱いを受けます。さらに、ようやく謁見が叶った初見で、曹操(孟徳)は「蜀は何故朝廷に貢物を献上せぬのか」と一言。
賄賂を用意しなかった故の長期謁見待ち、初見での曹操(孟徳)の横柄な態度…「天下第一人者」という表向きの顔とは裏腹な乱れた国内の状況を張松(永年)はいち早く見抜いてしまいます。そして、脅しを目的で曹操(孟徳)は張松(永年)に軍を視察させます。「蜀にこれほどの軍があるか?」と尋ねる曹操(孟徳)に「蜀は人徳によって収めているので軍を必要としない」と言ってのけます。
要は「あなた(曹操)の国は人徳が行き届いていないから力(軍隊)で抑え込むしかない」と暗に言ったのですね。これに曹操(孟徳)は激怒します。そして張松(永年)は百叩きの計に処せられます。
曹操(孟徳)との決別 張松(永年)は荊州の劉備(玄徳)を訪ねる
■ 曹操(孟徳)との決別 張松(永年)は荊州の劉備(玄徳)を訪ねる
曹操(孟徳)との決別 張松(永年)は荊州の劉備(玄徳)を訪ねる
こんなヤツ(曹操)に国(蜀)を預けられない。そう悟った張松(永年)は早々に魏を立ち去り、荊州の劉備(玄徳)を訪ねます。そして、魏とは全く反対の扱いを受けます。
張松(永年)の旅の途中、荊州国境から数里離れたところで、一人の武将が張松(永年)を待ち構えていました。趙雲(子龍)です。「曹操軍百万の中を赤子(劉備の子:阿斗)を抱いて駆け抜けた人物としてその名を世に轟かせた武将」ですが張松(永年)は知らないようです(笑)。「張松(永年)様ですか?」と趙雲(子龍)に確認され、「いかにも」とやや上から応える張松(永年)…(冷汗)。なんと、荊州から「出迎え」が来たのです。
次に国境付近で待つ武将がいました。関羽(雲長)です。さすがに関羽のことは知っていた張松(永年)。早々に下馬して関羽(雲長)に挨拶します。しかし、関羽(雲長)は言います。「私は主君の命を受けた一武将に過ぎません。どうかお気になさらず」と関羽(雲長)までもが張松(永年)の下風に…。
関羽(雲長)、趙雲(子龍)の護衛に守られ荊州城に到着した張松(永年)の目に入ったのは城門前で整列して待つ一団。その中心に立つのは、まさしく劉備(玄徳)と諸葛亮(孔明)でした。
天下三分の計の行く手 劉備(玄徳)と蜀の初接触
■ 天下三分の計の行く手 劉備(玄徳)と蜀の初接触
天下三分の計の行く手 劉備(玄徳)と蜀の初接触
張松(永年)との出会い。それは劉備(玄徳)と蜀との初めての接触でした。張松(永年)は劉備(玄徳)の姿が見えるや否や下馬して平伏して言いました。「垢じみた賓客にご家中まで使わされ、このようなお気遣いを頂くとは夢にも思っておりませんでした」。しかし、劉備(玄徳)は答えます「張松(永年)様だけ特別という訳ではありません。私(劉備)は旅をされる方には、皆このようにもてなしているのです」。あくまで張松(永年)だけが特別ではないことを強調します。
曹操(孟徳)の冷遇を受けた後でしたから余計に…張松(永年)の目に劉備(玄徳)がどれだけ魅力的な君主に見えた事でしょう。
実はこの一連の「厚遇」はすべて諸葛亮(孔明)の策でした。諸葛亮(孔明)は密偵を使って蜀を探っていました。「漢中の張魯(公祺)に狙われ始めた蜀」⇒「他国に援助を求める動きをするであろう」ということを諸葛亮(孔明)は読んでいたのです。そして、張松(永年)が大いなる冷遇を曹操(孟徳)から受けたことを知り、「その真逆の待遇」を張松(永年)に行ったのです。
蜀の詳細な地図を劉備(玄徳)に託して帰国する張松(永年)
■ 蜀の詳細な地図を劉備(玄徳)に託して帰国する張松(永年)
蜀の詳細な地図を劉備(玄徳)に託して帰国する張松(永年)
張松(永年)は荊州に数日逗留しますが、一日として不愉快な思いをする事はありませんでした。劉備(玄徳)は、張松(永年)を十分にもてなしますが、不思議と蜀のことについて語ろうとしません。「劉備(玄徳)は蜀に興味をもたぬのか」と張松(永年)に思わせる程でした。結局、蜀の話をほとんどすることなく、張松(永年)が荊州から離れる日が来ましたが、張松(永年)の心は決まっていました。荊州城門前、別れの際、張松(永年)から話し始めます。
「私は蜀をお守りくださる方に国を献上したいと考え、曹操(孟徳)を尋ねましたが、彼はそれ相応にふさわしくない人物であったため、あなた(劉備)様をお尋ねした訳です。志あられるならば蜀をお取りください。」
そう言って「西蜀四十一州図」を劉備(玄徳)に渡して立ち去って行きます。乱世の時代に自国の詳細な地図を外部の者に渡すことが何を意味するのか…もちろん十分承知の上の行動です。張松(永年)は蜀の未来を天下第一人者の曹操(孟徳)ではなく、当時はまだ新興勢力だった劉備(玄徳)に託したのでした。
まとめ
■ まとめ
まとめ
後年、劉備(玄徳)は入蜀して蜀漢を打ち立てます。張松(永年)の思い描いた通りの蜀になるのですが、残念ながら劉備(玄徳)と再会することはありませんでした。ある時、張松(永年)は、荊州での出来事や、蜀を劉備(玄徳)に託そうとした経緯を酒に酔った勢いで彼の兄である張粛(君矯)に話してしまいます。
いくら実の弟とはいえ、いくら蜀の未来を守る大義名分があるとはいえ、やっていることは国家(劉璋が治める蜀)に対する反逆です。張粛(君矯)は自身にも責任が及び事を恐れ、劉璋に密告します。そして張松(永年)はあえなく打ち首となってしまうのです。