三国志演義の序章 黄巾の乱を徹底解説

三国志演義の序章 黄巾の乱を徹底解説

三国志にはさまざまな合戦や反乱などで群雄たちが領土拡大や政権掌握を理由に争いあいます。本記事では三国志演義の始まりとなる黄巾の乱について解説します。


政治が荒廃し乱世が始まる

政治が荒廃し乱世が始まる

政治が荒廃し乱世が始まる

後漢王朝末期の桓帝と霊帝の在任期になると皇帝は政治にまったく興味を示さなくなり、それに代わって外戚と宦官が実質上政治を欲しいままにすることになりました。しかし、両者は権力争いに明け暮れ、庶民を顧みることはなく、後漢王朝の治世は揺れに揺れました。その現実を見ていても経ってもいられないような人々が現れます。中国史上では清純派と呼ばれる諸子百家の思想を修めた知識人たちです。政治に無関心な皇帝や汚濁政治を実行する外戚と宦官に対し、政治のやり方を批判。その後実力行使のため、清純派の知識人たちは打倒宦官のクーデーターを画策するのですが、作戦決行前に計画が露呈し失敗します。その後、宦官たちは目の上のたんこぶだった清純派の知識人たちをクーデター計画を理由にして2度に渡る粛清を断行しました。これが、党錮の禁という事件です。すると、清純派の知識人たちは再び行われるであろう粛清を恐れたり、活躍の場を失ったことで官職を辞任し故郷に帰るか、在野の士として隠居をして政治から身を引きました。
邪魔をする者がいなくなったことで外戚と宦官による汚濁政治はますますひどくなっていく一方でした。それに加えて度重なる異民族からの反乱により財政が悪化したこともあって旱魃や水害の被害に苦しむ農民たちを王朝は見捨てました。王朝から見捨てられたことで、人々の心は完全に王朝から離れてしまいました。

張角新興宗教の太平道を立てる

張角新興宗教の太平道を立てる

張角新興宗教の太平道を立てる

このような乱れた世の中で人々が苦しんでいる間に冀州出身の張角が自らを大賢良師と称して太平道という新興宗教を立てます。張角は五斗米道という新興宗教を起こした于吉から入手した「太平清領書」と道教の「太平経」をもとにして太平道を編み出し、西暦170年に布教を開始します。「罪を懺悔し、祈祷を捧げた水を飲めば病が癒える」と触れ回って、続々と信者を獲得していきました。汚濁政治によって社会が不安定になっていたこともあり、太平道は幽州、冀州、豫洲を始めとする8州へと広がっていき、秦じゃの数も10万人にふくれ上がりました。教団が大きくなるにつれ、いつしか太平道は独立国家を建設することを目標とすることになります。信徒を36もの支部へ分け、渠師と呼ばれる指導者を置いて組織化を図り結束力を高めようとしました。そしてこの素朴な宗教組織が刃を振るって朝廷に楯突く巨大なレジスタンス勢力へと成長するのです。

太平道の主導者張角 黄巾の乱を起こす

太平道の主導者張角 黄巾の乱を起こす

太平道の主導者張角 黄巾の乱を起こす

2度に渡る党錮の禁から15年後の西暦184年、ついに張角は朝廷に対して自らの信者を引き連れ反乱を起こし、自分たちの理想国家建設を実現しようとします。太平道の信者たちは「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」というスローガンを掲げ、頭や首には黄巾の由来となる黄色い頭巾を巻いて戦いました。当初黄巾の乱は西暦184年3月5日と決まっていたのですが、弟子が寝返って密告したため急遽全国に檄を飛ばして一斉蜂起を促しました。正史三国志の注釈には張角が挙兵すると、黒山や白波、黄龍、牛角、飛燕といった各地の賊徒が呼応して反乱に加担したとされています。加担した賊徒の数は多いものは2~3万、少ない者でも数千は下らなかったというので合計するととんでもない数でした。
これに慌てた朝廷は外戚の何進を大将軍に任じて首都洛陽の防備を固めさせました。また盧植を北中郎将に任命して張角のいる太平道の本拠地を攻めさせました。

黄巾党と官軍の戦い

黄巾党と官軍の戦い

黄巾党と官軍の戦い

太平道の信者たちは黄色い布をシンボルマークとしていたので、黄巾党と呼ばれています。黄巾党討伐の命を霊帝から下命された盧植は用兵に長け、また文徳の才も兼ねそろえる文武両道な武将です。盧植は張角を攻め立てて広宗へ追いやり、籠城する張角軍に塹壕をほったり、梯子車を使用するなど今にも城を落としそうな勢いでした。しかし、盧植は戦場の視察に来ていた宦官に賄賂を提供しなかったがために霊帝に讒言が報告されて貶められてしまいます。
霊帝は盧植を捕らえ、罪人を乗せる馬車に乗せ都まで強制送還させました。その後、董卓が中郎将へ任じられて黄巾党の討伐に向かいますが、敗北を喫してしまうなど鎮圧作戦は容易に進めることができませんでした。
この頃、地方に派遣されていた皇甫嵩と朱儁は、黄巾軍の波才を劣勢ながらも火計を用いて破ることに成功しています。その後朱儁は南陽で蜂起した黄巾軍を討伐するため、宛城へと向かい、指揮下にあった孫堅(文台)とともにこれを見事壊滅させます。朝廷は兗州で賊軍討伐に活躍していた皇甫嵩を董卓に替えて広宗に派遣しています。

黄巾党の乱への義勇軍の参加

黄巾党の乱への義勇軍の参加

黄巾党の乱への義勇軍の参加

することができたのはなんといっても朝廷からの義勇軍の募集にあります。
一般庶民から兵士を募らなければならないほど、官軍は人手不足だったのかと聞かれると答えは否。当時官軍には黄巾党を優に超す人数の兵士や将軍がいました。ところが、桓帝や霊帝が私服を肥やそうと売官や宦官を重用してしまったがために、働きたがらない軍人たちが多くいました。
売官や親の七光りで官軍に入った連中は肩書ばかりで何もできない無能な連中は日々の訓練を怠り、普段は威張り散らしておきながらいざ有事となるとみな尻込みをして討伐に向かうことを嫌がりました。本来であれば皇帝の命令を中央にいる官軍が携え地方の官軍に檄を発しなければならないのに、当の官軍中枢が全く機能しなかったので、皇帝は本来文官として働いていた盧植を派遣したり、地方の官軍を指揮する董卓、皇甫嵩、朱儁に任せることしかできなかったのです。
幸い義勇軍の募集があったことで後に三国の一つとなる蜀漢は生まれることができたのですが、一般庶民の力と各地の群雄たちの手により黄巾党は鎮圧されました。

まとめ

まとめ

まとめ

三国志演義の序章である黄巾の乱は外戚や宦官による汚濁政治により国が乱れ、圧政に耐えかねた民衆が新興宗教を心のよりどころにして自分たちの理想国家を作ろうとして起こりました。
漢の朝廷が真摯に課題解決に取り組み、皇帝自身が自ら責任を持って政治に当たっていたら、このような惨劇は起きることはなかったでしょう。


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