孫策との出会い
■ 孫策との出会い
孫策との出会い
周瑜の生まれは揚州廬江郡舒県。この舒県の周氏は高官を輩出した揚州では名門の家柄で、周瑜の父も洛陽の県令でした。
この周家に、黄巾の乱及び董卓討伐のために華北へ赴く孫堅の妻と子である孫策が移住したことが、孫策と周瑜の交流の始まりです。
孫堅は呉郡の小豪族の出身ですが、孫堅以前の一族にどのような人がいたかはっきりとせず、周氏に比べればかなり劣る家柄でした。ゆえに経済的な基盤もなく、孫堅も当時豪族の中でもトップクラスの名門家だった袁術に依存しての参戦だったのです。
その孫堅がなぜ周氏に妻子を預けるような関係になったのかはよくわかっていません。
ですが、同じ年齢だった孫策と周瑜が幼い時を過ごした5年ほどの期間、この時代があったからこそ後の孫策の飛躍とその後の孫氏の興隆があったことは間違いないでしょう。
孫策との別離と再会
■ 孫策との別離と再会
孫策との別離と再会
西暦192年。孫策の父である孫堅が戦死し、孫策は周氏から離れて東の江都に移ります。
西暦194年。20歳の孫策は袁術陣営に参じ、その命を受けてさまざまな戦に出向き功績をあげますが、報われることはなく、不遇の時代を送っていました。
周瑜が孫策と再会したのは、その頃のことです。
孫策は袁術の許しを得て長江の南の揚州支配を目論み、曲阿に本拠を置く劉繇の攻撃に向かいます。同じ頃にこの地域で袁術から太守に任命されたのが周瑜の従父でした。周瑜はこの従父を訪ねた時に孫策からの手紙を受け取り、軍勢を率いて孫策に合流しました。この時の周瑜は軍勢や艦船、食料等の物資も用意しています。孫策は周瑜という才能ある友との再会を喜んだのはもちろん、この軍勢の支援も大いに助かったことでしょう。
孫策は合流した周瑜に「君を得たことで事業に目処が付いた」と喜びます。
経済的な基盤を持たなかった孫策にとって名家である周家の協力が得られたこともその後の大躍進に繋がったのです。
「小覇王」孫策とともに
■ 「小覇王」孫策とともに
「小覇王」孫策とともに
孫策は周瑜を伴って進軍し劉繇を敗走させます。その後孫策はさらに東へ進軍して勢力を拡大する一方で、周瑜は丹陽へ戻って防御を固め、支配の維持に努めました。
が、周瑜は突然に袁術から呼び戻されます。まだ袁術に反する力を持たない周瑜はこれに従います。この時に袁紹は周瑜を家臣にしようとしますが、周瑜は袁術のもとを去るために理由をつけて県長になりたいと請願しました。これが聞き入れられると県長として赴任先に向かい時機を見て孫策のいる呉郡へ帰ります。
孫策は周瑜が戻ってくると大歓迎し、軍勢や騎馬も与えるなど特別な待遇で迎えました。その時の孫策は「丹陽にいた時は周瑜の用意した軍勢と物資で大事業を成し得た。功績に報いたいがこれでもまだ充分ではない」と述べています。周瑜の他にも袁術の下にいた孫策の関係者は脱出し、これをもって孫策とともに周瑜も完全に袁術から独立したのです。
孫策の元に戻った周瑜は、その後すぐに袁紹に備える地へ出向し守備にあたるなど、しばらくは孫策の後方支援の役割を果たします。が、孫策が西の荊州方面への攻略に乗り出すと周瑜も主力部隊として主力を統率して前線へ出陣し、次々と勝利を収めます。揚州北部の皖城を攻略した際には美人姉妹として有名な大喬・小喬が捕虜となり、孫策が大喬を周瑜が小喬を娶りました。
この頃の孫策・周瑜の統率による進軍はめざましく、まさに断金の契りで結ばれた2人の才能が遺憾なく発揮された進軍だったのかもしれません。
友の死
■ 友の死
友の死
孫策・周瑜26歳。廬江や豫章を平定した同年に、孫策は刺客に刺されて後に病死するという謎の死を遂げ、跡を弟の孫堅が継ぎました。
周瑜は軍を率いて孫策の葬儀に駆けつけてそのまま呉に留まり、さなざまな事務をとりしきります。内政面は張昭が、軍事面は周瑜が管轄しました。
跡をついだばかりの孫権は19歳でまだ若く臣下から軽んじられることもありましたが、周瑜は孫権に対して積極的に丁重な臣下の礼をとり、周囲もそれに倣うようになります。周瑜が率先して君臣の立場を明確にしたことで、跡をついだ孫権の優位性を示したのです。
赤壁の戦い
■ 赤壁の戦い
赤壁の戦い
西暦208年。曹操が荊州に侵攻し孫権の支配領域に迫ります。孫権の臣下たちで曹操への対処を検討する会議が開かれますが、そこで大勢を占めていたのは曹操へ降伏するという意見でした。その時周瑜は外出していて会議に出席していませんでしたが、孫権から帰還を指示する書簡を受け取り戻ります。そこで再び開かれた会議で周瑜は以下のように曹操軍の内情を分析し数々の不利があること、自軍の有利を説きます。
・曹操軍は船による水軍戦に不慣れで我軍と対等に勝負することなどできない。、
・北方は平安でなく曹操には馬超・韓遂という外患がある。
・今は冬で馬の餌になる草もなく、その状態で来れば水や土に慣れず必ず疫病が発生する。
・曹操軍80万というが実際は15、6万人に過ぎず、荊州で増えた軍勢も7、8万である。
これにより君主孫権は曹操に抗戦することを決断しました。
この戦いが有名な「赤壁の戦い」になります。
上記に書いた周瑜の分析はほぼ当たり、黄蓋の献策も取り入れて、赤壁の戦いに置ける水軍戦では大勝利をおさめます。
(小説などでよく見る『演義』を元にした赤壁の戦い、劉備(玄徳)陣営の諸葛孔明が戦のほぼ全てを取り仕切っていますが、正史での劉備劉備(玄徳)陣営はこの戦闘に参加した記録がほとんどありません)
周瑜の負傷・劉備(玄徳)への不信
■ 周瑜の負傷・劉備(玄徳)への不信
周瑜の負傷・劉備(玄徳)への不信
赤壁戦後、周瑜は長江流域から曹操軍を駆逐すべくさらに長江上流に進軍して、ここでは劉備(玄徳)軍と協力して進軍します。
この攻略戦で曹操陣営の曹仁の軍と交戦中に周瑜は矢を受け、ひどい傷を負い起き上がれない状態になりました。その情報を聞いた曹仁はすかさず周瑜の陣へ迫ります。すると周瑜は痛みに耐えながら自力で起き上がり、軍営の兵士を激励しました。曹仁はそれを見て江陵を撤退します。
江陵戦の後に劉備(玄徳)が土地の割譲を求めるために孫権の元を訪れると、周瑜は劉備(玄徳)への土地の割譲に反対し、劉備(玄徳)を帰さず呉にとどめおくことを進言しますが、孫権は「曹操に対抗するためには多くの英雄を集める必要がある」「劉備(玄徳)を止めおいて制御することはできないだろう」と周瑜の意見を却下します。
周瑜の死
■ 周瑜の死
周瑜の死
周瑜はさらに、曹操は赤壁戦で疲弊して軍事行動を起こさないと判断した上で、西の蜀を占領してそこに孫一族の孫瑜に任せ、周瑜自身は襄陽から北へ曹操を攻めることを計画し、孫権に提案しました。言ってみれば、南側の呉と蜀を孫権軍が支配し北の曹操と対峙する天下二分の計ともいえるものです。
孫権はその提案を受け入れ、周瑜は紅陵に戻り遠征の準備に取り掛かろうとします。
しかしその途中に巴丘にて病死しました。西暦210年、30歳のことです。
これによって蜀の占領計画は中止。後にその地は劉備が占領し、天下三分となったのです。
周瑜はどんな人物だったのか
■ 周瑜はどんな人物だったのか
周瑜はどんな人物だったのか
周瑜は『三国志演義』では「美周郎」と書かれるほど眉目秀麗な容姿であったといわれ、女性のファンも多い人物です。
しかし『演義』では蜀の劉備中心の視点で書かれ、これを元にしている後の創作物が多いこともあり、周瑜は諸葛孔明に常に先読みされた器の小さい人物のようなイメージも持たれてしまっています。
実際は、孫策時代には周瑜がいたからこそ激的な江東支配を推し進められたとも言えますし、赤壁の大勝利は周瑜の采配によるもので、その才能は曹操の目にもとまり勧誘を受けるほどのものでした。
新君主となった孫権に対して驕ることなく自ら君臣の礼を尽くすなど、周囲にもよく気を配る人物であったこともわかります。
周瑜死亡を聞いた孫権は嘆き悲しみ「周瑜は王佐の資質を持っていたのに、今後は何を頼ればいいのか」「周瑜がいなければ皇帝になりえなかった」と言いました。
孫策時代から功績があり影響力をもっていたにも関わらず、孫策死亡直後には地位が危うかった皇帝孫権の下でも政治的な野心は一切見えず、常に軍師や軍事統括といった武官として孫氏を補佐した周瑜はまさに王佐の才を持っていたのです。