桃園の誓い から生涯 関羽(雲長)の相棒となった青龍偃月刀

桃園の誓い から生涯 関羽(雲長)の相棒となった青龍偃月刀

関羽(雲長)は桃園の誓い にて劉備(玄徳)らと義兄弟の契りを交わして以降、青龍偃月刀を愛刀としました。軍神と言われるほどの関羽(雲長)の活躍は関羽(雲長)個人の実力だけでなく、青龍偃月刀という武器が優れていたからと言っても過言ではありません。


軍神関羽(雲長)の愛刀

軍神関羽(雲長)の愛刀

軍神関羽(雲長)の愛刀

軍神関羽(雲長)が愛用していた青龍偃月刀はその名を「冷艶鋸(れいえんきょ)」と言い、黄巾党の乱に参加する際に作らせて以降、生涯相棒として使用した大刀です。関羽(雲長)は桃園の誓いで劉備(玄徳)、張飛(翼徳)と義兄弟の契りを交わして黄巾党の乱に参加して以降、死ぬまで青龍偃月刀を愛刀としました。関羽(雲長)自体、人並み以上の腕力や武術の腕前を誇る武将ですが、彼のその活躍は青龍偃月刀なしでは語ることができません。本記事では、関羽(雲長)の愛刀である青龍偃月刀について解説していきます。

青龍が宿る超ヘビー級武器

青龍が宿る超ヘビー級武器

青龍が宿る超ヘビー級武器

関羽(雲長)の愛刀、青龍偃月刀の形状は長い柄の先端に大きく湾曲した片刃の刃を取りつけた薙刀のような武器でした。重さは82斤とあるので当時の度量衡換算だと約48kgという重さです。刃には青龍を象った装飾が施されていたので、それにちなんで青龍の名を冠するようになりました。しかし、当の持主である関羽(雲長)が青龍偃月刀と呼んでいた記録は一切なく、この武器を「冷艶鋸(れいえんきょ)」と呼んでいました。有名な武将である関羽(雲長)が使用していた武器なので、名のある名匠が鍛えた逸品なのかと思いきや青龍偃月刀を作ったは涿県のとある村で鍛冶屋を営んでいた職人であると言います。この職人は関羽(雲長)の青龍偃月刀だけでなく張飛(翼徳)の愛刀の蛇矛(じゃぼう)や劉備(玄徳)の愛刀雌雄一対の剣を鍛えた職人です。一人で蜀の礎を築く三名の愛刀をこの世に生み出すのですが、残念ながらこの職人の名前やその後のことについても一切伝わっていません。

三国志演義に青龍偃月刀が登場するシーン

三国志演義に青龍偃月刀が登場するシーン

三国志演義に青龍偃月刀が登場するシーン

青龍偃月刀が三国志演義の話中に登場するのは、桃園の誓いにて義兄弟の契りを交わした劉備(玄徳)、関羽(雲長)、張飛(翼徳)が馬を売りに来ていた商人の張世平から多額の融資や馬、鋼などをもらい受けて黄巾の乱に向けて本格的な準備に取り掛かるころです。先ほども記事に登場させた涿県の鍛冶屋の職人が関羽(雲長)が特注した青龍偃月刀を打っていると雷鳴が轟き、窯の中にくべた大刀目がけてズドーンと落ちてきました。職人が大刀を取り出して水で冷やすと、青龍がまるで刃を飲み込んでいるような装飾が付いていたので、「青龍がこの武器に宿った」と報告したと言われています。また、青龍偃月刀に関する民間伝承の伝説は他にもあり、雷鳴とともに天から青龍偃月刀が落ちてきて、誰にも抜くことができなかったのに関羽(雲長)だけが抜くことができたとするもの。関羽(雲長)が人を殺めて逃避行をしている最中に水を求めてやってきた泉から青龍偃月刀が現れ、「水の守り神青龍から赤龍帝の化身への贈り物である」と泉が語りかけたというものもあります。

劉備(玄徳)を支えた武の要

劉備(玄徳)を支えた武の要

劉備(玄徳)を支えた武の要

関羽(雲長)は劉備(玄徳)が旗揚げした以来から忠実に付き従ってきた武将で、抜群の武勇と鉄の忠誠心で有名な人物です。彼に打ち取られた名のある武将は数知れず、董卓軍の華雄や袁紹(本初)配下の顔良、曹操軍の龐徳などの一流の武将たちを打ち負かしています。三国志最強といわれる呂布(奉先)の死後は関羽(雲長)の右に出るものはいないと言われるほどの武人でした。呂布(奉先)の愛馬だった赤兎馬は曹操(孟徳)の手に一度渡り、劉備(玄徳)と生き別れて条件つきで幕下に加わった関羽(雲長)へ贈られました。赤兎馬を得た関羽(雲長)は「これで兄者のもとへすぐに行ける」と大変喜び、魏軍の武将たちの怒りを招くことになります。赤兎馬と青龍偃月刀を我が物とした関羽(雲長)はまさに鬼に金棒状態。誰も太刀打ちできない猛将としてさらなる飛躍を遂げることになりました。

関羽(雲長)の死後、青龍偃月刀は?

関羽(雲長)の死後、青龍偃月刀は?

関羽(雲長)の死後、青龍偃月刀は?

呉の武将 潘璋の手に一度渡る

呉の武将 潘璋の手に一度渡る

呉の武将 潘璋の手に一度渡る

関羽(雲長)は剛勇さから慢心を招いたのか、荊州を守っていた際に呉軍を侮り、魏に攻め入った隙を狙われて本城を奪われてしまいます。さらに彼を苦しめたのが、なんと味方である武将や劉備(玄徳)の養子でした。救援の要請をしても援軍を差し向けることをせず、「こっちも自分の城を守らないといけないから」などと適当な理由をつけて援軍要請を拒み続けました。また、いてつく島もなくなった関羽(雲長)とその配下が同僚の城へ助けを求めて訪れた際には、「うちにある食料も少ないので、受け入れるわけにはいかいない」と入城することを拒否しました。関羽(雲長)は味方からの援助も受けられず、進退窮まった状況下で呂蒙(子明)と対峙することとなり、結果として捕虜となるのですが、降伏することを拒んだためその場で斬首されました。関羽(雲長)の死後、長兄の劉備(玄徳)は嘆き悲しみ、関羽(雲長)の援軍要請を断った養子や部下を処刑しました。そして復讐の鬼へと変貌するのです。そして持主を打ちなった青龍偃月刀はというと、関羽(雲長)を捕らえた褒美として呉の潘璋に与えられました。赤兎馬も潘璋に与えられたのですが、赤兎馬は潘璋だけでなく他の誰も背中に乗せることを拒み、エサをまったく口にせずついに絶命します。

父の仇を討ち、青龍偃月刀を奪還した関興

父の仇を討ち、青龍偃月刀を奪還した関興

父の仇を討ち、青龍偃月刀を奪還した関興

関興は関羽(雲長)の第2子であるとされている人物です。長兄の関平は最後まで父の関羽(雲長)と行動をともにし、父親が斬首されたときも連座して関羽(雲長)のあとを追いました。父と兄の仇となった呉を討つべく、関興は血の涙を流して復讐を誓います。呉の潘璋に関羽(雲長)を捕らえた褒美として青龍偃月刀が与えられたという情報を聞きつけると、関興は戦場で潘璋を昼夜を問わず執拗に追い回しました。そして、民家で休息していた潘璋を発見すると彼を討ち取って青龍偃月刀を奪還するのです。関興はその後、蜀の将軍として北伐に参加し司馬懿(仲達)が指揮する魏軍と衝突します。若くて経験不足だった関興は戦場でたびたび危機に晒されるのですが、そうしたときには関羽(雲長)の怨霊が出現して息子を守ったとされています。しかし、蜀の時代を担う人材として期待のまなざしを集めていた関興は若くして病死してしまいます。関興の死後、青龍偃月刀を相続されたことについては一切記述がなく、軍神関羽(雲長)の愛刀青龍偃月刀は次男の関興の死亡とともにその消息を絶ってしまいました。

まとめ

まとめ

まとめ

後世には関羽(雲長)の子孫であるとする人物が登場する小説がいくつも書かれ、その代表的な作品は水滸伝です。水滸伝には関羽(雲長)の子孫と称する関勝というキャラクターが登場し、青龍偃月刀の使い手であると書かれています。
関羽(雲長)の愛刀である青龍偃月刀は後世の人々の手によって、伝え聞いた情報をもとに何度か復元されました。そのひとつは関羽(雲長)を祀る関帝廟へ彼の像とともに奉納されており、一般公開もされています。





この記事の三国志ライター

関連する投稿


英雄たちの物語はここから始まった!「桃園の誓い」とは?

三国志は今から約1800年前、昔の中国の史実です。(史実を元にした小説でもあります。)役人のわいろなどが横行し、治安の乱れた世を正そうと同じ志を持った若者3人が出合うところから三国志ははじまります。この出会いのシーンで最も有名なのが「桃園の誓い」なのです。


まるでコント!語り継がれてきた 桃園の誓い 三兄弟の姿とは?

『三国志演義』には作者・羅貫中の創作がさまざま盛り込まれており、劉備(玄徳と関羽、張飛の3人が志を確かめ合い、義兄弟の契りを交わす“桃園の誓い”もそのひとつ。羅貫中は民間伝承も参考にしたそうなのですが……。さて、桃園の誓い、桃園三兄弟は中国の人々の間でどのように語り継がれてきたのでしょうか?


魏軍武勇筆頭! 義にも厚かった猛将・張遼

曹操配下の将軍の中でもトップクラスの評価を受けるのが張遼だ。幾度か主君を変えた後に曹操に巡り合い、武名を大いに轟かせる。最後まで前線に立ち続けた武人の生涯をたどる。


女性目線から見た「関雲長」曹操と関羽

関羽、男として魅力的。義の人、一騎当千。曹操、悪党のイメージ強いです(泣)。策略家、女好き、等関羽に比べあまり印象が良くないです。この二人を主人公にした映画から、曹操の片思いに重点を置いて観てみようというこの企画。宜しかったら最後までお付きお願いします。


関羽死す! 魏・呉・蜀が死闘を繰り広げた「樊城の戦い」

 西暦219年、樊城の戦いで関羽が戦死した。関羽は、魏軍の守る荊州の樊城を攻め、于禁らを破った。しかし、呉軍の呂蒙らが魏に呼応して関羽の背後を突き、関羽は捕らえられて斬られた。なぜ、関羽は孫権の裏切りにあって殺されなければならなかったのか。複雑な戦いの経過を紹介する。


最新の投稿


春秋戦国時代 伍子胥の人生について

伍子胥(ごししょ)は、中国の春秋時代に活躍した楚の武人です。彼の本名は員(うん)で、楚の平王によって父と兄が殺されたため、復讐を誓いました。彼は呉に亡命し、楚との戦いで、ついに復讐を果たしました。しかし、後に呉王夫差が越王勾践を破った際、降伏を許そうとする夫差に反対し、意見が受け入れられず、自害させられました。


孫氏の兵法の孫武(そんぶ)とは?

『孫氏の兵法』における「孫氏」とは、古代中国の軍事思想家である孫武です。兵法書『孫子』を著し、戦争や軍事戦略に関する理論を全13篇から構成。特に「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」が有名で、戦争を避けることが最も優れた戦略であると説いています。 参考:ドラマ 孫子兵法 ‧


『キングダム』における羌瘣とは?

羌瘣は、漫画『キングダム』に登場する架空のキャラクターです。彼女は羌族出身の少女で、精鋭の暗殺者集団「蚩尤(しゆう)」に属していました。彼女は、原作、映画においても非常に魅力的なキャラクターです。その環境や周辺を史実を参考に紐解いてみます。


赤兎馬とは? 三国志初心者必見 三国志における名馬の物語

赤兎馬とは、三国志演義などの創作に登場する伝説の名馬で、実際の存在については確証がなく、アハルテケ種がモデルとされています。体が大きく、董卓、関羽、呂布など、三国時代の最強の武将を乗せて戦場を駆け抜けました。


春秋戦国時代 年表 キングダム 秦の始皇帝の時代の始まり

キングダム 大将軍の帰還 始まりますね。楽しみにしていました。 今回は、秦の始皇帝「嬴政」が、中華統一を果たす流れについて記述しようと思います。映画、キングダムのキャストの性格とは若干違うかもしれませんが、参考程度に読んでみてください。


アクセスランキング


>>総合人気ランキング