劉備(玄徳)はなぜ天下を取れなかった?足りなかったものとは?
三国志で人気の君主と言えば、劉備(玄徳)ではないでしょうか。関羽や張飛、諸葛亮など多くの部下がおり、魅力的な劉備(玄徳)。それだけに、天下を取って欲しかったという方も多いのではないでしょうか。そこで今回は、なぜ劉備(玄徳)は天下を取れなかったのか、そして足りなかったものは何なのかを紹介していきます。
演義ファンの方は「魏の国の名将は?」と聞かれたら、真っ先に答えるのは張遼でしょう。続いて徐晃、そして張郃と言ったところでしょうか。実際、この三人と楽進・于禁を合わせた五人が一つの列伝にまとめられており、魏の五虎大将軍と言っていい存在です。その中でも、もっとも後の時代まで活躍したのが張郃です。
三国志を知る上で重要になってくるのは戦いなどの流れと個々の武将のエピソードを知ることです。そして三国志をより楽しみたいという人は後者のエピソードを探ることをお勧めします。中にはあだ名がついている武将がいるので「なぜそのあだ名になったのか」「あだ名をつけた人は誰なのか」というのを抑えるとより楽しむことができます。
曹操を支えた名将・夏侯惇と夏侯淵の三国志演義での活躍ぶりを振り返ってみましょう。はたしてどのような一騎打ちを演じているのでしょうか?
三国志に登場する人物には名前や字の他にあだ名がつけられる者もいました。ここでは君主と軍師についてのあだ名について紹介します。「伏龍」や「鳳雛」というあだ名を聞いてそれが誰を指すのかが理解できたら三国志通と言っても過言ではありません。さらになぜそういうあだ名になったのかという事も紹介したいと思います。
三国志・魏の名将である張郃が一騎打ちでほとんど勝てていないのはなぜか?
魏の名将である張郃、その功績は三国志正史にしっかりと記されています。しかし一方で、三国志演義ではその強さを発揮できずにいます。張郃の一騎打ちの戦歴を紐解いてみましょう。
三国志を題材にしたゲームや小説・漫画で多いのは劉備(玄徳)あるいは諸葛亮を主人公とした作品です。やはり蜀漢を正当な王朝として考えるのが架空の話の中では流行りなのでしょう。その場合、ラスボスに当たるのは誰でしょうか?董卓や曹操が悪役でそれになることもありますが、圧倒的に多いのは司馬懿です。何故、彼はそのようなポジションになるのでしょうか?
三国志は様々なエピソードがあり、教訓になるものが多々あります。なかでも、ピンチでの対応は三国志から学ぶことができるのです。そこで今回は、三国志からピンチを切り抜ける方法や考え方について紹介していきたいと思います。
三国志最強の武将「呂布」。しかし、三国志演義に登場する呂布の一騎打ちの結果はイマイチです。その対戦内容を見ていきましょう。
三国志演義、序盤から数々の見せ場があります。その中で印象深いものの一つが曹操による徐州での大虐殺でしょう。父親を殺された曹操が復讐のために徐州に攻め入り、劉備がわずかの援軍を率いてやってくる。二人の対称的な姿が映し出されます。その後、呂布や袁術が絡んできて、複雑な人間模様が描かれます。では、正史の徐州での攻防はどのようなものだったのでしょうか?
三国志に登場する人物はカッコイイですが、実は失敗も多いです。ダメ上司が多くおり、反面教師にすることができます。そこで今回は、魏・呉・蜀のダメ上司を紹介していきたいと思います。ぜひ、反面教師にしてみてください。
魏の策略家として名が挙がるのは荀彧や荀攸を筆頭に大勢の文官が揃っていました。しかし、その中でも飛びぬけて出世し、後に魏を倒して晋を建国するまでに至ったのは司馬懿の功績が強かったといえます。一時代を築いた司馬懿の功績をここで紹介していきます。
後漢王朝の最期の皇帝となった献帝は、戦乱の洛陽を逃れ、曹操を頼るようになります。聡明な曹操は一見救世主のように映りますが、側近らが心配していたように権力を握ってしまいます。曹操の庇護下に置かれてからの献帝の行く末をみていきましょう。
日本人の中には、三国志ファンが多くいます。日本史よりも三国志が好きな人もいるほどです。中国の歴史である三国志がなぜ日本で人気なのでしょうか。そこで今回は、日本で三国志が受け入れられる理由を紹介していきたいと思います。
中国統一を果たせなかったとは言え、曹操の魏国は中国の七割を支配しました。その途中で最大の敵となったのは北方の名門袁紹一族でした。曹操と袁紹の一大決戦「官渡の戦い」。狭義では官渡の地での決戦のみを示しますが、広義では曹操と袁紹の戦い一連を表します。ここでは広義の「官渡の戦い」を見ていきます。
劉、曹、孫一族など皇帝を輩出した一族を筆頭として、三国志ではいくつかの一族が台頭します。曹操(孟徳)によって滅ぼされた袁一族、三国志の最終的な勝者となった司馬一族、そして、西涼から立ち上がり一時は長安を占領した馬一族もそのひとつです。三国志後半の蜀漢において重要な役割を果たす馬一族の活躍ぶりを見て行きます。
今さら聞けない三国志の疑問「どんな時代の話?なぜこんなにも面白い?」
三国志の小説やドラマなどをひと通り見てきたけれど、話の内容はだいたい理解できているが時代背景や物語の進み方が蜀目線で進められていることに疑問がある方はどれくらいいるでしょう? 本記事ではそのような今さら聞けない三国志の疑問についてご説明いたします。
蜀が建国された当初は、諸葛亮も健在で他国に脅威となっていました。しかし、諸葛亮の没後は、魏に攻められることもあり、蜀は安泰とはいえない存在となっていきます。その中で蜀を守り抜いた最大の功労者ともいえるのが王平です。その実力をみていきましょう。
魯粛に認められていく呂蒙は、曹操や関羽とも対決していき、徐々に名を天下に知らしめていきます。孫権からの信頼も厚くなっていくさまは、周瑜にも匹敵する将軍であることを意味していきます。ここでは呉の重鎮となっていく呂蒙をみていきます。
三国志・荀彧はなぜ曹操に仕えたのか?荀一族は意図的に分かれた
「吾の子房なり」と曹操に認められた「荀彧」。名門の出自で、同族は董卓や袁紹などに仕えています。荀彧はなぜ、小勢力である曹操に仕えたのでしょうか?