官渡の戦い--天下の行方を決めた!?

官渡の戦い--天下の行方を決めた!?

中国統一を果たせなかったとは言え、曹操の魏国は中国の七割を支配しました。その途中で最大の敵となったのは北方の名門袁紹一族でした。曹操と袁紹の一大決戦「官渡の戦い」。狭義では官渡の地での決戦のみを示しますが、広義では曹操と袁紹の戦い一連を表します。ここでは広義の「官渡の戦い」を見ていきます。


戦いの前--情報戦・調略戦

呂布・袁術・公孫瓚らが滅びたことにより、中国北方の覇権は曹操と袁紹によって争われることになりました。今も昔も、戦争で重要なのは直接の戦闘よりもいかに周りの国・人間を味方につけ、相手の敵に出来るかです。南方の大勢力である劉表は袁紹に、同じく孫策は曹操に味方します。また、西方の馬騰らは直接戦闘加わるのは、もう少し後で、曹操と袁紹の子供が戦う時ですが、曹操の味方をします。
劉備(玄徳)が徐州で反乱を起こします。袁紹の参謀である田豊は
「この機会に都に攻め入りましょう」
と進言しますが、袁紹は息子(袁尚)の病気を理由にこれを断ります。田豊は杖で地面を叩いて悔しがったそうです。その結果、劉備(玄徳)は敗れ、袁紹の元へ逃れ、関羽は曹操に降伏します。
その後、袁紹が曹操との決戦をついに決断し、作戦会議を開きます。田豊と沮授は持久戦を主張します。田豊の言い分は
「曹操が劉備(玄徳)を破ってしまったため、既に都は空ではありません。ここは持久戦でじっくり攻めるべきです。」
でした。一方郭図と審配は速戦即決を主張します。その根拠は
「我軍の方が曹操軍より圧倒的に兵力が多く、勢いがあるので、一気に勝負を決めるべきです」
というものでした。名門である袁紹は自分たちのほうが強いという言葉に酔ったのでしょう。郭図達の策を取り入れます。そして、全軍の士気を損なったという理由で田豊は投獄されてしまいます。曹操はそれを聞き、
「袁紹はきっと自滅するぞ」
と喜んだそうです。
袁紹は名文家として名高い陳琳に曹操打倒の檄文を作らせ、発表します。曹操はその文章を読むと
「陳琳が書いた曹操のしたことを読むと、私自身が怒り心頭に達してしまう」
と褒め言葉(!?)を残します。
曹操は、劉表を抑えるため、彼と同盟している張繍を味方につけようとします。ここでは、演義と同じく張繍の謀臣である賈詡が進言して、張繍は曹操に味方することになります。また、孫策が江夏で黄祖を攻めていたため、劉表は身動きが取れなくなります。

白馬・延津の戦い--関羽の奮戦

睨み合っていた曹操軍と袁紹軍がついに動き出しました。袁紹軍の郭図・淳于瓊・顔良が曹操軍を攻撃します。一方、曹操は荀攸の策を取り入れます。背後をつくふりをして、猪突してくる顔良を叩くという策です。この策は的中します。背後の動きに気づいた郭図・淳于瓊が退却し、顔良は曹操軍の中に取り残されます。そして、演義でも有名なシーン、関羽に討たれます。
続いて、袁紹は劉備(玄徳)・文醜を曹操軍に向かわせます。すると、荀攸は輜重隊をお取りに使う作戦を進言します。この策も的中し、文醜軍の隊列が乱れたところ、曹操軍が襲いかかり、文醜を討ち取ります。残念ながら、文醜を討ち取ったのは関羽ではありません。
顔良・文醜と二人の将を討ち取りましたが、戦の大局で見れば局地戦で曹操が勝利したに過ぎません。それより戦局を大きく動かすことが袁紹軍におきます。袁紹を度々諌めても聞き入れられなかった沮授が軍の指揮を辞退してしまいます。後の世まで名将として伝えられている沮授がいなくなることは、結果的に袁紹軍を大きく弱らせます。

官渡の戦い--膠着する戦線

顔良・文醜を討ち取って、袁紹の出鼻をくじくことに成功した曹操でしたが、兵力差は大きく、延津から西へ敗走し、官渡で袁紹軍を迎え撃つことになりました。ここでの戦いは演義に書かれているのとほぼ同じです。軍指揮は放棄しましたが、参謀として袁紹のそばにいた沮授が
「我らは食料はたくさんありますが、曹操軍には余りありません。兵士数は我々のほうが多いですが、勇猛さは曹操軍のほうが上です。なので、持久戦をして相手を弱らせましょう。」
と進言します。ところが袁紹は取り入れません。
袁紹軍は官渡の砦に立てこもった曹操軍を攻撃、曹操軍はそれを迎え撃つというのを繰り返します。袁紹軍が高い位置から攻撃するために櫓や土山を築き、矢を射かけますが、曹操軍は発石車を作って迎え撃ちます。袁紹軍が地下から攻め入ろうとすれば、曹操軍は塹壕を掘って迎え撃ちます。
劉辟が曹操に対して反乱を起こすと、劉備(玄徳)を援軍に差し向け、曹操の背後を脅かそうとします。
袁紹の猛攻に弱気なった曹操は都の荀彧に対して
「退却しようかと思う」
という手紙を送ります。すると、荀彧は返書で
「今が、耐え時です。袁紹軍の内情を見ると、近い内になにか異変が起こるはずです」
と励ましました。
一方、袁紹軍では沮授が袁紹に
「兵糧を守る淳于瓊に蒋奇をつけて万全にしましょう」
と進言しますが、またしても採用されません。

烏巣の戦い--戦いの決定打

許攸は袁紹への進言が受け入れられず、家族が審配に逮捕されたことがきっかけで曹操に投降しました。そして、曹操に
「烏巣に袁紹軍の食料が大量にあります。守っている淳于瓊の兵は手薄です。奇襲をかければ成功します」
と献策します。荀攸と賈詡が賛成し、曹操はこの策を採用します。それを聞いた袁紹軍では、張郃が
「直ちに救援に行きましょう」
郭図が
「今のうちに曹操軍の本陣を討ちましょう」
と進言します。袁紹は軽騎兵を烏巣に、重騎兵を曹操本陣にと中途半端な対応をします。また、救援を主張した張郃を曹操本陣に向かわせるという無神経な人事をします。その結果、淳于瓊は楽進に討ち取られ、食料は焼き払われ、張郃と高覧が曹操軍に寝返ってしまいます。
食料が失くなってしまった袁紹は北方へ逃げ帰りますが、曹操軍の追撃を受けて大勢の将兵が死亡します。名将沮授は退却の最中、曹操軍の捕虜となります。沮授の才能を惜しんだ曹操は投降を説得しますが、沮授は忠義を貫いて受け入れません。最後は脱走しようとしたところを曹操軍の兵士に殺されます。曹操はその死を大変惜しんだということです。また、袁紹は投獄された田豊が敗れた自分を嘲笑していると疑心暗鬼に陥り、彼を殺してしまいます。

まとめ

曹操・袁紹共に先見性のある優れた人物を大勢抱えていました。荀彧・荀攸・田豊、彼らは皆、後世の評価は古代の名将達と比較され、褒められた者たちです。袁紹は彼らの言葉を聞き入れることが出来ず、曹操は取り入れました。その結果、曹操という人物の懐の広さを見て、賈詡や許攸や張郃と言った他の優れた人物も曹操の元へ身を寄せることになります。
「良薬口に苦けれど病に利あり、忠言耳に痛けれど行いに利あり」
という言葉があります。漢の高祖や徳川家康など天下を統一した人物は皆、破滅しそうな際に進言してくれる配下がいて、それを取り入れる心の広さがありました。曹操もきっとそういう人物だったのでしょう。

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