一時代を築いた天性の策士【司馬懿】

一時代を築いた天性の策士【司馬懿】

魏の策略家として名が挙がるのは荀彧や荀攸を筆頭に大勢の文官が揃っていました。しかし、その中でも飛びぬけて出世し、後に魏を倒して晋を建国するまでに至ったのは司馬懿の功績が強かったといえます。一時代を築いた司馬懿の功績をここで紹介していきます。


優秀な司馬懿の家系

優秀な司馬懿の家系

優秀な司馬懿の家系

司馬懿の家柄は比較的名家であり、春秋戦国時代の趙の名将だった司馬尚の末裔とされています。この司馬尚は現代でも人気のある漫画「キングダム」でも登場します。主人公・信のライバルとして存在する、天才的軍略家の李牧がいますが、史実でも李牧と司馬尚は名将として、何度も秦を含む周辺国から自国を守り抜きました。

その司馬尚の子どもは司馬ゴウといい、項羽と劉邦が激突した楚漢時代に印王として項羽側についていました。司馬懿の父は政治家の司馬防であり、省の長官を務めていました。司馬防は父や祖父が太守を任され、曾祖父は将軍にまで上りつめていました。それだけに司馬防は厳格な父であり、後に天下を牛耳る司馬懿でさえも、絶対的に逆らえない存在といえました。

司馬防は董卓が専横した時代にも仕方なく宮中で仕え、毅然とした態度を崩さなかったといいます。また、若い頃の曹操を郡の都尉として洛陽北部の軍事を任せていました。曹操は権力者の血縁だろうと違反を犯した者は構わず処罰したので、宮中から恐れられていました。初めて曹操の名が広まったのがこの時だったので、司馬防は曹操の出世にも関与していたことになります。

司馬防の子どもには、司馬懿を含めて8人おり、そのすべてが優秀な人材でもあったことから「司馬の八達」といわれていました。司馬懿はその中でも特に優秀であり、勉学にも優れて、壮大な視野を持っていました。司馬懿は激情な性格の持ち主でしたが、その感情を表に出さずに封じ込めるのが得意でもあり、表面上は冷静を務めることができていました。

転機となる曹操との出会い

転機となる曹操との出会い

転機となる曹操との出会い

すでに曹操が都を支配していた頃、父の司馬防も曹操に仕えていました。曹操は司馬懿が特に優秀である人材と聞き、配下に欲しいと出仕を求めます。しかし、司馬懿は曹操の元へ行くことよりも、漢王朝の衰退を憂いており、出仕は望まないで断っていました。

曹操はどれだけの器量があるか知りたく思い、司馬懿に刺客を放ちます。万が一驚いて逃げ出すようであれば、そのまま暗殺するようにと厳命しますが、司馬懿は刺客に驚くような振る舞いもしなかったので、命が助かりました。

司馬懿が気に入った曹操は、丞相になった時に、再度司馬懿を呼び寄せます。今度は脅迫まがいに呼びつけられ、一家に禍が起こるのを心配したので、司馬懿は仕方なく出仕したといえます。

司馬懿は文官として仕え、特に曹操の後継者となる曹丕の教育係になります。比較的若いころから戦に出陣していた曹丕でしたが、司馬懿の才能にほれ込み、寵愛するようになっていきます。

司馬懿は曹操の軍略にも意見するようになり、次第に曹操に恐れられるようになっていきました。曹操は後継者となる曹丕が司馬懿を抑えこめるか心配になりましたが、曹丕は司馬懿を信頼しているのを感じ取り、そのまま司馬懿を曹丕に付けています。

間接的に関羽を葬る

間接的に関羽を葬る

間接的に関羽を葬る

曹丕が後継者として留守を任されるようになる頃、各地の情勢は激戦の荊州に関羽が陣取り、孫権と火花を巡らしていました。劉備は益州を目指し、漢中では馬超と曹操がにらみ合いをしていました。

司馬懿は漢中の戦いで曹操が勝利したとき、そのままの勢いで益州を攻めれば劉備は討ち取れると進言しています。しかし、曹操は漢中以上を望むとあれば、手痛い返しを喰らうとして、その進言を退けています。実際に獲れたかは分かりませんが、漢中は劉備に取り返されてしまい、夏侯淵などの有能な武将も失ってしまいました。もしも、司馬懿の進言通りに益州へ攻めていれば、漢中は曹操の支配下に置かれたままだったといえるでしょう。

この頃、司馬懿は兄の司馬郎と父の司馬防を相次いで亡くしています。悲しみに暮れるのも抑え、魏のために尽くしていました。

219年には荊州を守備していた関羽が北上して樊城を攻めてきました。樊城には歴戦の名将である曹仁が守っていましたが、関羽の勢いは凄まじく、あっという間に曹仁軍を撃破して、曹操の援軍として赴いた于禁ら七軍までもが敗れ去りました。関羽はこの時代で一番の将軍であり、曹操が支配した許昌南部においても、関羽に味方しようとする勢力が続出していきました。

赤壁の戦いで大敗を味わっている曹操は、関羽の能力を恐れていたので、遷都までもが議論されていきます。

しかし、司馬懿は狼狽えず、諸将を落ち着かせて、孫権と共同で荊州を奪取するべきである進言します。217年の濡須口の戦いで、孫権は形式上で曹操に降伏を申し出ており、魏と呉は共同で劉備を狙えることができていました。しかし、魯粛の計らいによって劉備と孫権は同盟関係にあり、それは継続中ともいえました。

孫権はたびたび荊州を奪取したいと考えており、関羽が邪魔になっていました。劉備穏健派の魯粛が死去したことを受けて、呉では劉備排除派の呂蒙が指揮権を担っており、孫権や呂蒙は劉備を裏切る形で曹操と手を組んでいこうとしていました。

司馬懿はそんな荊州の動きを的確に捉え、今なら孫権と手を組んで後方から攻めさせ、関羽の退路を断つべきであると言い放ちます。曹操はその通りに実行し、樊城への援軍は漢中から徐晃を派遣しています。

この狙いがピンポイントで的中し、関羽は徐晃に敗れて退却するも、呂蒙らによって退路を防がれて捕まり処刑されています。

曹丕の厚い信頼を得る

曹丕の厚い信頼を得る

曹丕の厚い信頼を得る

荊州が落ち着いた頃、曹操が関羽の後を追うようにして病死してしまいます。曹丕が魏王として後を継ぎますが、曹丕の側近らは献帝から禅譲し、曹丕を皇帝につけることを模索していきます。

献帝は味方になる勢力がおらず、意気消沈して譲渡し、ここに後漢が滅び、魏が建国されました。曹丕は皇帝となるまで貢献してくれた司馬懿を信頼し、重役へと出世させていきます。司馬懿も曹丕のために献策し、とりわけ曹丕の代には戦乱を頻繁に起こすようなことはなく、治世を保ち続けていきました。

一方の蜀では関羽が死に、怒りに震える劉備が復讐に呉への大規模な遠征を控えていました。しかも、張飛までが部下に裏切られて憤死することになり、劉備を止めることは諸葛亮でも不可能となってしまいます。この夷陵の戦いでは劉備が陸遜に敗れ、白帝城で死去することになり、後を託された諸葛亮がとうとう魏に牙を向けることとなっていきます。





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