三国志一番の悲劇の皇帝【献帝】波乱の人生とは~後編~

三国志一番の悲劇の皇帝【献帝】波乱の人生とは~後編~

後漢王朝の最期の皇帝となった献帝は、戦乱の洛陽を逃れ、曹操を頼るようになります。聡明な曹操は一見救世主のように映りますが、側近らが心配していたように権力を握ってしまいます。曹操の庇護下に置かれてからの献帝の行く末をみていきましょう。


曹操の庇護下に置かれる

献帝は命からがら洛陽を脱出し、曹操の庇護を受けるようになると、許昌を都として政治の立て直しを図ろうとします。しかし、曹操はそれを許さず、まずは人心を安定させることを名目に、献帝を政治から外して、周囲も自身に近い存在の者を配していきます。曹操は献帝の存在のみを利用しており、実権は譲る気はありませんでした。

当然、兵力も充実し、頭も切れる曹操に隙はなく、天下に号令をかけるのは帝の意思であると触れ回っています。もちろん、袁紹や劉備(玄徳)など各地の実力者たちは献帝の本意ではなく、曹操が権力を手中に収めたことを悟りますが、敵対することは朝敵となるので、曹操に手出しをするのが難しくなっていきました。

献帝は取り巻きが排除されていくのを尻目に、自分の力ではどうにもならないことを感じ得ます。とはいうものの、曹操のおかげで自身の身が安泰になったのは事実ともいえました。董卓やその配下の元ではいつ自身の命まで脅かされるか分かったものではありません。しかし、分を巻きまえる曹操ならば、傀儡とはいえ、命を脅かすような真似はしないことは確実ともいえたからです。

曹操暗殺計画の失敗

曹操は袁紹を大将軍に推挙するなどし、中原の支配を確実するために呂布や袁術に照準を定めます。一方呂布に敗れた劉備(玄徳)が一時曹操の元へと避難していました。三国志演義では曹操に連れられて劉備(玄徳)が献帝と謁見し、共に涙を流して漢王朝の復興を志しています。曹操が人を惹きつける劉備(玄徳)の存在を驚異に感じていくのもこの時期といえます。

この頃宮中ではまだ献帝に忠誠を誓う者が少なくても存在し、董承らを中心に密かな政策転覆計画が練られていました。その内容とは曹操を暗殺し、その権力を献帝に戻すこととなっていました。

人望もあり、関羽や張飛といった豪傑を従えている劉備(玄徳)は信頼も置けることから、董承ら改革派から半ば強引に同志と引き込まれました。後漢や献帝を憂い、劉備(玄徳)も仕方なく賛同したともいわれていますが、事実それを断れば口封じに自身の身の危険が及ぶことから賛同したとも考えられます。

董承は慎重に動き、200年に決行の時期を迎えていました。この頃の曹操は呂布を討ち取り、袁術も大敗を喫したことで勢力が萎んで死亡し、残る敵は袁紹のみといえました。

袁紹との一大決戦を前に頼みの劉備(玄徳)は暗殺計画の失敗を恐れて、曹操から離れ、逆に曹操の逆鱗に触れて攻められてしまいました。董承はそれでも計画を延期することはありませんでしたが、事前に曹操の間者によって計画が発覚され、董承らは一族もろとも惨殺されてしまいます。

唯一の活路を塞がれた献帝は生きる希望も失われていったといいます。

曹丕によって禅譲

曹操が袁紹との戦いに勝利すると、中原や河北一帯も含めた大陸のほとんどが曹操の支配下に置かれました。献帝を救える勢力もすでに無く、214年には皇后の伏氏が董承の曹操暗殺計画を継続しようとし、これも事前に発覚したため、殺害されてしまいます。献帝は曹操の娘で曹丕の妹である曹節を皇后とする事を余儀なくされました。

献帝には妃を守る力もなく、宮中に曹操の兵が入り込んでもどうすることもできませんでした。220年に曹操が死去すると、曹丕が後継者となります。曹丕の取り巻きは魏の安泰を図るために皇帝の位も譲るように献帝に迫ります。もはや自分の味方がいないことを悟っていた献帝は、素直に応じています。

皇帝の証ともいえる玉璽は皇后の曹節が手放さず、逆に押し寄せてきた曹丕の将兵に対して何度も拒み続けていきました。さすがに曹操の娘で曹丕の妹とあって、誰も手出しができない状態に陥りました。

曹丕の臣下たちは懸命に説得を続け、曹節はいくら曹丕が兄とはいえ、このままだと自分や献帝の命まで容赦しないだろうと曹丕の性格を汲み取り、玉璽を投げつけて涙を流しました。この光景を見ていた、使者を含めた側近たちは誰ひとり顔を上げることができなかったといいます。

献帝は曹丕に禅譲し、ここに後漢王朝は潰えました。

最期まで守られた劉協

劉協は平民に落とされることもなく、曹丕によって山陽公に封じられます。当時は皇帝のみが使える朕という一人称がありましたが、劉協はそれを使用することを許される厚遇を受けています。

さらに、劉協の一族も処罰されることなく、家柄や土地を安泰されており、劉協や曹節の面目は守ったという曹丕の配慮ともいえました。もちろん、ここで粛清をかけてしまうと、後漢を憂う勢力をすべて敵に回してしまうこともあり、反乱軍の鎮圧に時間を取られ、呉や蜀の拡大を許してしまうこともあったといえます。

後漢が滅亡したことを受けて、真っ先に悲しんだのは劉備(玄徳)であり、劉協が抹殺されたと勘違いをしてしまうほどでした。後に蜀の皇帝となった劉備(玄徳)は、劉協を偲んで諡号を送っています。

ここから孫権も呉王を名乗ることで三国時代が幕開けとなりました。劉協は皇帝や魏の呪縛から解き放たれ、曹節と平穏に暮らしたといわれ、234年に54歳で死去しています。曹節は260年まで生存していました。

献帝の末裔たち

劉協の嫡男はすでに死亡しており、後継者となるのは孫の劉康でした。まだ曹節が存命とあり、魏も手出しすることはできませんでした。しかし、260年に司馬氏のクーデターによって曹氏が大粛清されてしまい、その5年後には司馬炎が譲渡されて晋が誕生します。しかし、劉康は山陽公として継続し、その子や孫にいたるまで迫害されることはなかったといわれています。

また、劉康の孫にあたる劉秋が289年に跡を継ぎ、晋の時代を生き抜きました。ただし、全国規模で再び戦乱となった永嘉の乱において殺害されており、劉協が始祖となった山陽公の爵位は断絶しています。

不遇だった献帝

劉協は生まれたときから不遇といえました。父の霊帝はすでに傀儡とされており、自身の母親はすでに幼くして毒殺されるなど、権力争いに巻き込まれてしまいます。また、兄の劉弁はとても董卓に太刀打ちできるような器ではなく、むしろ劉協は董卓を一括するほどの胆力を見せていたといいます。

しかし、自身の取り巻きに優れず、董卓やその配下、曹操などの権力者によって祭り上げられ、自分の力だけではどうにもならないと悟るなど、政治への興味を失ってしまいます。

もしも、自身の取り巻きに最初から漢王朝に忠誠を誓っていた劉備(玄徳)や関羽、張飛、諸葛亮といった面々がいれば、献帝としてもっと善政を敷いていたともいえるでしょう。

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