蜀の晩年における最大の功労者【王平】の実力とは!

蜀の晩年における最大の功労者【王平】の実力とは!

蜀が建国された当初は、諸葛亮も健在で他国に脅威となっていました。しかし、諸葛亮の没後は、魏に攻められることもあり、蜀は安泰とはいえない存在となっていきます。その中で蜀を守り抜いた最大の功労者ともいえるのが王平です。その実力をみていきましょう。


曹操配下から漢中争奪戦で劉備(玄徳)陣へ

王平は益州出身ですが、その一族は三国志演義では南蛮族といわれたベトナムよりの出身がルーツといわれています。王平が若かりし頃には、漢中では曹操が張魯や馬超を退けて支配していました。王平の所属していた異民族が曹操に帰順したことを受けて、王平も曹操配下として洛陽に赴任しています。

その頃、劉備(玄徳)が入蜀し、益州を支配して天下三分の計が成り立つと、漢中はますます激戦となっていきます。劉備(玄徳)と曹操の間では漢中争奪戦が勃発しており、定軍山の戦いでは曹操配下の猛将・夏侯淵が討ち取られて劉備(玄徳)軍の勝利となりました。

劉備(玄徳)が漢中を支配すると、その流れで王平も劉備(玄徳)側へと降伏しています。劉備(玄徳)は王平の働きぶりに関心していたので、降伏後も将軍として迎え入れました。

第一次北伐で戦功を挙げる

劉備(玄徳)が亡き後は、諸葛亮の元で戦功を挙げていきます。王平は第一次北伐となった街亭の戦いに出陣し、諸葛亮に見出されていた馬謖の副将として配属されます。

ここで馬謖は諸葛亮から策を授かり、決して山上に布陣しないようにと厳命を受けていましたが、馬謖は自分の能力を驕り、諸葛亮の指示を無視して山上に布陣しました。王平は山上の不利を悟り、諸葛亮の指示にも背いていることから、必死に諌言していました。しかし、馬謖これを聞き入れず、そのまま山上に布陣したため、張コウの軍に散々に水をせき止められてしまい、焦った挙句に伏兵にやられて大敗を喫しました。

王平は敗戦が確実となった中で、何とか体制を立て直し、わずか1000名の兵を引き連れて踏みとどまります。懸命の守りに対し、張コウはまだ諸葛亮の伏兵があると感づき、追撃をゆるめてしまいました。

王平はこの隙に速やかに退却していき、敗残兵を収容して全滅を免れました。王平の決死の守りがなければ、蜀軍は有能な将兵まで失い、大ダメージを喫していたといえるでしょう。

馬謖は諸葛亮によって処罰されましたが、王平は功績が認められて評価されています。敗戦で副将が恩賞を受けるのはまれといえるので、それだけ王平が蜀を救ったと諸葛亮は判断したのでしょう。

諸葛亮の北伐では大活躍

第四次北伐となった231年、本隊の諸葛亮とは別働隊として主力を率いた王平は、歴戦の張コウを相手に徹底した守備を敷き、諸葛亮が司馬懿を撃破している間に張コウの猛攻を凌いでいます。

第五次北伐となった234年の五丈原の戦いにおいて、諸葛亮が陣中に没すると、魏延が反乱を起こしてしまいます。関羽や張飛、馬超といった大将軍たちがいない蜀において、魏延は中枢を担う戦力であり、諸葛亮没後の行動を警戒されていました。

諸葛亮はこの戦いの全権を楊儀に譲りますが、かねてから仲の悪かった魏延は、その指示に従わず、魏との決戦を主張して楊儀に兵を差し向けます。ここで王平は楊儀の先鋒となって魏延の軍と対峙し、配下の将兵に向かって説得を始めます。魏延の配下たちは、王宇平の威厳に萎縮してしまい、魏延を見限って逃走を図りました。この甲斐もあって、楊儀は魏延を討ち取りましたが、まさに王平の活躍があってこそといえました。

諸葛亮亡き後の蜀の中枢を担う

諸葛亮の亡き後、蜀は国力を高めることに費やしていきます。一方の魏は司馬懿と曹爽の権力争いが勃発していました。多大な戦功のある司馬懿に対し、焦った曹爽は244年に10万の兵を率いて大規模な蜀への遠征を行います。

当時の漢中の守備はわずか3万にも及ばず、魏の大軍の前には風前の灯ともいえる存在でした。蜀の諸将らは漢中を見捨てて蜀への入口を封鎖するべきと進言しますが、王平は漢中を取られるほうが蜀の将来的に危ういことを力説し、出陣していきます。

王平は漢中の手前で魏軍を足止めし、成都からの援軍を待つ作戦を立てました。まず、王平は魏軍の進路を予測し、険しい地形を巧みに利用して伏兵を潜ませていました。王平の読み通りに進軍してきた魏軍は、蜀軍の攻撃に耐えきれず、大軍を維持するための補給がままならないため、進軍できない状態になっていました。

こう着状態が続いた後、成都から大将軍となっていた費イが大軍を引き連れて到着し、より一層守りを固めていきます。費イは文官の出身でしたが、戦略や戦術にも優れており、優秀な指揮官として存在していました。王平や費イの活躍もあって、魏軍は進軍を諦めて全軍退却をしています。

この退却戦では蜀軍が魏軍を追い詰め、総大将の曹爽は生きた心地がしなかったともいわれています。副将を務めた郭淮が冷静に戦況を分析し、蜀軍の勢いが弱まった箇所を見抜いて曹爽は脱出することに成功しています。この敗北を受けて魏は曹爽が権力争いから大きく後退し、司馬懿の発言力が増すことになっていきます。

歴戦の勇将として名が挙がった王平

劉備(玄徳)が健在のころは、蜀の将軍といえば関羽や張飛を筆頭に多くの勇将たちが揃っていました。しかし、諸葛亮亡きあとは、なかなか人材に恵まれず、魏延を処罰した後、魏に対抗できる将軍といえば姜維や鄧芝、馬忠といった数人程度しかいませんでした。中でもこれらの将軍たちの中で最も名声があったのが、王平といえました。

将軍として大軍を指揮できながら、副将として大将軍をサポートできる

王平の素晴らしいところは、大軍を指揮出来る能力を持っていながら、諸葛亮や費イといった総指揮官の下でも副将として優れた才能を発揮し、攻撃・守備ともに魏を大いに苦しめたところでした。

晩年の蜀においてはエース級の活躍を見せており、ゲームなどでも三国時代が鼎立した晩年、蜀の戦力の中枢を担う人材として扱われています。三国志演義の影響もあって、諸葛亮の後継者として存在している姜維のほうが一般的には知名度があります。また、姜維のほうが能力的に優れた資質を見せているのが特徴です。しかし、史実では国力を疲弊する要因を作った姜維よりも、魏の大軍から蜀を守り抜いた王平の存在は歴戦の勇将として名が残っています。

もしも、定軍山の戦い後も王平が魏に所属したままだったと考えると、蜀はもっと早くに魏に攻め滅ぼされていた可能性もあります。王平は晩年の蜀において、それほどの人材であったことは間違いありません。

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