張郃の初期--曹操に仕えるまで
■ 張郃の初期--曹操に仕えるまで
張郃の初期--曹操に仕えるまで
正史での張郃の出番はかなり早く、黄巾賊討伐の兵士募集に応じて韓馥に仕えました。その後、韓馥が冀州の実験を袁紹に奪われると、兵を率いて袁紹に帰順し、将軍に任命されました。張郃は公孫瓚との戦いで大いに活躍し、昇進しました。
やがて、中原の覇権をかけて、袁紹と曹操の戦いは避けられないものになってきました。張郃は沮授や田豊と同じく、曹操と直接対決するのは不利だと袁紹に主張しましたが、聞き入れられず、官渡の戦いが起こりました。
官渡の戦いも終盤になり、袁紹軍の食料保存基地である烏巣を曹操軍に急襲されました。張郃は直ちに援軍を送ることを主張し、郭図はこの間に曹操軍の本拠地を襲うように主張しました。郭図の意見に対して張郃は
「曹操ほどの人間が、本拠地が簡単に落ちるようにしているわけがない」
と異を唱えます。結局袁紹は中途半端に、軍を二つに分け、片方を烏巣への援軍、片方を曹操の本陣への急襲に派遣します。しかも、曹操本陣への急襲に反対した張郃をそちらに派遣するという無神経さでした。結局、烏巣は落ち、曹操本陣を落とすことも出来ませんでした。自分の作戦が失敗したことを誤魔化すために、郭図が袁紹に
「張郃は作戦が失敗したことを喜んでいます」
と讒言をしました。そのため、張郃は処罰を恐れ、曹操に降伏します。曹操軍の曹洪は降伏を怪しみましたが、参謀の荀攸が
「張郃は自分の計略を採用されなかったので、降伏したのです。疑う必要はありません。」
と主張し、曹操も降伏を認めます。張郃はこのときより曹操軍の将軍となるのです。
張郃の活躍--曹操軍の将軍として
■ 張郃の活躍--曹操軍の将軍として
張郃の活躍--曹操軍の将軍として
曹操軍の将軍となった張郃は次々と戦に従軍して活躍します。まずは袁紹死後、袁紹の遺児である袁譚を撃破します。その後、異民族の征伐でも功績を上げ、北方の平定に貢献します。北方の次は南方ということで荊州侵攻にも従軍します。
当時、魏の五虎大将軍とも言うべき、張遼・楽進・于禁・徐晃、そして張郃は皆、「名将」と謳われていて、曹操が出陣する度に、交互で先鋒・殿軍をつとめていました。
南方での戦争が一段落すると次は西方です。馬超・韓遂が攻めてきます。曹操が迎え撃つために出陣すると、張郃も従軍し馬超・韓遂を打ち破るのに大いに貢献します。さらに西方へ進み、楊秋を降伏させ、征西将軍である夏侯淵に従い、梁興を討ちます。それから、夏侯淵の先鋒として異民族を従える馬超を討ち、敗走させ、異民族をすべて降伏させます。
曹操は最終的には漢中の張魯を征伐します。張郃は朱霊と共に先鋒を務め、陽平まで行き、張魯を降伏させています。曹操は漢中に夏侯淵と張郃を守備としておき、益州を攻め取った劉備(玄徳)に備えさせます。
張郃の激闘--漢中攻防戦
■ 張郃の激闘--漢中攻防戦
張郃の激闘--漢中攻防戦
張郃はいくつかの郡を降し、その住民を漢中に移住させます。その上で進軍し、劉備(玄徳)軍の先陣である張飛と対陣します。演義でも有名・人気あるシーンでしょう。張郃と張飛の漢中での決戦です。この戦いは張飛の作戦がはまり、張飛軍が勝利します。戦いには敗れましたが、張郃は住民を予め移住させておいたという功績で昇進します。クラウゼヴィッツの戦争論などで、よく語られる
「戦争とは別の手段を持って行われる政治の延長である」
という観点では、局地戦には敗れたけど、政治的には、目的を果たした張郃の勝利と言えるでしょう。
漢中争奪戦のメインバトルである定軍山の戦いでは、兵士を率いて、劉備(玄徳)の夜襲を撃退しました。ですが、その後も劉備(玄徳)の夜襲が来て、夏侯淵が援軍を送ってきますが、その隙を突いて夏侯淵は討ち取られてしまいます。夏侯淵が戦死し、張郃ら魏軍は陽平に退却した際に、劉備(玄徳)は
「向こうの大将(張郃)を討ち取ってはいないでないか」
と言いました。敵である蜀漢でも張郃は高く評価されていたのです。そして、夏侯淵が戦死したことによって、曹操軍は大混乱になっていました。そこで、夏侯淵の将軍であった郭淮が
「張郃将軍は国の名将であり、劉備(玄徳)も恐れている。彼でなければこの混乱を抑えられない。」
と主張し、同僚の杜襲も張郃を臨時の大将とするべきだと主張しました。張郃は全軍を激励し、落ち着かせ、諸将も張郃の命令に従うようになりました。曹操が漢中を諦め撤退する時に、張郃は漢中と長安の中間である陳倉に曹真と共に駐屯します。以後、曹真とは共に蜀漢軍との戦いのため、長く戦線をともにします。
張郃の活躍--北伐撃退
■ 張郃の活躍--北伐撃退
張郃の活躍--北伐撃退
魏では、曹操が死亡し、曹丕があとを付いて魏王となり、漢王朝から禅譲され、魏王朝を興し、文帝となります。文帝の時代にも張郃は曹真・夏侯尚・郭淮らと共に戦いに赴き、手柄を立てて、出世していきます。
やがて、文帝が死亡し、曹叡が後を継ぎ、明帝となります。張郃は荊州に配置され、司馬懿と共に孫権軍を破るなど呉との戦いで大きな戦果を上げます。そんな折、蜀漢軍が攻めてきます。諸葛亮の北伐です。張郃は対蜀漢の前線へ出陣します。
一回目の北伐では有名な街亭の戦いがあります。そこで蜀漢軍の馬謖軍を撃破します。演義では司馬懿の指揮の元、馬謖を打ち破ったとなっていますが、正史では馬謖を破ったのは張郃です。そして、蜀漢軍が撤退していくと、蜀漢についた地方を平定していきます。この功績は非常に大きく、明帝から報奨が下されています。
その後、再び蜀漢の諸葛亮が攻めてきて、陳倉の戦いが起こると、荊州方面に派遣されていた張郃は明帝より呼び出しを受けます。明帝は自ら宴席を設けて張郃をもてなし、張郃は出陣していきます。陳倉には名将である郝昭がいましたが、兵士数は少ない状態でした。ですが、張郃は
「陳倉は兵は少ないが、頑強な城で、蜀漢軍は携帯している食料が少ない。援軍到着前に撤退するだろう」
と出陣前に言いました。果たして、蜀漢軍は食料が尽きて撤退します。
張郃の最後
■ 張郃の最後
張郃の最後
諸葛亮率いる蜀漢軍の第四次北伐では、蜀漢軍が祁山を包囲し、陳倉を攻めていましたが、張郃が出陣すると蜀漢軍は祁山まで後退しました。その頃、曹真は既に死亡しており、魏軍の総司令官は司馬懿でした。張郃は度々作戦を立てますが、司馬懿にすべて却下されます。司馬懿が諸葛亮の、張郃が王平の軍を攻めますが、コチラも失敗します。そして、蜀漢軍が退却すると張郃は司馬懿の命令で追撃します。ところが追いついたところで、蜀漢軍の反撃に合い、膝に矢を受け、戦死します。
張郃の死は魏の明帝や陳羣を大いに悲しませました。また、演義では司馬懿の命令に背いて蜀漢軍を追撃して、罠にかかって戦死というお粗末なものですが、正史では全く逆で司馬懿の命令に従った結果です。これは、蜀漢贔屓の演義が成立する際に、蜀漢を苦しめた張郃に対する復讐だとも、張郃を内心恐れていた司馬懿が彼を除くために出した命令だとも言われています。それくらい張郃は恐るべき男だったのでしょう。