曹操(孟徳)の初代ボディーガード典韋のあだ名~悪来~
■ 曹操(孟徳)の初代ボディーガード典韋のあだ名~悪来~
曹操(孟徳)の初代ボディーガード典韋のあだ名~悪来~
曹操(孟徳)の初代ボディーガードである典韋は野蛮な上怪力でした。しかし恩に熱く、一度「こうやる」と決めたらとことん尽くすタイプで、そういった面が曹操(孟徳)に気に入られたのでしょう。
彼がにらみを利かせていたから曹操(孟徳)に手を出す輩がいなかったというエピソードもあるくらいインパクトのあるボディーガードでした。
そんな典韋には「悪来」というあだ名がありました。昔紂王に仕えた蜚廉(ひれん)の子が怪力で足が速かったため同じあだ名を与えたのです。
ちなみに元祖悪来は人の悪口をよく言っていたためそういったあだ名がつけられました。
しかし怪力な部分が似ているだけであって元祖悪来と違い忠誠心にあふれる典韋は非の打ちどころのないボディーガードでした。
典韋は曹操(孟徳)を敵から守り殺されたわけですが、刀や矛が彼の体を貫いても倒れなかったようです。まるで武蔵坊弁慶の最後のような形で亡くなったわけですが、日本人としたら曹操(孟徳)と典韋を源義経と武蔵坊弁慶のように見えるかもしれません。
あだ名は悪来でしたが怪力面しか似ておらず、曹操(孟徳)にとってはなくてはならない人物と言えるでしょう。
曹操(孟徳)の二代目ボディーガード許褚(仲康)のあだ名~虎痴~
■ 曹操(孟徳)の二代目ボディーガード許褚(仲康)のあだ名~虎痴~
曹操(孟徳)の二代目ボディーガード許褚(仲康)のあだ名~虎痴~
典韋亡き後曹操(孟徳)のボディーガードを務めたのが許褚(仲康)です。彼は典韋に匹敵するほどの怪力で牛の尻尾をつかんで引きずることができたというエピソードがあります。
さらに典韋同様、曹操(孟徳)に対しての忠誠心が高く、曹操(孟徳)及び魏にとってなくてはならない存在でした。
そんな許褚(仲康)ですが、頭の方は弱く、虎痴というあだ名が付けられていました。
しかも中国読みで「許褚」と「虎痴」という発音が似ているようで、多くの人から「虎痴」が名前だと思われていたという位浸透していたあだ名でした。
もしかしたら許褚(仲康)がいなければ曹操(孟徳)は討たれていたかもしれないという見方は多く、たとえ「虎痴」だろうが、大役を全うしたことは言うまでもありません。
曹操(孟徳)をあと一歩のところまで追い込んだ馬超(孟起)のあだ名~錦馬超~
■ 曹操(孟徳)をあと一歩のところまで追い込んだ馬超(孟起)のあだ名~錦馬超~
曹操(孟徳)をあと一歩のところまで追い込んだ馬超(孟起)のあだ名~錦馬超~
三国志でもトップクラスの武力を誇った馬超(孟起)は一族を曹操(孟徳)に討たれて以降、敵討ちに生涯をかけたといってもいいでしょう。圧倒的に不利な状況にも関わらず潼関・渭水の戦いでは曹操(孟徳)をあと一歩のところまで追い込むなど、力はもちろん執念も一級品でした。
ちなみにこの戦いで馬超(孟起)の前に立ちはだかったのは先に挙げた許褚(仲康)です。
そんな馬超(孟起)についたあだ名が錦馬超です。強さに加え美しさも兼ねそろえていた馬超(孟起)を感嘆する意味で使われました。
馬超(孟起)は最終的に劉備軍に加わり曹操(孟徳)を討とうとします。関羽(雲長)や張飛(翼徳)らとともに五虎将軍と称されましたが劉備軍に入ってからは目覚ましい活躍をすることはありませんでした。
とはいえ「錦馬超」が劉備軍にいることで曹操(孟徳)は脅威を感じていたことでしょう。
もはや語ることが多すぎる武将関羽(雲長)のあだ名~美髯公~
■ もはや語ることが多すぎる武将関羽(雲長)のあだ名~美髯公~
もはや語ることが多すぎる武将関羽(雲長)のあだ名~美髯公~
三国志の中心人物の一人である関羽(雲長)のエピソードはありすぎるのでここではあまり触れませんが、彼の出で立ちについて少し紹介したいと思います。
三国志関連の漫画やゲーム、映画は多いですが関羽(雲長)はまず間違いなく立派な髭を生やしています。それは彼が髭を生やしていたという事実を物語っているわけですが、それもそのはず、関羽(雲長)のあだ名が美髯公だったからです。
あまりにも立派な髭だったためそういうあだ名が付けられたわけですが、その他にも「髭殿」というあだ名もありました。日本語に訳すと「髭のおっちゃん」という感じですが、敬意を称していることは間違いありません。
敵国からしてみたら立派な髭を見るのも恐ろしかったのではないでしょうか。
大きく化けた男呂蒙(子明)のあだ名~呉下の阿蒙~
■ 大きく化けた男呂蒙(子明)のあだ名~呉下の阿蒙~
大きく化けた男呂蒙(子明)のあだ名~呉下の阿蒙~
どうしようもないやんちゃだった子が大人になって大成するというケースはありますが、三国志で一番そうなったのは呉の呂蒙(子明)ではないでしょうか。彼は言ってみればヤンキーという感じだったのですが孫権(仲謀)に気に入られ呉の将軍となりました。
そしてある時孫権(仲謀)から部下を扱うのに本でも読まなければだめだと言われて以降文学にも励むようになりました。
元々武力に定評があった呂蒙(子明)でしたが、それ以降文学にも励むようになりいろいろな兵法を覚えるように成長します。そしてある時呉の軍師魯粛(子敬)が呂蒙(子明)を訪れた際、計略の指南を受けるまで知略を得るようになっていました。
※ちなみに魯粛(子敬)は周瑜(公瑾)の後継者と言われるほどの軍師で、赤壁の戦いでも劉備軍と孫権軍の橋渡しをする超重要なポジションについていたほどです。
その際に魯粛(子敬)は呂蒙(子明)のことをもう「呉下の阿蒙じゃないんだな」と言いました。
阿とは中国でOOちゃんを指し、日本語でいうともう呉でやんちゃしていた蒙ちゃんじゃないんだなと言った感じです。
成長した後に過去の「呉下の阿蒙」というあだ名が付けられた感がありますが、要は呂蒙(子明)に対して成長したなという親しみを込めたあだ名です。
そしてこの呂蒙(子明)は関羽(雲長)を策略で討ってしまったのです。それにより均衡されていた三国の関係が一気に崩れたのですが、それだけで彼の凄さが分かるのではないでしょうか。
とにかくやばい奴、甘寧(興覇)のあだ名~鈴の甘寧~
■ とにかくやばい奴、甘寧(興覇)のあだ名~鈴の甘寧~
とにかくやばい奴、甘寧(興覇)のあだ名~鈴の甘寧~
上記で呂蒙(子明)がヤンキー上がりという話をしましたが、この甘寧(興覇)も似たような若者でした。不良仲間を集めて徒党を組み、好き勝手やっていたのです。彼の凄いところは地方の長官だろうと自分たちの縄張り内で好き勝手やっていたら手下を使って財産を奪わせるなど上に媚びない精神を持っていたことです。
そんな甘寧(興覇)は常に鈴を携えていました。民衆はその音を聞くだけで甘寧一派が来たと恐れていたことから「鈴の甘寧」と呼ぶようになりました。普通なら近寄りたくないものですがそんな甘寧(興覇)を家臣にしたのが孫権(仲謀)です。甘寧(興覇)を扱えるものなど誰もいないと思いきや呂蒙(子明)同様「呉にとっていなくてはいけない存在」とまで成長させてしまったのです。
レッドクリフで中村獅童が演じていた甘興は間違いなくこの甘寧(興覇)です。とんでもなく粗暴で厄介な者でも仲間にするとこれほど頼もしい人物はいないかもしれません。
まとめ
■ まとめ
まとめ
武将のあだ名についてまとめてみましたがいかがでしたか?あだ名を知ることでその人物の特徴をつかめるだけでなく、あだ名ができたエピソードなどを知るとより深く三国志が分かるような気がします。
さらに呂蒙(子明)、甘寧(興覇)などを家臣として迎えた孫権(仲謀)の器の広さや、曹操(孟徳)はいいボディーガードに恵まれたという事まで派生して理解することができます。
より多くの武将のあだ名を知ることでいろんな角度から三国志を楽しむことができると思うのでいろいろ探ってみてください。