血判状から始まった曹操(孟徳)、馬騰(寿成)の確執
■ 血判状から始まった曹操(孟徳)、馬騰(寿成)の確執
血判状から始まった曹操(孟徳)、馬騰(寿成)の確執
曹操(孟徳)が献帝を擁して専横を振っていた頃、曹操(孟徳)を倒すために密かに血判状が作成されたことがありました。しかし、その血判状はあっけなく露呈。その存在は曹操(孟徳)の知るところとなり、血判状に名を連ねた者はことごとく一族郎党もろとも打ち首となりました。血判状には馬一族の馬騰(寿成)の名前も記されていましたが、その時は証拠不十分で罪を逃れたと言われています。
ちなみに劉備(玄徳)も血判状に名を連ねていた一人でしたが、たまたま曹操(孟徳)の命令で袁術(公路)討伐に出ていたため不在でした。しかし、それ以降、劉備(玄徳)は長い間、曹操(孟徳)に追われる立場となります。
馬騰(寿成)打ち首のきっかけは色恋沙汰だった
■ 馬騰(寿成)打ち首のきっかけは色恋沙汰だった
馬騰(寿成)打ち首のきっかけは色恋沙汰だった
時を経ること12年後、宮廷の黄門侍郎という官職に就いていた黄奎(宗文)という人物が再び曹操(孟徳)暗殺を企て、西涼にいた馬騰(寿成)を都に呼び寄せます。計画は着々と進みますが、ある日、黄奎(宗文)は自分の妾である李春香という女性に暗殺計画を話してしまいます。要は国家の機密中の機密事項を自分の愛人に漏らしてしまった訳です。
李春香には別に恋人がいました。黄奎(宗文)の使用人だった苗沢という人物です。苗沢は帰宅した黄奎(宗文)の様子がおかしい事に気付き、李春香から暗殺計画のことを聞き出します。この時、李春香はこう言いました。
「これ(暗殺計画)を話せば、あなた(苗沢)と結婚できるの?」
李春香にしてみれば本命は苗沢。黄奎(宗文)は「オ・カ・ネ・の・た・め」という感じだったのでしょうか…計画通り都を訪れた馬騰(寿成)は黄奎(宗文)と共に捕えられ、あっけなく打ち首となってしまいます。
主君を裏切った苗沢も打ち首 曹操(孟徳)の正義か?
■ 主君を裏切った苗沢も打ち首 曹操(孟徳)の正義か?
主君を裏切った苗沢も打ち首 曹操(孟徳)の正義か?
暗殺計画を密告した苗沢。曹操(孟徳)の命を救った大手柄です。大きな恩賞を受けてもおかしくありません。曹操(孟徳)に謁見した苗沢は言います。
「私は地位もお金もいりません。ただ、李春香との結婚をお認めいただければ十分です。」
しかし、曹操(孟徳)は言います。
「主君(黄奎)の女に手を出すことすら以ての外。ましてや大事を密告するなど言語道断」
苗沢は打ち首となります。
自身(曹操)の命を救った苗沢をも処刑…「主君を裏切った反逆行為を裁く」という意味では「曹操(孟徳)の正義」と受け取ることもでき、勧善懲悪的な痛快さを感じる面もあります。しかし、この件で苗沢に恩賞を与え、召し抱えるようなことがあっても「曹操(孟徳)をも裏切る」可能性は大いにあります。手柄を立てたと言っても今後に大きな不安を残す要素…単純に「利害」の判断から苗沢を打ち首にしたのかも知れません。
馬超(孟起)の登場 雪中の虎は大悪夢
■ 馬超(孟起)の登場 雪中の虎は大悪夢
馬超(孟起)の登場 雪中の虎は大悪夢
後に蜀漢の「五虎大将軍」の一人となる馬超(孟起)は、この頃から三国志に登場します。彼は馬騰(寿成)が都に出ている間、西涼の守りを任されていましたが、ある日、雪の中で虎に襲われる…というおかしな夢を見ます。実は「雪中に虎」の夢は大悪夢でした。数日後、ボロボロの姿になった馬騰(寿成)の甥の馬岱がたった一人で西涼に戻って来るのです。
馬岱の話によると、馬騰(寿成)に同行していた馬鉄、馬休(いずれも馬騰の子、馬超の弟)も殺され、馬岱だけが血路を開き、乞食に身をやつして戻って来た…とのことでした。
馬超(孟起)は血の涙を流して悲しみます。そして、曹操(孟徳)を永遠の敵と定めるのです。後に判明することですが、馬超(孟起)は張飛(翼徳)と互角の武力を持つ剛の者でした。曹操(孟徳)は知らぬうちに大変な敵を作ってしまった訳です。
韓遂(文約)と同盟し20万の大軍で挙兵
■ 韓遂(文約)と同盟し20万の大軍で挙兵
韓遂(文約)と同盟し20万の大軍で挙兵
馬騰(寿成)を討ち取った曹操(孟徳)は西涼にいる韓遂(文約)に「馬超(孟起)を討てば西涼候に封じる」という手紙を送ります。しかし、韓遂(文約)は曹操(孟徳)には従わず、馬超(孟起)と手を組み20万の大軍をもって挙兵し長安へ攻め入ります。
曹操(孟徳)不在で守りが手薄の長安ですが、かつて漢の初代皇帝の劉邦が都を守るために築いた城で、簡単には落ちそうにありません。攻めあぐむ西涼軍でしたが、長安の城には大きな弱点があることを知る者がいました。その弱点とは「水」でした。
長安の城が建っている付近は土壌が粗く、井戸の水質も悪く、生活のためには水を遠方まで汲みに行く必要がありました。長く城を取り囲んでいれば、いずれ水不足となり城は落ちるのですが、それでは不在だった曹操(孟徳)の援軍が来てしまいます。そこで西涼軍が行った作戦は…なんと軍を長安から遠ざける…というものでした!
勇猛なだけではない西涼連合軍の知略
■ 勇猛なだけではない西涼連合軍の知略
勇猛なだけではない西涼連合軍の知略
理由は不明だが敵は遠くに後退した。もし攻めて来ても、敵の姿を確認してから城に逃げ込んでも十分に間に合う…そう考えた長安の将たちは城外に出て水や薪を取ることを許可します。領民たちが城の外で水などを汲んでいると西涼軍が攻めて来る…。領民たちは急いで城に戻る…。こんなことが何度か繰り返されました。
そんなある日、同じように西涼軍が攻撃した来たのですが、今度は領民たちが城内に逃げ込んだ後も、退却して行きません。城外に駐屯したまま時が経ち、やがて夜になります。そして夜も深まった時に城内から火の手が上がります。領民と西涼軍の追いかけごっこに乗じて、領民に変装した西涼兵が城内に忍び込んでいたのです。
火の手はあちこちから上がり、油断していた曹操軍は十分な反撃も行えず、放火した西涼兵が城門を開き万事休すでした。満を持して突撃して来た西涼軍はあっという間に曹操軍を蹴散らしてしまいます。あっけない長安の陥落です。
まとめ
■ まとめ
まとめ
この後、西涼軍はさらに進撃しますが、到着した曹操軍本隊(曹操自身も含む)に敗れてしまいます。韓遂(文約)は降伏、馬超(孟起)は敗走、西涼に逃げ帰ります。しかし、後年、諸葛亮(孔明)が度々行った北伐をもってしても落とせなかった長安。状況は違えども洛陽と並ぶ中国の二大都市の一方を陥落させた西涼軍は大したもの。曹操(孟徳)が実質的に中国を支配して以来、長安が曹操(孟徳)以外の勢力に渡ったのはこの時だけなのですから…。
この戦いでは最終的には敗れますが、再起した馬超(孟起)、馬岱が劉備(玄徳)に仕え、曹操(孟徳)の「魏漢」に対抗する「蜀漢」にて大活躍することとなります。三国志を語る上で欠かすことのできない勢力である馬一族の台頭はここから始まるのです。