史上最高の軍略家! 魏と蜀を蹴散らした天下の豪傑【呂蒙】②

史上最高の軍略家! 魏と蜀を蹴散らした天下の豪傑【呂蒙】②

魯粛に認められていく呂蒙は、曹操や関羽とも対決していき、徐々に名を天下に知らしめていきます。孫権からの信頼も厚くなっていくさまは、周瑜にも匹敵する将軍であることを意味していきます。ここでは呉の重鎮となっていく呂蒙をみていきます。


魯粛から実力を認められる

呂蒙は功績を挙げていったとはいえ、呉の重臣たちにはそれほど受け入れられているものではありませんでした。とはいうものの、呉では周瑜の影響力が強く、呂蒙も周瑜があってこそ活躍できていると見なされていた節があります。

周瑜の後任となった魯粛もその一人でした。魯粛はあるとき呂蒙の陣を見舞いました。かつては呂蒙が武勇に身を任せていたので、魯粛は嫌味のように呂蒙にこれからの成り行きを質問してみると、呂蒙はいとも簡単に答えてみせました。

しかも、頭の切れる魯粛がたじたじになるほどであり、猛勉強していることを示しました。呂蒙は魯粛に献策するほどであり、先を見通す眼は周瑜や魯粛に精通していることをうかがえさせました。魯粛は関心し、呂蒙の評価を改めたといいます。これが「呉下の阿蒙に非ず」という逸話になります。

戦いの中心となっていく

赤壁の戦いで大敗したとはいえ、曹操の実力は群を抜いていました。曹操は漢中を支配しようとして馬超を倒し、中原を確実なものにしました。西への兵力を割き、孫権対策への動員数を増やすことが可能となっていきます。

曹操は213年になると、赤壁以来の大軍を動員して南下してきます。孫権は自ら馬を引いて進軍していきました。両軍が決定打に欠けた状況が続きますが、甘寧が決死隊を募り、100人ほどで夜襲をかけます。これが曹操軍の不意を突く形となり、一時孫権軍が優位に立ちます。

しかし、曹操は軍を立て直して孫権軍の将兵を討ち破っていきます。呂蒙は戦いの前に土塁を構築しておいて、曹操軍の足止めを図っていましたが、これが見事に嵌り、曹操軍は思い切って南下することができませんでした。孫権は無事に帰還することができています。

曹操は退却後も手を休めず、計略で呉の土地を襲います。合肥に近い皖を本営として、曹操は廬江太守に皖で屯田させ、住民の反旗も誘いました。呂蒙は兼ねてから皖の肥沃さに注視しており、このままでは曹操軍も増強されてしまう危険性を感じていました。

呂蒙は孫権に皖を攻めておくように進言し、出陣が許可されました。呂蒙は甘寧を先鋒にしたて、敵軍の備えが万全でない状態で一気に攻めてしまおうと言い放ちます。精鋭を引き連れて呂蒙も攻めたて、明け方には壊滅させました。呂蒙の圧勝に終わったこの戦いで功績が認められ、正式に廬江太守に任命されています。この戦い以降、孫権からの信頼は揺るぎないものになっていきます。

しばらくすると、今度は反乱が勃発していきます。特に廬陵で起きた反乱は呉の武将たちが鎮圧できないほどに膨れ上がっていました。たまりかねた孫権は、呂蒙を呼び戻して出陣を命じています。呂蒙はその期待に応えて瞬時に反乱軍を鎮圧し、首謀者のみを処罰して、他の兵たちはすべて許して解放しています。これにより、孫権の器の大きさを示すことになり、呉の基盤を安泰させていくことにつながっていきます。

孫権からすると、兄の孫策政権を支え、赤壁の戦いで大勝利に導いた大黒柱の周瑜が亡くなり、かなり不安になっていたことでしょう。しかし、呂蒙の活躍は孫権を大いに安心させることになっていきます。

荊州へのプレッシャーをかける

呂蒙が各地で戦いに明け暮れるころ、荊州より西の地方は情勢が大きく変貌していきました。劉備(玄徳)が諸葛亮の進言に伴い、益州で劉璋を降伏させて領地を拡大させていきます。周瑜亡きあと、荊州の争奪戦では劉備(玄徳)が益州を手に入れるまでの仮領地となっていましたが、劉備(玄徳)は一向に荊州を返還する気配はなく、孫権は使者を送ります。

もとより曹操と孫権をけん制するために、荊州を返す気など全くなかった諸葛亮は、涼州を制圧すれば荊州を返還する気があると劉備(玄徳)から伝えさせます。もちろん、劉備(玄徳)の勢力では涼州は曹操との激戦になるのは分かっていたことであり、現時点での戦力では到底無理といえる内容でした。

この返答に激怒した孫権は、都督の魯粛と呂蒙を荊州に派遣して劉備(玄徳)にプレッシャーを与えようとします。劉備(玄徳)の強気の姿勢には荊州の守備に当たるのが絶対的な信頼を寄せる関羽が担当していたからといえます。劉備(玄徳)が益州に入る頃、従軍していたのは関羽や諸葛亮ではなく、黄忠と魏延、それに法正とホウ統でした。比較的新しい戦力で臨んでいます。

これは赤壁の戦い後、益州を支配するまでに荊州は大激戦が予想されたので、諸葛亮は自らと関羽・張飛・趙雲といった強者を終結していました。益州の劉璋はホウ統や法正がいればたやすく落とせると踏んでいたのでしょう。しかし、ホウ統が早くに戦死したので、諸葛亮は張飛や趙雲を引き連れて益州入りしています。

言ってみれば主だった将は関羽のみという布陣でしたが、それでも十分曹操や孫権の牽制にはなっていたといえます。

荊州の領地を奪取していく

孫権軍は215年、魯粛が1万の軍を率いて荊州へと赴きます。もとより孫権陣営の中でも劉備(玄徳)穏健派の代表的存在といえる魯粛は、本気で関羽と対決する気はなかったといえます。しかし、戦闘モード全開の呂蒙はそうはいきません。荊州の支配を関羽から解き放とうと、荊州南部に兵を進めていきます。関羽と魯粛がにらみ合っている頃、呂蒙は瞬く間に長沙や桂陽を撃破し、降伏させていきます。呂蒙の実力を侮っていた関羽は檄を飛ばしますが、呂蒙はさらに兵を進めて南群を制圧していきました。

呂蒙は魯粛と関羽が対峙している益陽にまで進軍すると、さしもの関羽も一大決戦を望んでいきます。しかし、この機を逃さずと曹操が漢中に進軍する一方が入ると、両陣営に緊張が走ることになります。劉備(玄徳)と孫権が争うことは、より勢力が大きい曹操の進軍を許すことになるからです。さすがの関羽も仕方なしに魯粛との会談を設けています。魯粛は劉備(玄徳)との対決を望んでいないことを明らかにし、この会談は成功を収めています。また、関羽のとりなしもあり、劉備(玄徳)と孫権の和睦が成立しました。これには諸葛亮も呂蒙の実力を見誤っていたことが関係しています。

呂蒙の活躍によって、孫権は晴れて荊州の長沙と桂陽を支配することが成功しました。孫権側からすると、本来ならば関羽を追い出しておきたいところでしょうが、関羽と本気で戦うとなると、呂蒙や魯粛も大ダメージを受けるのは目に見えています。ここで手を打っておくことが呂蒙には得策と見えたといえます。

天下に名を知らしめていく呂蒙

この荊州の一戦によって、劉備(玄徳)と孫権の同盟関係が復活していきます。これにより、共同で曹操と対決していく三国関係が始まりを迎えることとなっていきました。また、今後呂蒙の存在は大きく天下に広められていくことになります。しかし、呂蒙は本気で関羽との対決を避けたわけではありませんでした。呉が本当に安泰するには荊州を奪取するのが一番の近道であると呂蒙は見ていたのです。

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