蜀を陰ながら支えた武将!目立ちはしないが優等生な龐統の人生を振り返る!
蜀には心優しく民を思う武将が集まったとされています。もちろん関羽のように三国志に絶対欠かせない存在になった人もいれば、陰ながら蜀を支えた武将もいます。 そこで今回は目立ちはしなかったものの蜀を支えた武将である龐統について紹介します。
劉備(玄徳)と諸葛亮(孔明)は「水魚の交わり」と言われるほど密接な関係だったようです。これには義兄弟の関羽(雲長)と張飛(益徳)もヤキモチを焼いたのだとか。しかし、史実では密接な関係であると同時に微妙な関係にあったことも読み取ることができます。
諸葛亮(孔明)と同等かそれ以上の才能を持つとも言われた龐統(士元)。赤壁の戦いの頃から三国志に登場しますが、その才能を十分に発揮することなくこの世を去ってしまいます。短くも深く色濃い生涯となる「龐統(士元)の三国志」を見て行きます。
今さら聞けない三国志の疑問「どんな時代の話?なぜこんなにも面白い?」
三国志の小説やドラマなどをひと通り見てきたけれど、話の内容はだいたい理解できているが時代背景や物語の進み方が蜀目線で進められていることに疑問がある方はどれくらいいるでしょう? 本記事ではそのような今さら聞けない三国志の疑問についてご説明いたします。
蜀が建国された当初は、諸葛亮も健在で他国に脅威となっていました。しかし、諸葛亮の没後は、魏に攻められることもあり、蜀は安泰とはいえない存在となっていきます。その中で蜀を守り抜いた最大の功労者ともいえるのが王平です。その実力をみていきましょう。
蜀を建国し初代蜀の皇帝になった劉備(玄徳)、白馬将軍と呼ばれ群雄を恐れさせた公孫瓚の師匠は盧植(子幹)という名士です。劉備(玄徳)と公孫瓚に学問を教えた盧植(子幹)とはどんな人物なのでしょうか?
劉備(玄徳)の師で三代に渡り天下に名が響いた盧植と子孫たち①
劉備(玄徳)の学問の師匠といえば、儒学に精通した盧植の名が挙がります。盧植は後漢王朝に仕えながら、常に世の中の平和を考え、悪徳宦官や董卓など暴挙を行う勢力に対し、毅然とした態度を取り続けました。盧植はその子孫たちも歴史に名を残す活躍をしていますが、まずは盧植の人物像をここで紹介していきます。
三国志演義は劉備(玄徳)や諸葛亮(孔明)といった蜀の武将、官吏を贔屓した描写が多いです。実際その場ではなにもしていないのにさも獅子奮迅の活躍をしていたことになっていたり、神様のように描かれることもしばしばあります。それでは三国志演義にある蜀将にまるわるフィクションをお届けしましょう。
荊州を支配した劉表は、三国志演義では優柔不断で頼りない印象を受け、劉備や孫策の引き立て役になっていました。しかし、三国時代には激戦区となる荊州を、存命中に実効支配していたのは劉表の影響力が強かったからといえます。そんな劉表の凄さをみていきましょう。
赤壁の戦い後の混乱に乗じて荊州を占領してしまった劉備軍。呉はあの手この手を使ってこれを排除しようとしますがウマク行きません。兵を差し向けてもダメ。外交交渉をしてもダメ。業を煮やした周瑜(公瑾)は策を講じます。孫権(仲謀)の妹である孫尚香と劉備(玄徳)を結婚させるというモノです。
中国人は世界中どこの国にも移住して、独自のコミュニティを築いています。いわゆる「華僑」と呼ばれる人たちのことですが、実はこういった外国に住む中国人のルーツとなっているのは、三国時代にあったという話もあるのです。
三国時代の知将として代表的なのは蜀の諸葛亮(孔明)と魏の司馬懿(仲達)です。三国志のシミュレーションゲームでも、軍師として誰もが欲しがるビッグネームですが、呉の孫権(仲謀)配下には彼らのような大物軍師はいませんでしたが、知将として名高い武将たちがリレー形式で孫一族を支えていったのです。
壮大な国盗りゲームである三国志の勢力図がほぼ固まるのが夷陵の戦いです。関羽を討ち、荊州を孫権が奪いとると、関羽の仇討ちと荊州奪還を目指して劉備(玄徳)が出陣しますが、敗れます。その結果、魏・呉・蜀漢の三国の領土が決定します。一体どんな戦いだったのでしょう
曹操はなぜ赤壁の戦いで大敗することになったのでしょうか。三国志の時代の水軍と共に紹介していきます。
以前このコーナーで「ハイパーおじいさん」たちを紹介しましたが、武将だって負けていません。老いてますます盛んな「おじいさん武将」たちを紹介しましょう。中高年どころか熟年の星となる獅子奮迅の活躍を見せてくれますよ!
「ウマ娘」にも登場してほしい? 三国志を駆け抜けた名馬たちとは?
三国志には「南船北馬」という言葉があります。これはいったいどういう意味でしょうか。三国志は戦の歴史でもあり、多くは騎馬による一騎打ちや戦争の描写が多く見られます。なかでも名のある武将が駆る名馬たちは、その名を歴史に残しているのです。
赤壁の戦い後 荊州南部侵攻は初めて劉備軍優勢で実行される計画
赤壁の戦い後、荊州城、襄陽城、南城を取り荊州北部を制圧した劉備(玄徳)。呉国との紛争を抱えながらも荊州南部侵攻に乗り出します。荊州全土を押さえ、天下三分の計の足掛かりとする諸葛亮(孔明)の大計を実現するための行動の始まりです。
三国志・徐州牧の陶謙が劉備に徐州を譲ったプロセスとややこしい勢力関係を整理
劉備は陶謙から徐州牧の座を譲られます。そして味方だった袁術に攻められ、敵だった曹操を頼ることになるのです。なぜそのようなことになったのでしょうか。
一般的には「昨日の敵は今日の友」ですが、三国志では「昨日の友は今日の敵」という場面もよく出て来ます。呂布(奉先)や袁術(公路)を倒した頃、劉備(玄徳)と曹操(孟徳)は味方同士でしたが、赤壁の戦いにおいてはもはや「敵」。そして、赤壁の戦いに勝利した呉、劉備連合軍も南郡の攻防において徐々に亀裂が生じて来ます。
まさに波乱万丈! 劉備(玄徳)に軍略を教えた徐庶(元直)の生涯
劉備(玄徳)に仕える軍師といったら真っ先に諸葛亮(孔明)を思い浮かべることでしょう。しかし、彼の存在を劉備(玄徳)に教えた人物が徐庶(元直)です。ここでは波乱万丈に満ちた徐庶(元直)の生涯について紹介します。