中国人が世界中に住んでいるのは三国時代に理由があった?

中国人が世界中に住んでいるのは三国時代に理由があった?

中国人は世界中どこの国にも移住して、独自のコミュニティを築いています。いわゆる「華僑」と呼ばれる人たちのことですが、実はこういった外国に住む中国人のルーツとなっているのは、三国時代にあったという話もあるのです。


世界各国に移住している中国人たち

ここ何年かで、日本国内で外国人の姿を見かけることが多くなったと感じる人は少なくないでしょう。もちろん外国人旅行者が増加を続けていることもありますが、日本に移住する外国人の数も年々増加しているのです。なかでも目立つのが中国人ではないでしょうか。

国連が2015年に発表した移民に関する報告書によると、全世界で中国は移民出身国第4位。インド、メキシコ、ロシアに次ぐ数で、およそ1,000万人にのぼります。彼らは、それぞれ移住先の国でコミュニティを形成します。日本では横浜や神戸、長崎に中華街を作り、独自の文化を作り上げていますよね。ただ、これは何も日本に限ったことではありません。

イギリスには首都・ロンドンに「ソーホー」というチャイナタウンがありますし、ドイツのベルリンやフランスのパリにも大きな中華街が形成されています。もちろんアメリカにも、ニューヨークのマンハッタンになんと9つのチャイナタウンがあります。このように中国系の移民は世界130カ国におよび、それぞれの国に中国文化を育んでいます。いったい、なぜ中国人は自国での生活を捨て、世界中に散らばるのでしょうか。

華僑という人々

海外で暮らす中国人のことを「華僑」と呼びます。これは中国本土、台湾、香港、マカオ(澳門)以外の国家・地域に移住しながら、中国国籍を持つ「漢民族」の人々のことを指します。華僑の人々は、世界各地の国や地域で暮らし、そこで働いてお金を稼ぎ、本国へ送金するといった生活を営んでいます。

華僑は各国ではマイノリティですが、同郷の人たちとコミュニティを形成し、そして同業者集団ができあがり、その土地の経済や政治にまで影響力を持つようになります。いわゆるチャイナタウン(中華街)であり、華僑の人々は結束が固く、資金面でも融通し合うことで同郷の華僑が商売を始めるために援助するといったことが行われます。これが、世界各国で中国人が根付くために経験で得た知恵であり、いまだに多くの中国人が世界中に移住する理由のひとつでもあります。

日本人は、とかく故郷に対して愛着を持ち、いずれは地元に戻るといった考え方が強いのですが、中国人は平気で故郷を捨てて海外に移住します。これを不思議に思う人も多いのではないでしょうか。彼らは、なぜ簡単に海外へと出ていくことができるのでしょうか。これには、三国時代に行われていた民の大移動が関係しているという説もなくはないかもしれません。

董卓(仲穎)による遷都で翻弄された人々

もともと中国は古くから「易姓革命」の国といわれています。これは、天の神が自分に代わって王朝に国を治めさせるのですが、その王朝が徳を失ったと天の神が見切りをつけたときに革命が起こり、新しい王朝に改めるという儒教の考え方です。三国志以前は、こうした易姓革命によって旧王朝の人民は皆殺しにされ、新しい国ができるといった放伐が繰り返されてきました。

こうした易姓革命が無風状態だったのが三国時代です。後漢の霊帝は暗愚で、政治的混乱を引き起こし、いわゆる「徳を失った」状態ではあったのですが、それに変わる新王朝が興りませんでした。霊帝の死後、後漢の帝位についた少帝を排し、献帝を擁立して実権を握ったのが董卓(仲穎)でした。彼は暴虐の限りを尽くし、王朝を専横しましたが、なぜか帝位に就こうとまでは考えなかったようです。

その董卓(仲穎)が相国に上ると、朝廷内で靴を履いたまま昇殿して、さらにゆっくりと歩くことと帯剣が許されます。これは、当時の中国では朝廷内で剣を身につけることが許されておらず、しかも必ず移動は小走りでなければならなかったところ破格の待遇を得たということです。もちろん董卓(仲穎)が徳に優れているために許されたわけではなく、傀儡の献帝に迫って許可を分捕ったに過ぎませんが。

このような董卓(仲穎)の専横に対し、袁紹や袁術といった名家の有力な武将たちは反発します。そして、ついに橋瑁(元偉)の呼びかけで反董卓連合軍を結成します。これに恐れをなした董卓(仲穎)は、時の都であった洛陽から長安へと遷都を決行します。その際、洛陽にあった歴代皇帝の墓を暴き、財宝を奪って、しかも宮殿と民家をすべて焼き払って人民を引き連れて移動したのです。その数、数百万人とも言われています。このように、人民は時の権力者によって望まない形で故郷を捨てざるを得なかったということがありました。

劉備(玄徳)の逃避行に従った人民たち

劉備(玄徳)が新野に劉表(景升)の客将として駐屯していたのですが、これは曹操(孟徳)軍を牽制する守将としての意味合いがありました。しかし、劉表(景升)が病に倒れ、跡目を息子の劉琮(字は不明)が継ぐと、蔡瑁(徳珪)の進言に従ってあっという間に曹操(孟徳)に降伏してしまいます。この際、劉備(玄徳)には何の相談もありませんでした。

これにより、新野の劉備(玄徳)軍は前に曹操(孟徳)、背後に劉琮という敵対勢力に挟まれるという事態になりました。とても敵わないと見るや、劉備(玄徳)軍は劉琮や蔡瑁(徳珪)らの襄陽へは向かわず、江陵に在留する劉琮の兄・劉琦(字は不明)を頼って逃げることになります。これに劉備(玄徳)を慕う荊州の人民数万人が付き従ったといわれています。つまり、当時の人民は権力者に無理やり移動を余儀なくされるだけでなく、主とあおぐ君主の移動には、喜んで付いていくということもあったのです。

このように中国の名もなき人民たちは、君主や武将の都合によって中国全土のあちこちに移動させられることが頻繁にありました。こういった歴史背景からも、現在の中国人が世界各国に散らばって、故郷を捨てて移住することへの抵抗がない性格といったものが垣間見れるのかもしれませんね。

諸葛家に見る「一家離散」の考え方

また、中国人の気質を表す言葉として「一家(一族)離散」という考え方があります。有名なのは諸葛亮(孔明)一家の話です。特に三国時代のような乱世では、一家が同じ場所に暮らしていると政局次第では一族皆殺しという憂き目に遭うこともあります。子孫を残してつないでいくという目的で、一家の中でも敵国同士となっても別れ別れになるべきだという考え方が根底にあったのです。

そのため、劉表(景升)支配下の襄陽には諸葛亮(孔明)と弟の諸葛均(字は不明)、孫策(伯符)、孫権(仲謀)の呉には2人の兄である諸葛瑾(子瑜)が士官し、一族は呉に根付いていったというケースもあります。

諸葛瑾(子瑜)は弟たちが劉備陣営におり、特に諸葛亮(孔明)は軍師として要職に就いていたこともあり、呉陣営の武将たちから多少の疑いを持たれることもありました。しかし孫権(仲謀)のもとに劉備(玄徳)の使者として訪れた諸葛亮(孔明)を説得して、陣営に加えることはできないかと諸葛瑾(子瑜)に訪ねたところ、「私が我が国を裏切らないように、弟もまた劉備(玄徳)を裏切ることはないでしょう」と断りました。この一件により、孫権(仲謀)は諸葛瑾(子瑜)をますます信頼して重用したのです。もちろん、諸葛瑾(子瑜)の性格もあるでしょうが、中国人が家族や親戚、生まれ育った土地よりも現在住んでいる場所、国のほうを大事に考えるという特徴をよく表しているエピソードではないでしょうか。

まとめ

中国人民は三国時代をはじめ、歴史的にも時の政権や権力者の都合によって、さまざまな土地へ移動させられ、故郷を捨てざるを得ないという歴史的な背景があります。そのため、土着意識といったものが薄いような印象を受けることがあります。しかし、これは一族が途絶えないよう、さまざまな国に散らばって生き、そこに根付くことで血をつないでいく生きるための工夫とも言えるかもしれません。

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